11-5.驚愕の過去

「伊織ちゃんはどこに住んでいるの?」


  紅茶を飲んでお菓子を摘んでいる際、伊織の住んでいる場所の話になった。これもまた、話の流れとしては当然あるだろう。


「南町の三丁目です。ここから十分くらいの……」

「ああ、じゃあ加藤さんの家か? そういえば加藤さん去年の夏頃異動だって言って引っ越してたな」

「はい。多分その家だと思います。前に住んでいた方は加藤さんという方だと伺っているので」


 親父の質問に伊織が答えた時、母がやはり首を傾げて、伊織をじーっと見る。何か引っかかっている……そんな表情だった。


「……? あの、どうかしましたか?」


 今回は母の視線に気づいたのか、伊織も首を傾げた。


「あ、ごめんなさい。少し考え事をしてて」

「も、もしかして私、何か失礼な事言っちゃいましたか⁉」

「違うの、違うのよ。私の思い過ごしかもしれないから」


 伊織が慌てたので、母さんも訂正する。

 ただ、母さんのその煮え切らない態度が気に食わなかった。何に引っ掛かっているのだと思う。せっかくこうして伊織も馴染んできているというのに、変な空気にしないでほしい。


「母さん、なに? さっきから」


 そんな母の態度に我慢できず、思わず訊いてしまった。母さんがこうもわかりやすく怪訝そうな表情を見せるのは珍しかったし、その態度にも違和感があったからだ。何かしら感じたとしても、本来なら当人がいる前で態度に出す人ではない。


「……うん、そうね。やっぱり訊いた方がいいわよね。伊織ちゃん、あなた、昔もその家に住んでなかった?」

「え? あ、はい……小学校三年の時までは」

「やっぱり!」


 パン、と母さんは嬉しそうに手を叩いた。俺たち三人の視線が母さんに集まった。


「伊織ちゃんのお母さん、ピアノの奏者よね⁉」

「はい、そうですけど……?」

「ああ、やっぱり! あの伊織ちゃんだったのね! 絶対どっかで見た事あると思ったのよ! こんなに大きくなってぇ……!」

「え、え……っ⁉」


 母さんがいきなり身を乗り出して、伊織の手を両手で握った。当人の伊織はおろか、親父も俺も目が点である。なに、どういう事?


「なんだ、美樹。伊織ちゃんの事知ってたのか?」


 おそらくは俺達に共通していたであろう疑問を、父が訊いた。


「何言ってるの、お父さん! 麻宮さんよ、麻宮さん! よく昔一緒にご飯食べたじゃないの」

「なに……?」


 そう言って、父も伊織をじーっと見てぶつぶつ何か言い出した。


「麻宮、麻宮……あ、思い出した! 麻宮さんとこのってなると、あの伊織ちゃんか⁉ あー! そう言われてみれば、面影が……どうして気付かなかったんだ!」


 父も何か思い出したのか、興奮気味に自分の頭をぱしんと叩いた。伊織も俺も、何がなんだかわからない様子で、互いに顔を見合わせる。


「え……? なに、親父も母さんも伊織の事知ってんの?」


 俺がそう聞くと、二人が顔を見合わせ、少し困ったような、でも何だか優しい笑みを交わしていた。やっぱりか、とでも言いたげなその表情に、俺は更に疑念を深める。


「あなた達、昔よく一緒に遊んでたのよ。幼稚園が同じで……やっぱり、気付いてなかったのね?」


 母のこの言葉で、俺と伊織は顔を見合わせる。


「え……?」

「え……?」

「「…………」」


 お互い見つめ合って、時間が止まった。そして、その言葉の意味を理解した時、同時に叫んでいた。


「「えぇぇー⁉」」


 意味がわからなかった。まったく予期しなかった過去がそこにあった。

 嘘だろ? 伊織と俺が過去に会った事があった? というか遊んでいて親同士が知り合いだった? 

 とてもではないが、信じられる話ではなかった。俺にはそんな記憶が一切なかったからだ。というより、幼稚園の頃の記憶が何一つないのだ。


「呆れた。あなた達、それ知らなくて付き合ってたの?」


 こくこく、と頷く俺達。


「まあ、もう十年以上前だし、仕方ないかもしれないわねぇ。当時は当時で、色々あったものね」

「幼稚園のアルバムならあるんじゃないか? よく写真撮ってただろう、確か」

「そうね、ちょっと探してこようかしら」

「俺も行こう。真樹の幼稚園の頃のだと、納戸の奥だろ、多分」


 二人は言うなり立ち上がって、二階に一緒に上がって行った。取り残された俺達は、まだ信じられない様子で、お互いをまじまじと見た。


「え、まじ、なの……?」

「私も……全然気付かなかった……」


 そして、二人で噴き出した。


「うそ? ほんとに? ほんとに真樹君と、幼稚園の頃知り合いだったの?」

「いやいやいや、冗談だろ?」

「前にソウルメイトだなんて言ってたのに、知り合いだったなんて……しかも遊んだ事もあるとか」

「あれだけ魂だなんだ言ってかっこつけてたのにな……ぷっ」

「あはははっ」


 二人して笑った。俺達にその記憶はないみたいだ。でも、俺達はきっとどこかで繋がっていて、本能的にどこかで覚えていたのかもしれない。

 思い返せば、俺と伊織の仲の良くなる速度は、異常だった。女の子慣れしていない俺が伊織とはすんなり話せて、まるで前から知り合いだったかのように、会話が弾んでいた。

 あれは、元々知り合いだったからか、どこか本能的に気を許していたということなのだろうか。

 俺達は一頻り笑った。あれだけかっこつけてソウルメイトだなんだと話していたのに、魂じゃなくて、現世で、この肉体で会っていたのだ。

 そうであれば、心のどこかで覚えていても、おかしくない。


「そっかぁ……でも、納得できるかも」

「え?」

「初めて教室に入った時ね、真樹君と目、合ったの覚えてる?」

「ああ、覚えてるよ」


 きっと、俺が伊織に吸い込まれそうになったあの瞬間だ。あの時から、俺にとって彼女は特別だった。


「私ね、不思議な感じがしたの。どこかで会った事ある気がするってずっと思ってて……」

「あ、それ俺も! 俺も、あの時懐かしい気持ちになった」


 初めて会った時、その瞳に吸い込まれそうになったと同時に、とてつもない懐かしさを感じたのも事実だった。そんな感覚まで共有していた事を今更知って、また嬉しくなる。

 俺達は見つめ合って、お互いに微笑みを交わした。彼女の瞳にはうっすらと膜が張られている。


「ずっと、繋がってたんだね……」

「みたいだな」

「うん……」


 テーブルの下で、自然と手を繋いでいた。彼女の温かみが手のひらを通じて伝わってくる。俺達の人生は、ずっと昔に一度交わっていたのだ。

 前世からではなかったかもしれないけれど、十年以上前に、繋がっていた。それが幾年の時を経て、こうして巡り合えた。それもまた運命的で、そう考えるととても嬉しい。


「あったぞー!」


 二階から親父の大きな声が聞こえてきた。きっとアルバムを発見したのだろう。それから間もなくして、階段から二人が降りてくる音がしたので、俺達は慌てて手を離した。


「ほら、どーだ!」


 じゃーん、と親父がアルバムを広げた。そこには、小さな俺と、小さな伊織が写っていた。二人が仲良く砂場で遊んでいる写真、手を繋いでいる写真、泣いている写真もあった。

 伊織は、ほんとに今のまんま小さくなっている、という感じだ。逆に、俺はほとんど面影がない気がする。

 あれ?

 そういえば、この小さな伊織をどこかで見た気がする、と思いながら記憶を漁っていると、夢だ。以前夢で、この小さな伊織が出てきた事がある。

 確か、虹を探している夢だった。なんとなくあの夢だけは、今でもぼんやりと覚えている。あの時はどうして小さな伊織を知っているのだろうと疑問に思っていたのだが、知っていて当然だ。その当時の伊織と、会っていたのだから。

 二人で恥ずかしい気持ちを感じながらアルバムのページをめくっていくと、思った以上に俺達の写真が出てきた。それだけ仲が良かったのだろうか。ただ、これだけ見ていれば、なにか少し思い出しても良いものだが、俺には全く当時の記憶がなかった。


「あ、真樹君泣いてる……可愛い」

「泣いてるとこ可愛いってひどいな」

「可愛いよ。それに、今と変わってない」

「そうか? 似ても似つかないだろ。伊織こそ変わってない」

「えー? 全然違うよー」


 俺達が肩を並べてアルバムをめくる様を、両親は何も言わずに優しく眺めてくれていた。ところどころ、伊織の両親も写っていた。彼女はどんな気持ちでこの写真を眺めているのだろう? 辛い気持ちになっていないだろうか?

 そう思って彼女の顔を覗き込むと、彼女はとっても嬉しそうにアルバムを眺めていた。どうやら、今は純粋に楽しんでいるようだった。思わずほっと胸を撫で下ろす。こんな場面でいきなり泣かれたら、俺もどうしていいかわからない。

 ピクニックの写真だろうか。小川のほとりで二人で写っている写真を見た時、母さんが口を開いた。


「あ、そういえば……」


 母さんが唐突に話したので、俺と伊織が顔を上げて母さんの方を見ると、母は悪戯そうに笑っていた。


「真樹、その時伊織ちゃんとキスしたって言ってなかったっけ?」

「はぁ⁉」


 な、な、なんだって⁉ 俺はこんな時からそんなマセた事をしていたのか⁉

 いやいや、ないないない。当時の俺がキスの重みを知っていたとは思えない。記憶はないが、小学生の頃ですらそんなマセた事を考えた事はなかったはずだ。何かの間違いだと思って伊織を見ると、彼女は「あ……」と呟いたかと思えば、顔を真っ赤にしていた。


「え、なんか思い出したの⁉」

「な、何も! 何も思い出してないよ」


 そんな伊織を見て、母さんはまたにやりと笑って、追撃を仕掛ける。


「確か、伊織ちゃんからキスしたのよね?」

「ちょっと、お母さま⁉」

「私も息子のチューを奪われてショックだったからなぁ。伊織ちゃんのお父さんなんて、それ知った時泣いてたわよ?」

「うぅ……」

「伊織ちゃんはその時から真樹の事が好きだったのね?」

「も、もう、許してください……」


 伊織が顔を上げれないくらい真っ赤になってしまっている。頭から湯気が出そうだ。


「俺はその話知らないぞ……」

「俺も全く覚えてねーよ……」


 置いてけぼりな親父と俺。しかし、そんな時分に俺がラブコメできていたなんて、本当に信じられない。幼馴染と幼稚園の頃キスしてたとか、どこのラノベの主人公だよ。

 それにしても変だな、と思った。

 小さな頃とは言え、キスまでしていたら、少しくらい覚えていてもいいはずだ。それなのに、全く記憶にない。これだけアルバムを見ても、何も思い出す事ができないのだ。なんだか、これはこれで不思議だった。


「それにしてもなぁ、麻宮さんも帰ってきてるなら一言連絡くらいくれてもいいのに。水臭い」


 親父がそういった時、俺と伊織は「あっ」と顔を見合わせて互いに顔を引き攣らせた。


「そうだ! 何だったら今度来てもらえばいいんじゃないか? こうして子供同士がまた繋がったんだから……もう、〝あの事〟も気にしなくていいだろ?」

「そうねえ。というか、麻宮さんも真樹の事気付かなかったのね。昨日泊めてもらったお礼も言わなきゃだし」


 これはまずい事になった。俺と伊織の思わぬ繋がりが発覚した事で、両親同士の繋がりがあった事もわかってしまった。これでは、伊織の家庭事情を隠し通す事も難しい。いつか話さなければならない事にせよ、タイミング的に今ではないと踏んでいた。

 どうしたものかと悩んだが、状況が状況だ。変にほじくられる前に、先に話しておいた方がいいかもしれない。


「あ、親父、母さん、その事について話があるんだけど……」

「待って」


 俺が話しだそうとした時、伊織に制止された。驚いて彼女を見ると、彼女は眉根を寄せて、いつもの困ったような笑みを浮かべていた。


「ちゃんと自分で話すから」

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