10-6.とある日の夕暮れ
ふわふわと空に浮かぶ夕日は橙色の光を校舎に差し込ませていた。その光は放課後の生徒玄関を何だか寂しく感じさせる。今日も一日が終わってしまった、と痛感させられるのだ。
今までは早く学校終われ! とばかり思っていたが、進路が決まっていない焦りからか、できるだけゆっくり時が進んでくれと願っている自分がいる。そして、そう願う時に限って時は早く進むのが世の理。
通常授業は今日までで、明日から短縮授業だ。春休みはもうすぐそこまで近づいていた。春休みが終われば当然俺は三年生になるわけで、必然的に受験生になってしまう。焦らずにはいられなかった。
「あぁっ、やっと今日も終わったなー! 疲れたぜチクショー」
俺の焦りとは全く対称的な台詞が横から聞こえた。発言者はもちろん穂谷信。その信の言葉に、伊織と眞下は呆れて鋭いツッコミを入れた。
「信く~ん……授業中も補習も寝てたのに、どうしてそんなに疲れるの?」
「そうよ。アンタ、絶対他の生徒の三倍は疲れてないから」
伊織がからかうように真実を言い、眞下がそれに続けて便上した。『三分の一も疲れてない』ではなく『三倍は疲れていない』という信の元気さを明示する眞下の表現が面白くて、俺は喉の奥で笑った。
「うぐぐ……麻生! 何か言い返してやれ!」
「何で俺が」
「お前の方がボキャブラリーあるからだ!」
そういう問題じゃないだろう、と呆れながら、俺は彼にとって痛い台詞を吐いてやった。
「つか、その前にさ……信が一緒に補習受けてくれって言うからわざわざ俺らも受けてやったんじゃなかったっけ? 何でそのお前が寝てんだよ」
俺の的確な指摘を受けて、信は当然ぐぅの音も出ない。うちの高校は春休みに補習講座が無い分、春休み前の五日間にやる。信がどうしていきなり補習を受けると言い出したのかはわからないが、俺も一人でいるよりは気が楽なので、その話に乗ってやる事にしたのだ。そしたらたまたまそこに居合わせた伊織と眞下も参加すると言い出して、結局今のような状態ができ上がったのだ。
「へいへい、どーせ俺が悪いんですよ。スミマセンねぇ」
みんなしてイジメやがって、と信はぶつくさ文句を言いながら、上履きを靴箱に放り込んでいた。たまに思うのだが……彼は、俺たちの中にある種の陰気さが漂っているのに気付いているから、こうして道化を演じているのではないだろうか。いや、そんなことはないか。こいつが、そんなに賢いわけないし。
外に出ると、綺麗な夕空が広がっていた。俺達は他愛無い会話を交わしながら、グラウンドの脇を歩いて春の夕暮れを感じた。
ここを歩いて思い出すのは、伊織と初めて一緒に帰った日の事だ。確か彼女がナイター練習をしていた野球部を立ち止まって見ていたら、野球部に見つかって気まずくなって……それで俺は、嫌われる前に突き放そうとしたのだ。あの時の俺は人を信用できなくて、内心では怯えていたから。だが、彼女はそんな弱い俺を見抜いていて、こう言ってくれた。
『どうして私が周りに左右されて友達を決めなくちゃいけないの? 私ってそんな人間に見える?』
『もしそれで本当にみんなに嫌われたとしても、私はそれでもいいよ? 人を噂だけで判断するような人達と無理して仲良くしたって楽しくないし……それに、私は麻生君ともっとお話したいって、思ってるから』
この言葉によって俺はどれほど救われただろうか? まだ出会って間もない俺にどうしてそこまで言ってくれたのかはわからない。だが、涙が出そうになるくらい嬉しかったのは今でも覚えている。俺が麻宮伊織という人間そのものを好きになった時だった。
思えば、あの日から俺達の距離は急激に縮まり、周りが変わっていった。あの時伊織と帰っていなかったら、彼女と付き合う事はもちろん、クラスメイトと仲良く話す事も無かったのかも知れない。
今では当たり前となっている環境が、ほんの半年前までは有り得ないものだった。女の子と帰る事もなければ話す事もほとんど無くて、知りもしない奴等にすら嫌われていて……自分の存在価値を見出だせなかった。全てが伊織と出会った事を境目に変わったのだ。
だが、同時にこうも思う。こんな風に……当たり前となった環境が、自分の望みとは関係無しにふと何かの拍子に再び変わってしまう事もあるのだろうか? そう考えていた時、伊織は急に足を止めた。
「あっ……」
彼女は少し驚いた表情でグラウンドを見ていた。その視線の先を見て、俺がちょうど今持っていた疑問……即ち、個人の意志とは関係無く環境は変わるのか、という疑問が既に肯定されていた事を思い出した。
誰も望んでいなくて、できれば元に戻って欲しいと思うけども、もはやそれもどうにもならない事も起こり得る。だが、彼の場合は人為的なものなのかも知れない。彼を最悪な環境に陥れた原因の一つとして、俺の名が上がるのは確実なのだから。
「彰吾……」
伊織がグラウンドを見て呟いた。
信と眞下も、その言葉に足を止めてグラウンドに視線を向けた。そこにはサッカー部の部活に参加している泉堂彰吾の姿があった。
「あ、そうか。麻宮は知らなかったんだっけな。あいつ、先週からサッカー部に入ったんだよ」
信はなるべく自然に聞こえるように言っていたが、言葉じりには躊躇の色が見えた。信が躊躇うのも無理は無い。彰吾が自分達から離れた原因も、元を正せば俺と伊織の交際と、そして今月初旬のスカウトの一件に帰する。伊織はおそらくそのどちらも自分を責めているのだ。
「うっそー⁉ 入部って言ったって、運動部はあと数か月もしたら引退じゃん!」
眞下はそんな空気を読んだのか、わざと大袈裟に驚いてみせた。だが、彼女の驚きももっともだった。もう三年になるさなかに新しく入部する奴は滅多にいない。入部したとしてもレギュラーで使ってもらえる率などほとんど無いだろう。
「まぁ、な。何か体動かしてなきゃやり切れねーのかも。俺だってぶっちゃけ、Unlucky Divaが解散してから……っと。悪い、麻宮」
言いかけて、信は慌てて閉口した。
伊織は「気にしなくていいよ」と力無い笑みを浮かべて、淋し気な表情でサッカー部の様子をぼんやりと眺めていた。俺達はなかなかそこから離れる事ができず、彼女と同じようにグラウンドで走り回る彰吾を目で追った。
現在サッカー部はどうやら隣町の三崎高校と練習試合をしているようだった。彰吾はまだユニフォームが無いのか、彼だけジャージを着てプレイしている。まだ入部して間もないにも関わらず練習試合に出してもらえるという事は、もしかしたらレギュラー候補なのかも知れない。
だが、彰吾にボールが回ってくる気配は無かった。全体的に見て三崎高の方がボール占有率は高く圧しているし、彰吾のポジションはフォワード故にハーフラインより手前には来ない。その上彼の周りにはいつもマークが二人もついていて、例え桜高がボールを奪い返しても彰吾にパスするのは難しかった。
「こりゃかなり厳しいな~……うちのサッカー部も弱か無いんだけど、三崎には毎年負けてるしな」
信が頭を掻いて独り言のように呟いた。その時だった。桜高ディフェンダー陣がスライディングでボールを奪い、味方にパスを繋げた。そして、そのボールは、俺達と同じクラスで最近よく彰吾とツルんでいるちょい悪ヤンキーの佐藤(俺は大嫌いだが)に繋がり、更に佐藤はキラーパスとも言える強烈なパスを彰吾の前に出したのだ。
「も、もっと優しいパス出してくれや~!」
彰吾のぼやき声がグラウンドに響いた。
だが、口ではぼやきながらも彼は気合の声と共に懸命に追い掛けていた。ボールと彰吾の間には結構な距離があり、追い付くのは多少無理があるように思えた。が、しかし、彰吾の怒涛のダッシュはこのチャンスを逃さず、見事にボールに追い付いたのだ。
「足速ぇ……」
思わず嘆息してしまった。体育の授業でも彰吾の身体能力の高さにはいつも感心していたのだが、ここまでとは思わなかった。
だが、驚くのはまだ早い。そこから彰吾はドリブルと巧な足技でディフェンダー二人を一気に抜き、まだペナルティエリア外にも関わらず躊躇わずにシュートを放ったのだ。狙いは違わずボールはネットを突き破らん勢いでゴールに入った。
芸術的かつ豪快なゴールだった。見ていて思わず体が熱くなってしまった程である。
「す、スゲー! 彰吾の野郎、こんなに上手かったのかよ⁉」
「泉堂君カッコイイ~! あたし、ファンになっちゃうかも」
信と眞下は大はしゃぎで、サッカー部の女子マネもきゃあきゃあ騒いでいる。悔しいながら、無茶苦茶カッコイイのは認めざるを得なかった。俺だってあの一連の動きには見惚れてしまった。
ふと横の伊織を見た。彼女がどんな表情をしているのかが気になったからだ。だが、伊織は喜ぶでもなく先程と同じように、味方の選手達からバシバシ叩かれている彰吾を淋しそうな表情で眺めているだけだった。
こんな状況にもかかわらず、夕日に照らされた彼女の儚げ気な横顔はとても美しく、まるで絵画のようで俺は思わず見惚れてしまった。
だが、同時に今の彼女は自分から遠く離れた存在の様な気がした。あまりに綺麗で、とても俺如きの恋人であるとは思えなかったのだ。
それは彼女が彰吾を見ているからだろうか。ふとそんな疑問が頭に浮かんだ。どういうつもりで彼女が彰吾を見ているのか、どうしてそんな淋しそうな顔をしているのか……知りたかった。だが、知りたいと同時に恐くて仕方なかった。
俺と付き合った事で彰吾と気軽に話せる関係ではなくなってしまって、後悔してるのではないだろうか。本当はもっと話したい事とか、幼馴染みにしか相談できない事もあるのではないだろうか。やはり俺では役不足な面もあるのではないか。考えてはいけないとわかっていながらも、頭の中で同じ疑問がグルグル回った。
その不安からか、俺はその場で彼女を抱き締めたい衝動に襲われた。伊織を力一杯抱き締めて、キスしたかった。信や眞下に見られても、下校中の奴等や部活中の運動部の連中に見られても構わないという気持ちだった。
だが、そんな想像はできても、とても実行はできない。できるはずが無い。俺は泉堂彰吾にとって、一番大切な存在を、彼の心の大半を占めていた人を奪ったのだから。その消えかけていた罪悪感が、あの彰吾が戦力外通告された日から、完全に蘇ってしまっていた。
あの日から、キスどころか手も握っていない。もちろんしたくないわけではない。今みたいにしょっちゅうそういう衝動には襲われる。だが、ドラムスティックを投げ捨てて走り去った彰吾の姿と自責の念に刈られている伊織の顔が脳裏に焼き付いてしまっていて、いつも抑え込まれてしまうのだ。
あれからしばらく、恋人らしい事は何もしていない。修学旅行以来二人で何処かに遊びに行ったりという事もなかった。
だが、それ以外は何も変わっていないと思う。約束通り週一回は一緒に夕飯を食べているし、今まで通り一緒に登校して、放課後も信や眞下を交えてだがこうやって一緒に帰っている。伊織も何も言わないから、彼女自身も今は俺と何かするという気分ではないのかも知れない。
「さて……あんま見てても悪いし、俺等は帰ろうぜ?」
丁度タイミング良く信がそう提案してくれた。俺としては一秒でも早くここから立ち去りたかったから、本当に助かった。
眞下だけ「えー! あたしまだ見たーい」と文句を言っていたが、信がバニラシェイクを奢ってやると言えばすぐさま前言を撤回していた。きっと……信は俺に気遣ってくれたのだと思う。こいつはこいつで、俺と彰吾の間に挟まれて大変なのだろう。
伊織はと言うと、信の提案に一度頷いただけで何も言わなかった。
ふと、彼女が俺と見た。しかし、伊織はいつもみたいに困ったように眉根を寄せて、微笑みかけてくるだけだった。
一体今彼女が何を考えているのか、俺には全く解らなかった。
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