11-6.母の決意

 伊織は、それから両親の死について語った。母親は四年前に病死、父親は昨年の夏に事故死。そういった辛い過去がある大阪から逃げ出したかった事、周囲に無理を言って東京に戻ってきた事。そして、今は前に住んでいた親の持ち家で、一人暮らしをしている事も。

 ちゃんと話せるのか不安に思っていたが、彼女はしっかりと自分の言葉で冷静に話していた。そこには悲しみなどの感情はなかった。ただ、起こってしまった事実を話している、という感じだ。

 こうして自分から話せるようになっただけでも、もしかすると伊織は昨年よりも随分強くなったのかもしれない。それとも、両親の死を受け入れ始めたのだろうか。昨年までは、その事実から逃げていたように思う。その事実を認識したくなくて、東京に逃げてきたのではないか、とさえ感じていた。

 或いは、強がって隠しているだけなのだろうか。ただ、それでも、伊織は少し変わってきていると思う。その辛い悲しみを、ゆっくりと咀嚼して受け入れていこうとしているのだ。

 到底、まだまだ受け入れ切れるものではないだろう。それでも、彼女は少しずつ少しずつ、前に進んでいるのだ。彼女の話ぶりから、俺はそう感じた。


「そんな……二人ともだなんて」


 母は、口を手で押え、信じられない、という表情をしていた。瞳にはうっすら膜が張っていた。父は目を瞑り、天を仰いでいた。

 両親は、俺と違って、麻宮夫妻の記憶もある。それならば、そのショックは計り知れないだろう。知っている人が亡くなるのと、知らない人が亡くなるのは雲泥の差だ。俺にはまだその経験がないのだけれども、想像しただけで辛い。

 当たり前だが、死んでしまった人とは、二度と、もう直に話せないのだ。声も、表情も、全て過去の記憶や記憶媒体から呼び出すほかない。それは、過去であって、今のその人ではない。その人の肉声や体温を、二度と感じる事はできないのだ。

 身の周りの誰かがそうして旅立った時、俺は耐えられるのだろうか。両親や恋人、友達に先立たれて、俺はまともに精神を保っていられるのだろうか。誰かが亡くなる事など考えたくはないが、可能性はゼロではない。この世に絶対などないのだから。

 俺が一人でそんな事を考えていると、母は近くにあった新聞を持ってすっと椅子から立ち上がった……かと思うと、新聞を丸めて、いきなり俺の頭を引っぱたいた。スパン、と気持ちのいい音がリビングに響く。


「え……? ええええ?」


 まさかの母の行動に、俺も伊織も、親父もぽかんと口を開いた。


「ちょ、ちょっと待った。なんでこの流れで俺が殴られるの?」

「このバカ息子、どうしてもっと早く連れてこなかったのよ!」

「いや、だって……その……」


 俺の言い訳を聞く前に、母はそのまま伊織のそばに行き、そして、そっと伊織の頭を胸に抱き抱えるようにして寄せた。


「あ、あの、お母さま……?」


 困惑していた伊織だったが、母はそのまま伊織を離さなかった。まるで親が子供を抱くかのように、優しく伊織の髪を撫でた。


「あっ……」

「強がらなくてもいいの。そんな辛い過去なんて、簡単に乗り切れるはずないわ。無理に大人になろうとしなくていいから。悲しいなら悲しい、寂しいなら寂しいって言っていいのよ」

「お母さ……」

「辛かったでしょう? たった一人で……寂しかったでしょう?」


 母のその言葉を聞いた瞬間……堤防が壊れたかのように、伊織の瞳からぶわっと涙が溢れた。母さんの腕の裾を強くぎゅっと握って、何とか泣くのを我慢しようとするが、感情を抑えられなかったようだ。彼女から、隠れていた慟哭が流れ出た。そんな伊織を見て、母さんも泣いていた。

 母さんも父親と母親――すなわち、俺のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに当たる人物だが――を亡くしていた。二人とも老衰と病死だったが、親を亡くす辛さを理解できるのだろう。

 親父は俺を一瞥して顎でくいっと外を指して、立ち上がって部屋を出た。二人にさせてやれ、ということらしい。俺もそれに続いて、父の後を追った。


 狭い庭で、男二人植木をしばらく無言で眺めた。家の中から、二人のすすり泣く声が少しだけ漏れている。親父は大きく溜め息を吐いてから、天を仰いだ。


「大変な人生を歩んでるんだな、あの子は」


 親父が唐突に言った。俺は黙って頷くしかなかった。


「そんな素振り一切見せずに毎日学校来てるよ。俺だって気付かなかった」

「強い子だよ。あの若さで」


 家の前を通りがかった近所のおじさんが、俺達に気付いて、頭を下げた。それに応えるように、俺達もぺこりと下げる。


「お前は知らなかっただろうが、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが死んだ時、美樹も結構大変だったんだぞ。特にお祖父ちゃんが亡くなった時はひどかったな。美樹はお父さんっ子だったから、毎晩泣いててな」


 初耳だった。それは、きっと意図的に俺に見えないところで出していた感情なのだと思う。葬式の時は泣いていたが、そこまでとは知らなかった。俺の知らない母親の姿だった。


「きっと、あの子も一緒だろうさ。いや、美樹より辛かったのかもしれない。まだ美樹には俺や真樹がいたからな……きっと、あの子は一人で泣いてたんだろう」


 おそらく、そうだと思う。確かに、彼女の心は傷だらけで、いつ開いてしまうかわからない傷をたくさん抱えている。それでも、俺や友達の前でもなるべくつらい感情を出さないようにしていたのだ。本当に強い女の子だ。


「お前以外には知ってる奴は? あの子の事だから、多分言ってないんだろ」

「だな。あいつの幼馴染とその両親、あと学校の担任くらい」


 マスターも知ってるみたいだけど、今はいいか、と思って、挙げなかった。


「意地っ張りというか、強がるところは変わってないな、伊織ちゃん」


 昔を思い出したのか、親父は苦笑いをした。俺が覚えていない伊織を、親父が覚えているのは、少しずるいな、と思ってしまった。俺には幼少期の伊織の記憶が一切ないからだ。


「大変だぞ、あの子を支えるのは」

「それでも、俺は伊織を支えたいと思ってるよ。少なくとも、俺にとってはあいつは特別で……あいつの抱えてるものを少しでも抱えてやれたらって思ってる」


 あいつにとっての俺がどの程度の存在なのかはわからないけれど、と付け足した。


「……そうか。それを聞いて安心したよ、我が息子よ」


 親父は茶化したように言って、ニッと笑った。それから、しばらくは無言で過ごした。

 春の空は晴れ渡っていて、どこからか桜の花びらと白い羽が飛んできた。

 果たして、俺は本当に伊織を支えられるのだろうか。付き合ってから今日にいたるまで、幾度となく考えた疑問が、俺の頭を過る。さっき親父には支えたいと言ったが、その自信が全くなかった。

 どうすればいいのか、高校生の俺に何ができるのか。できる事なんて、限られている。それでも、俺は彼女を支えたい。ただ純粋にそう思う事しか俺にはできなかった。

 すると、玄関ドアがゆっくり開いて、母さんが顔を出した。


「ごめんなさいね、ちょっと色々私も思い出しちゃって」

「伊織は?」

「伊織ちゃんももう落ち着いてるわ」

「そっか、ならよかった」

「真樹は本当に伊織ちゃんが好きなのねえ……」


 うぐ。親にそうやって言われるとめちゃくちゃ恥ずかしい。好きだけど。


「真樹が伊織ちゃんの事を好きなのは昔からだろう」

「あら、そうだったわね」


 二人はからかうような視線をこちらに向けて、そんな会話を交わす。そうだったのだろうか。伊織の事というか、幼稚園の頃の記憶がなに一つ残っていないので、親から言われたその言葉にも、ピンとこなかった。

 二人に続いて、俺はもう一度玄関扉をくぐった。その際、両親は何やら目配せをしていた。母さんの視線から何かを感じ取ったのか、親父はこくりと頷いた。

 俺には全く読めなかったが、二人は目配せだけで意思疎通ができたようだった。俺と伊織も、長く一緒にいれば、それだけで言いたい事がわかるようになるのだろうか。

 ふと、そんな事を考えていた。

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