9-8.鴨川の川辺で
翌日、信から嫌味なり叱責なりを受ける事は覚悟していたが、予想外に何も無かった。というより、信から魂が抜けてしまっていた。これから残り三泊坂城と同じ部屋だという事を考えると、それもわからなくもない。
神崎君の方は別の意味で大変だ。というか、こっちの方が事態としては重大だった。他の女の子の部屋にいた事が恋人の双葉明日香にバレてしまい、今朝から口を利いてくれないのだと言う。自業自得だとは言え、深刻な問題にならなければ良いのだが……ここ最近双葉さんの不満が蓄積されてそうなので、心配ではある。
彰吾は一番問題無さそうだが、彼の俺への恨みも昨夜の一件で更に蓄積されていそうで、こちらもいつ爆発するのかわからない。合理的に考えるならば、俺が見つかっていたのが一番丸く収まっていたのかもしれない。だが、合理性の為に自己犠牲に走る気はない。下手したら俺が信の立場になっていたのかもしれないのだ。俺にだって修学旅行を楽しむ権利はある。
ただ、確かに修学旅行を教師の部屋というのも可哀相だ。救出作戦を考えてやっても良いかもしれない。
さて、2日目は自由行動だ。グループ行動というていを取っているが、俺達は二人ずつに別れて動く事にしている。俺は伊織と、信は中馬さんと、そして彰吾は眞下という組合せ……当初ではそうなる予定だったのだ。
しかし、眞下に『麻生君と伊織が一緒になるのは解るけど、他も男女二人っきりになる理由はなくない?』という手痛い質問を投げ掛けられ、信の計画は頓挫した。まさか信もこの修学旅行中に中馬さんに再アタックするとは言えず、結局俺と伊織を除いた四人は一緒に行動する事になったのだった。この時の信の落ち込みぷりと言ったら無かった。彼は『あの女のせいで俺の策略が全部水の泡じゃねーか!』と嘆いていたが、どうせ失敗に終わる策略なら、逆に四人で一緒に居る方が楽しめて良かったのではないだろうか。もちろん、こんな事を言おうものなら、またうるさいのだけれど。
昨日から今日にかけて色々あったが、伊織と一緒に回れる事には変わりは無いので、俺としては万事解決だ。
みんなとはロビーで待ち合わせて、旅館を少し離れてから別れる手筈だった。しかし、いざ俺がロビーに行くと、伊織しかいなかった。
「あれ、みんなは?」
ロビーを見回してみても、生徒がちらほらいるが、信達の姿は無かった。先生方の姿も無い。今ここにいる奴等は明らかに出遅れ組で、他の人達は三十分ほど前に出発している。
「先に行っちゃったよ。もう先生達も出てるから大丈夫だろうって」
「ふぅん。じゃあ、俺達も行こっか」
「うん! ……あっ」
元気よく返事をしたかと思えば、彼女はいきなり口を抑えた。
「どうした?」
「ううん、ちょっと声が大きくなっちゃったから、恥ずかしくなって」
そう言って、照れたように微笑んだ。可愛くて、抱き締めたくなる衝動を朝から抑えるのが大変だ。
京の空は綺麗に晴れ渡っていた。だが、予想以上に二月の京都は寒かった。京都は盆地なので、夏は暑く冬は寒いらしい。この時期は積雪も多いらしいが、幸運なことに、今は幸い雪が降る気配は無い。
今日、俺と伊織は清水寺方面の観光を予定している。信達は嵐山方面に行くそうで、結構旅館からは離れているが、清水寺はそう離れていない。桜高一行が宿泊している旅館は鴨川沿いにあり、清水寺に行くには五条駅までずっと鴨川沿いを歩いていけば良い。
この鴨川の川辺は、暖かい季節になると恋人達で埋まると聞いたが、この寒い時期には誰もいなかった。もちろん時間的な問題もある。まだ午前十時過ぎたばかりでカップルがベタベタしていたら、欝陶しくて堪らない。今見える姿は、犬の散歩をしているお爺さんくらいだ。
俺達はそんなガランとしている鴨川沿いをゆっくり歩きながら、京の景色を楽しんでいた。中学の時に来た時は団体行動だったから、こうやって歩く事はなかった。ずっとバスの中にいた感覚だ。こうして自発的に動ける方が楽しいと言えば楽しいかもしれない。もちろん、隣に伊織がいるから楽しいと思えるのだろうけど。
「そういえば……真樹君が昨日あんな事言って帰ったから、あれから暫く寝れなかったんだよ? みんなからからかわれて」
「マジ? じゃあ、責任取って今日から一緒に寝るよ」
「だからぁ……」
伊織は少し怒ってから、はあ、と溜息を吐いた。
「真樹君とのこと、からかわれるの嫌じゃないんだけど、最近ずっとあんな感じでしょ? ちょっと、もうそろそろやめてほしいなって」
伊織がぽそっと不満そうに言ったので、少しぎくりとした。確かに同意見なのだが、それは俺と一緒にいるのが嫌という事なのだろうか。
「あ、真樹君と一緒にいるのが嫌とかじゃないよ?」
俺のそんな視線に気づいたのか、伊織がそれを否定した。
「むしろ、逆だよ」
「逆?」
「うん。もっと自然な感じで一緒にいたいなぁって。こんな風に」
そう言って、伊織は腕を絡めてきた。修学旅行が始まってから、伊織とこうしたコミュニケーションを取る事が少なかったので、胸が高鳴った。
というか、白昼堂々、しかも鴨川で腕を組んできた事に驚いた。ちょっとだけ伊織にしては大胆な気がする。
「ねえ。昨日、どんな気分だった?」
「昨日?」
「ほら、坂城先生が見回りにきてた時」
それは、伊織の布団の中で抱きかかえられていた時の事、でいいんだよな?
「すげードキドキした」
素直に言うと、伊織は照れたのか、下を向いてしまった。
「私も、ドキドキしてた」
「知ってる」
「え?」
「心臓、すごく鳴ってたから」
「や、やだ。聞かないでよ」
布団の中で伊織に頭を抱きかかえられていたので、心臓の音だけでなく、お腹がきゅるきゅる小さく鳴ったりしていた。
「それと、いい匂いがして、柔らかくて、時間が止まればいいのにって思ってた」
「もう、ばか」
こつっと伊織が優しく叩いてくる。
「嫌だったのか?」
「嫌じゃないけど……二人きりで、落ち着いたところならよかったのにって」
「それは、えっと……?」
俺が言い淀むと、彼女は顔を赤らめながらも、照れたような笑みを見せた。その笑顔は先月までの伊織の表情とは違っていて、どこか艶やかで、少女と大人の色気が入り混じっている笑顔だった。
その笑顔に、無防備だった俺の心を鷲掴みにされた。ここが昼間の鴨川じゃなければ、どうしていたかわからない。
もう清水寺なんてどうでも良いから、伊織と二人っきりでどこかに行きたい、と想い耽っていると、スマートフォンが鳴った。信からのLIMEだ。
『道中長過ぎ!』
それだけだった。要するに、バスの中だか電車の中だかが暇過ぎてLIMEしてきたのだろう。しかし、生憎だが俺は暇ではないので無視させてもらった。返信もせずに画面を閉じると、横の伊織が俺のスマートフォンをじっと見ていた。いや、正確に言うと昨日眞下や中馬さんと一緒に買ったストラップを、だ。
「いいだろ、コレ。昨日眞下達と色違いで買ったんだ」
「そうなんだ……いいなぁ。何だか私だけ仲間外れみたい」
しゅんとして、視線を地面に移した。その表情からは後悔の色が見て取れた。俺達との時間を過ごす為に修学旅行に参加したのに、結局数か月ぶりに会った親友との時間を優先してしまった事を悔いているのだろう。
だが、俺を誰だと思っている? 少なくともお前の彼氏だ。伊織がこんな表情をする事も見抜けてなかったとでも思うか?
「……ったく、そんな顔すんなよ。お前だけ仲間外れにするわけ無いだろ」
ポケットの中から、まだ開封されていない新品のストラップを差し出した。伊織はキョトンとしてそれを受け取る。
「但し、色は俺と同じな。三種類しか無かったんだよ」
実はあの時、伊織が欲しがる事を見越して二つ纏めて購入していたのだ。もちろん、欲しがらなければ誰かのお土産にでもするつもりだった。
「もう……いつもずるいなぁ真樹君は」
伊織は嬉しそうに開封し、スマートフォンの小さな穴に器用にストラップの紐を通して装着していた。そして、嬉しそうにそのストラップを見せつけてくるのだ。
「ありがとう」
そのお礼には、申し訳なさと嬉しさが合わさっていた。榊原春華の件については負い目を感じていたのかもしれない。それは彼女の次の言葉にも表れていた。
「残りは真樹君との思い出で、全部染めちゃいたいな……」
言って、少し顔をにこりと微笑んだ。
俺は最初からそのつもりだったんだけどな。そう心の中で呟いて、そっと彼女の髪を撫でた。二人の思い出で染める為に。だが、現実はそう上手くはいってくれなかった。
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