9-10.仲裁
「ちょっと待てよ」
榊原がそのまま帰ろうとしたので、俺は思わず呼び止めた。彼女も泣きそうな顔をしながら振り返り、こちらをキッと睨む。
「お前さ……本当に伊織の親友なわけ?」
これを言った瞬間、榊原は──ほんの一瞬だけだが──とても傷ついた表情を見せた。
「は? 今更何言うてんの? たかが数か月彼氏やったくらいで何か調子乗ってへん? わかったような口利くなや」
しかし、それも一瞬。直後に、関西人らしいキツい口調で返ってくる。なるほど、確かに怒った関西人は恐そうだ。女の子でも迫力がある。
「その割にお前は何も伊織の事わかってないんじゃねーか?」
俺の言葉により、榊原の元々キツい目が怒りによってもっとキツくなっていたが、視線は逸らさずに続けた。
「こいつが今、これを言い出すのにどれだけ勇気が要ったと思う? 自分が傷つくかどうかじゃない。お前を傷つけてしまうかもしれないって、それだけを恐れてたんだよ。伊織が友達を邪険に扱う人間じゃないって事くらい、わかってんだろ?」
そこまで言うと、榊原はバツが悪そうに視線を俺の目から地面に移し、無言で石段を睨みつけていた。そんな彼女に、構わず続ける。冷静に冷静に、喧嘩にならないよう細心の注意を払いながら、言葉を選んでいく。
「俺は確かにこっちでの麻宮伊織がどんなだったかは知らねーよ。東京に来てからも色々あったから、そこから考えると少し変わったかもしれない。だけど、根本は全然変わってねーだろ」
「…………」
「東京来て間もない頃から、自分も大変なはずなのに俺が悩んでたらそっちに気ぃ遣ったりしてたけどさ……今もその辺りは変わってない。自分が傷つくだけで周りが円満になるならいくらでも自分は傷ついていいみたいな自己犠牲精神持ってんじゃないかと思うくらい周りの事ばっか考えてて、ずっと気苦労してる」
本人は無自覚みたいだけどな、と付け足した。
「そんな〝誰も傷ついて欲しくない〟って思ってる奴がさ……大切な親友に『お前邪魔』って言えると思う?」
結論から言うと、伊織は嫌いな人間にも言えない。傷つけたくないから我慢してしまうのだ。もちろん、今回見たいな悪循環に入りそうになったら勇気を出して言うのだけど、ただ感情や欲求に任せて言うのとは全く違う。
いや、これこそ彼女がこの数か月で変わった事なのかもしれない。だからこそ、ハッキリと「桜高の人と過ごしたい」と言われて榊原も困惑し、そして苛立ったのだ。それはきっと昨日のバスの中で彼女が言ったように、ポッキー事件が原因なのだろう。
「それに、伊織が一つ一つの時間をどれだけ大事にしてるか……お前なら知ってるんじゃないか?」
その言葉に、今まで無言だった榊原も、ようやく頷いてくれた。
「伊織が二度目の修学旅行に参加した理由……桜高のみんなとも想い出作りたいからなんだってさ。だから、何て言うか……二人で遊ぶのって、今でなくても良いだろ。春休みでも連休でも、どっちかが遊びに行くとかすれば良い。こいつの家、部屋余りまくってるから何日でも泊めてくれると思うし」
榊原は地面に視線を向けたまま暫く考え込み、何度か頷いていた。伊織はまだ下を向いて肩を震わせている。
そのまま暫く沈黙が俺達三人の間に降り注いだ。榊原春華は無言で地面を睨みつけ、伊織は鼻を啜って俯いている。なんだか俺が女の子二人をいじめているみたいだな、と思った時、榊原春華が大きく溜め息を吐いて笑った。
「ふふっ……さすがやなぁ」
「は?」
何故か榊原が感心したような笑みを俺に向けている。意味が解らない。
「さすが伊織が惚気るほど好きになった男やなって意味」
「べ、別に私は惚気てなんか……」
「ふぅん。何ならあんたが電話で話してた内容、彼氏さんに教えてもえぇけど?」
からかいの視線を向けられ、伊織は「うっ」と口を接ぐんだ。
惚気てたのかよ……それはそれで嬉しいのだけれど、それよりも嬉しいのは先程の険悪な雰囲気が払拭された事だ。
「実はな、ちょっと彼氏さんに嫉妬しててん」
「し、嫉妬ぉ?」
俺は身をたじろがせ、一歩下がった。
「何やそのリアクション。レズちゃうで。ただ、電話で話した時は絶対あんたの話は出てくるし、昨日久しぶりに会ったのにずーっとあんたの方気にしてたし……何でこんな無愛想でけったくそ悪い奴が良いんやろ? って思ってた」
悪かったな、無愛想で。ていうか〝けったくそ〟ってなんだ。絶対悪い意味なんだろうけど。何気にムカつく事を言ってくれる。
「この子のお父さん亡くなった時な、伊織ほとんど口利かんようになってしもてん。一応頷いたりとか返事はしてくれんねんけど、元気づけようと色々やっても全然あかんし……でも、東京行ったらすぐに前みたいに明るくなられたら、もう親友の立場ないやん? それで、ちょっと確かめようと思って来たんやけど……」
それで今日断られたにも関わらず来たわけか。人騒がせな奴だ。
「ばか……」
伊織は鼻を啜らせて呟いた。
「二人とも私にとって大切な人なんだから……試すようなことしないでよ」
「ごめんやって、伊織。ほんまごめんやで」
榊原は謝りながら、またぽろぽろと涙した伊織を慌てて抱き締めた。そんな光景を見て、安堵の息を吐いたと同時にドッと疲れが押し寄せてきた。昨日からやたらと疲れる事ばかり起こっている気がする。
「ほんま昔から泣き虫やなぁ」
「春華が……そうやって昔からいじわるばっかりするからじゃない。ばか」
「ごめん、ごめんって。ほら、はよ拭き。泣き顔のまんまダーリンと観光するん嫌やろ?」
泣かせたのは誰だ、と言わんばかりに伊織は不服そうだが、榊原からハンカチを受け取った。
「えっと……じゃあ、ちょっとお手洗い行って来るね」
そう言って化粧ポーチを出してから、困ったような笑顔を見せた。目を擦るなよ、と言ってやると、じぃっと責めるような視線を俺に送ってから、トイレへと向かった。
彼女の背中を見送ると、とりあえずベンチにどさっと腰掛けた。天を仰いで、大きく息を吐く。何で修学旅行に京都まで来て喧嘩の仲裁をやらなければならないんだ? もうクタクタで観光をする余裕もない。
「彼氏さんも、えらい迷惑かけてすみませんでした」
榊原も同じように横に座って、頭を下げた。
「ったく、まさか清水寺で喧嘩の仲裁するとは夢にも思わなかったよ」
「そら良かった。えぇ思い出になったやろ?」
悪びれた様子もなくケロッと言った。
良い思い出も糞も、俺が間にいなかったら最悪の結末になっていた可能性もあったのに、よくそんな事が言えたものだ。関西人とは人種そのものが俺達とは違うのだろうか。
「ま……あの子も良い彼氏作ったもんや」
「そうかな? 月とスッポンじゃねーかと未だに思うけどな」
「そら見掛けだけ見たらそう見えへん事もないなぁ」
「……おい」
「冗談やて。お似合いお似合い! そんな怒らんといてよ」
こんな時に冗談を言う感覚が俺にはわからない。しかもわざとらしく『お似合い』を連呼しやがって……反省の意志が全く見受けられない。
「でも、きっとあんたはうちよりも伊織の事わかってるんやろなぁ。もうかれこれ知り合って五年になんのに、何か恥ずかしいわ」
「……わかってねーよ。全然、わかってやれてない」
「そうなん?」
「人間ってさ、自分の理解できる事しか理解できないんだよ。どれだけ話聞いてどれだけ想像しても、そいつが経験した事は理解できない。そうだろ?」
榊原はそれが何を指してるかをわかったようで、黙って聞いていた。
「俺は両親どっちも元気だし、今まで身近な人間を亡くした事ないからさ。あいつの苦しみなんてカケラ程も解ってやれてないんだよ」
本当に伊織が苦しんでいる時には何の力にもなれないのではないか。ただ、想像だけで思いつく限りの言葉を掛けてやる事くらいしかできなかったら、その時彼女は俺をどう思うだろう? 口だけの男で力不足だと思われないだろうか。俺はいつも、それを恐怖していた。
思いやりがあれば大丈夫だと言う人がいる。思いやりこそが人間として崇高なものであると思っている人もいる。しかし、思いやりはただの自己満足でしかないのだ。自分がこうしてあげたいという自己満足で癒せるほど、彼女の傷は浅くない。
そして逆に、こうとも言える――思いやりで接している時点で、他人事。同情と同じなのだ。俺はそんな軽い気持ちで彼女に接したくない。伊織の苦しみを全部理解した上で助けたいのだ。だが、どうすればそんな存在になれるのか、全く想像もつかなかった。
「うん、そやな。うちも彼氏さんも、伊織の事は全部理解できひんのやと思う……でも、ちょっと見落としてるとこあるんちゃう?」
「見落としてる?」
「そう。一番大事なとこ。例えば、彼氏さんが伊織と同じようにご両親に不幸があったとするやん? でも、それは似たような経験であって伊織と同じ経験をしたんとはまた違ってくるやろ?」
「……確かに」
「お気付きになりはった? 彼氏さんと伊織では生まれて育った過程もちゃうし、もちろん親に対して持ってる気持ちも違う……結局全く同じ経験っていうのは誰にもできひんし、正確に理解する事も、できひんのとちゃうかな」
寂しい事やけどね、と付け足した。
その通りだった。確かに、誰にも同じ経験はできない。俺に起こった出来事と伊織に起こった出来事は、例え類似していても同じ出来事にはなり得ない。その出来事に至る過程も違うのだ。
例えば、失恋だ。とある二人の男が同じように浮気がバレてフラれたとしよう。この二人は浮気が原因で別れたという結果については同じような経験をした事になる。しかし、何故浮気に至ったという原因も違えば過程も違うわけである。片方は恋人に何らかの不満を持っていて、もう片方は欲望のままに浮気をした場合、二人は気持ちを分かち合え無い。
「なるほど、さすが校内トップ。アホかと思ってたけど、やっぱ頭良いんだな」
「どういう意味やねん! 失礼な男やな~」
榊原はぶつぶつ言いながら伊織が行った方角を見たが、まだ彼女の姿は無かった。
「まぁ、あんたが思ってる程あんたは無力ちゃうと思うよ。正確に気持ちわからんくても、多分あんた以上に伊織の力になれる人っておらへんのとちゃうかな……同時にそれがちょっと心配でもあるけど」
「……心配?」
「そ。伊織を大切に思ってるんはあんただけとちゃうからな。そこで衝突っていうか、問題起こりそうな気がしてならへんねん。心当たりあるやろ?」
俺は黙ったまま頷いた。榊原の言いたい事は、おそらく、彰吾の事だ。さすが伊織の親友とも言うべきか……よく見ている。昨日の雰囲気から、俺と彰吾が不仲であると見抜いたのだろう。というより、あれだけ伊織の事が好きだった幼馴染と、その彼氏が仲良くできるはずがないのだ。
昔の伊織や彰吾を知っている榊原から見て、今のあの二人はどう見えているのだろうか。もしかすると、解決の手立てが見えるかもしれない。
もっと詳しく話を訊こうと思ったその時、人だかりの中から飲物を三つ持っている伊織の姿が見えた。
「さて、この話は終わり。また今度会った時話そ」
ここから先の話も俺にとっては大事なのだが……伊織が来てしまったので仕方ない。
「ま、なんかあってもきっと大丈夫やて。伊織は最初から……あ、これは内緒やったかな」
伊織が近づいてきたので、そしらぬ顔をして話題を終わらせた。
「おい。途中で終わらせんなよ」
「ごめんごめん、でもこれ言ったらうちが怒られるんよ。ヒントは『図書室』かな」
「はぁ?」
意味がわからない。何故にいきなり図書室が出てくるのか。
何だか煙に巻かれた気がしないでもないが、伊織が戻ってきてしまったので、もう教えてもらえそうになかった。
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