9-11.戻ってきた穏やかさ
「お待たせ。何の話してたの?」
伊織は俺達にペットボトルのお茶を渡しながら、訊いてきた。まだ涙目で少し赤いが、目立つほどではない。
「ん? 経験と結果についてやな、彼氏くん」
「……違うだろ。経験と結果と、その〝過程〟だよ」
ペットボトルのキャップを開けながら、すかさずツッコミを入れてやった。
「いちいち細かいなぁ。そんな女々しい事言うてたらモテへんで」
正確に答えるのが女々しいのか?
「何か怪しいなぁ。何話してたかぐらい教えてくれたっていいでしょ?」
伊織は訝しんで俺達二人を見比べる。
「天文学の話してただけやって。ほな、うち今から学校行くわ」
「おい、この糞アマ……」
俺が小さく言うと、榊原春華が悪戯な笑みを作って舌を出していた。
くそ、なんだ天文学って。天文学のどこに経験だか結果だかが関わってくると言うのだ。その場のノリで下手な嘘を吐かれると、後から帳尻合わせにくくなってしまうだろうが。
「今から行くの? ここからだと、藤高に着くのお昼過ぎちゃうんじゃない?」
「二人の邪魔したないし、家帰っても暇なだけやもん。学校行って菱田と宮下からかってた方が暇つぶしになるわ」
榊原はいきなり立ち上がって、大きく伸びをした。
「あーあ、うちも男欲しいわ~」
「春華、前に彼氏できたって言ってなかった? サラリーマンの」
伊織は呆れたように笑っていた。また別れたの? とでも言いたげな様子だ。おそらく、彼女は彼氏を取っ替え引っ替えしているタイプの女の子なのだろう。なんとなく、榊原のイメージ通りだった。
「あー、おったなー、そんな奴。すぐ別れたわ。大人の包容力みたいなん期待してたけど、スケベ心しかないおっさんやったし、たっかいバッグだけ買わせて別れたった。即転売したったけどな」
ええ小遣い稼ぎにはなったわ、とあっけらかんと言う榊原に、俺と伊織は苦笑いを交わした。榊原春華はおそらく、第三次世界大戦で世界中のライフラインが壊滅したとしても、生き残れるだけの狡猾さを備え付けていそうだった。恐ろしい女だ。
「菱田と宮下はどうなんだよ? いつも一緒にいるんだろ?」
「嫌やわ、あんなん。汗臭いもん」
仲良しグループみたいなので薦めてみたら、ひどい言われようである。目も当てられない。
「もう、そんな事言わないの。みんな良い人達なんだから」
「ほな訊くけどな、伊織。あんたあいつらとキスできるか?」
「そ、それは……無理、だけど」
「せやろ? 金もろてもでけへんやろ? あんなん罰ゲームやで」
きっと彼らが聞いたら泣いてしまいそうなひどい会話だが、伊織があいつらとはキスする気にすらなれないという言葉を聞いて、安心した。
「ていうか、同年代とか子供っぽいから無理やわ……あ、でも」
言いながら、榊原春華は、俺の方まで近付いてきて、下から顔を覗き込んでくる。
「彼氏さんやったら全然アリやで。どや、うちの事地方妻にしてみーひん?」
ペロリと唇を舐め、まるで女豹が獲物を狙うような妖艶な目つきで俺の瞳を見据えてくる。一瞬ドキッとしてしまったのは、ぞくりとする恐怖心だと信じたい。
なんと返そうか考えていると、伊織が俺と榊原の間にすっと入ってきて──
「……絶対だめ」
じぃっと、榊原を睨むのだった。すると、榊原は破顔して、笑い出した。
「冗談や、冗談! そんな今にも刺しそうな顔で見んとってや。怖いわ」
「もう! 春華のばか。最低!」
「焦った?」
「焦ってないけど、そういう目で真樹君のこと見られたくないの」
「やって、彼氏さん。浮気でけへんなー?」
ここで俺に話を振らないでほしい。それでは俺に浮気願望があるような言い方ではないか。俺が伊織以外の女に興味を示すわけがないのだ。
伊織も榊原に何を言っても無駄だとわかっているのか、大きく嘆息した。
「あ、せや! 来月伊織ん家泊めてもろてええ? 一緒に日本武道館まで宮下の応援行こうや」
「うん! もちろん」
それまでのやりとりがなかったかのように、伊織は笑顔で答えた。
柔道の高校選手権全国大会は三月の中頃か後半に日本武道館で行われる。当然俺の方にもお誘いが来たが、曖昧に行くとも行かないとも言わなかった。宮下は俺の事を嫌っていると思われる上に、せっかくの全国大会なのに気分を害させても悪い。彼の為にも俺は行かない方が良いだろう。
「ほな彼氏もその時また遊ぼうや!」
「断る」
来月にもう一度、彼女達は今度は東京で会う事を約束して──俺は断固として拒否した──榊原は先に二年坂を降りていった。彼女の背中を見送りながら、できれば榊原とはもう会いたくないな、などと勝手に思っていた。ていうか頼むから関西から出てくるな。頼むから。
かくして、俺達二人の平和な修学旅行は戻ってきた。二年坂に並ぶお土産屋さんに入って見ている最中、仕切りに伊織は俺と榊原が何を話していたのかを知りたがっていた。天文学の知識が無い俺では、それで逃げ切るのは無理がある。せめてもうちょっとマシな言い訳を残してから帰って欲しいものだった。
そこで、俺も質問で返してみることにした。
「そういやさっき、伊織の事についてクイズ出されたんだよ」
「私の事?」
「そう。〝伊織は最初から◯◯だった。ヒントは『図書室』〟だってさ。わかる?」
そう訊いてから伊織の方を見てみると、彼女が顔を赤くして固まってしまっていた。怪訝に見つめていると、ハッとして大袈裟に首を横に振った。
「し、知らない! 全然わかんない、何の事だろ?」
「心辺りあんのかよ? そんな恥ずかしい事なのか?」
「だから、知らないってばー……それよりも、あそこのお土産屋さん入っていかない?」
あまりにも怪し過ぎる逃げっぷりだが、彼女はその後もその答えを絶対に教えてくれなかった。天文学の話題から逃げれた事は良かったのだが、新たな謎が生まれてしまって、俺としてはもやもやする。
俺の事なのだろうか?
少し考えてみたが、答えはどうでも良かった。隣に伊織が居て、修学旅行を楽しめる……それだけでよかった。
暗雲からもようやく全て解放され、非常に晴れやかな気持ちで京の街を見下ろした。二月の京都にしては、今日は暖かくて良い天気らしい。
しかし、横の伊織はといえば、なんだかもじもじしていて、こっちの顔をちらちらと見ている。
「なに?」
「な、なんでもない」
「いや、絶対あるだろ、その感じ。なんだよ?」
観念したのか、彼女は不安げにこちらを見上げてきて、こう訊いてきた。
「……春華のこと、好きになったりしない?」
「はあ?」
その突拍子のない質問に、俺はきっと、とても変な顔をしていたと思う。呆れ顔の上の呆れ顔、その上にある理解不能なものを見たときのような顔だ。焦ってないってさっき言ってたくせに、何を不安になっているのだ、お前は。
「そんな呆れた顔しなくたって」
「呆れるどころのレベルじゃないだろ、これ」
「だって、春華、ああ見えてモテるし、可愛いし……私よりも男の人の喜ばせ方知ってそうだし、不安なんだもん」
「あのなぁ……」
どうやらさっきの地方妻発言で不安になっているらしいが、この言葉に呆れる以外の反応があるなら、どうか教えて欲しい。
こいつはほんとに何もわかっていない。俺がどれだけお前の事しか考えてないか、これっぽっちもわかっていないのだ。もし可能なら、一回ぱかっと頭の中を開いて見せてやりたいくらいだ。きっと伊織の画像データと映像データ、あとは伊織の事を散々考えてる思考がテキストや独り言のMP3データしか出てこないのではないか。あとは、伊織との妄想のMP4のデータだが、これは見られると色々やばそうなので、隠しフォルダを作っておく必要がありそうだ。
「俺はお前一筋なの。いい加減わかれよ」
「ほんと?」
「断言する。お前以外の女、俺にとって女じゃない」
「なあに、それ。他の人に聞かれたら怒られるよ?」
「構わねーよ、本心だから」
これはまぎれもない本音だった。榊原はもちろん、中馬さんも眞下も、双葉さんも、昔好きだった白河でさえ、今の俺にとっては、恋愛対象ではない。あまりにも、麻宮伊織という存在が大きすぎるのだ。そんなの若気の至りだ、他のオンナを知らないだけだ──大人はそう言うかもしれないが、それでも俺は、彼女をそれぐらい好きなのだと思う。
「だから、安心して」
「うん……」
彼女はとても恥ずかしそうにこくりと頷いた。そして、おずおずと手を伸ばしてきて、ぎゅっと手を繋いでくる。そんな些細なことが嬉しくて、京の街の色合いが綺麗になって、色彩を豊かにした。
「ていうか、榊原ってモテるのか。あれで」
「春華はすっごくモテるよー。高校入ってからは彼氏切らせたとこほとんど見たことないかも」
「うげ……まじか」
だとすると、あの女豹のような目つきも納得である。きっと、彼女は巷で言われる肉食女子だ。恐ろしい。
「それですぐ私にも彼氏作らせようとして、頼んでもないのに男の人紹介しようとしてくるの」
「なんだそのありがた迷惑」
「そうでしょ? 他にもねー……」
そこから彼女は、榊原とのエピソードをいくつも教えてくれた。大体いつも伊織が迷惑を被って頭を抱えているような話だったが、そんな過去の話でも、彼女は楽しそうに話していた。榊原は伊織とは正反対の性格で、全く相性もよくないはずなのだけれど、何故か仲が良くて、一緒にいると楽しい──彼女の語り口からは、春華が大切な友人なのだということがよく伝わってきた。
──俺の知らない麻宮伊織。
昨日まで、それが嫌で嫌でたまらなかったのに、今ではそれも何故か穏やかに受け入れられた。それは、さっき彼女が榊原の誘惑に対して「絶対にだめ」と牽制してくれたり、俺が榊原を好きになるのではないかと不安に思ってくれたりした事が嬉しかったからかもしれない。それとも、榊原を通して、過去の伊織がうっすらと見えてきたというのもあるだろう。
ただ、全てひっくるめていえば、そんな事はどうでも良いのだ。伊織が楽しそうに話していて、彼女の手のぬくもりを感じられる今が十分幸せで……それだけで、京の都を何倍にも輝かせてくれるのだから。
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