9-7.悪夢からの生還者

 信の断末魔が聞こえなくなった頃、襖が外から開けられた。

 そこには伊織の姿があった。優しい笑顔だが、可笑しさをこらえているようでもある。


「もう大丈夫だよ」

「ああ、ありがとう」


 押し入れから出てみると、みんなが腹を抱えて爆笑していた。どうやら、信の混乱ぶりと坂城のキレ顔がかなり面白かったらしい。俺もみんなに連られて、今まで堪えていた笑いを解放させた。


「とりあえず、匿ってくれてありがとう」


 一通り笑い終えたら、俺は改めてみんなに御礼を言った。全員の協力無しには俺の無事は有り得なかった。それに、まさかあそこまでノってくれるとは思わなかったからだ。


「いいっていいって。面白かったから何でもいいわ。でも、麻生君も凄いよねー」

「うん。よくあそこで信君が戻って来るってわかったね」


 眞下と伊織が感心したように言った。


「何年あいつと付き合ってると思ってんだよ。常に信から裏切られる事を想定して俺は生きなきゃならないんだ」


 そう言うと、またみんなが笑った。今までの裏切り行為を受けた回数は数知れない。先月だって、伊織を俺の部屋に置き去りにしやがったのだ。それは結果的によかったのだけれど。


「でもさぁ、普通男って友情を大事にしたりするんじゃないの? あんなに簡単に裏切る奴とよく友達やってられるよね」

「押し入れの時はひとりだけ犠牲にしようとして、次は道連れだもんね。押し入れは百歩譲って仕方ないとしても、あれはちょっとね~」


 みんなが口々に信の裏切りに対して不満を言った。どうやら女性方もあれは酷いと思ったから、全面的に俺をフォローしてくれたらしい。

 確かに、比較的男は友情を守る。俺もどちらかと言うとその類いだ。もしあの場で見つかったとしても信達が押し入れにいる事は言わなかっただろう。では、信が友達を大事にしないかと言うと、そうではない。彼はこの程度では友情は壊れないだろうと見越してやっているのだろう。彼にとっては逆にこれが友情の示し方なのかもしれない。それはそれで大変迷惑なのだけども。

 結果として信にとっては坂城に見つかっただけでなく、女の子達からの好感度まで大幅ダウンする最悪なものとなったが、これは自業自得と言うものだ。最後の道連れがなければ、罰則強化も好感度ダウンも無かったのだから。


「じゃあ、また坂城が戻って来ないうちに帰るよ。迷惑かけてごめんな」


 女性方八人の部屋に、男が俺しかいない事に今ようやく気付いて、急に恥ずかしくなってきた。みんなの少し乱れた浴衣を直す仕草が妙に色っぽく見える。

 マズい。さっきまで伊織と一つの布団に居たからかして、何か変な方向に思考が行ってしまっている。


「明日からあたし等の部屋には来ないでよ? もうこんなヒヤヒヤすんの嫌なんだから」


 眞下が釘を刺すようにじろっとこちらを見た。自分から誘っといて──しかも俺は一回断った──揚句に来るなとは何事だ? 今更こんな事を言っても仕方ないのだけれど。ハプニングで良い事もあったし。


「伊織ちゃんと寝たかったらそっちの部屋にお持ち帰りしてくれていいから」


 誰かが言って、また笑いの渦が起こる。ただ、伊織だけは顔を真っ赤にしていた。お持ち帰りしていいなら、お前等に言われるまでもなくとっくに遂行してる。それができないからこんな変な気分になっているのではないか。

 俺が心の中にそんな野獣を棲まわせているとは全く思っていないだろう少女達は、まだ顔を赤くしていた伊織を標的にして遊んでいた。


「そういえばあんた達、布団の中で何してたのよ? さっさと白状なさい!」

「な、何にもしてないから」


 照れて恥ずかしがっている伊織は確かにいじらしくて可愛いから、いじめたくなる気持ちもわからないでもない。だが、このままここに居座っていては俺までまた巻き添えを食ってしまいそうだ。


「あ、ねえねえ麻生君、知ってる?」

「は?」


 クラスの女子が、少し悪戯な笑みを作って話し掛けてきた。


「さっきお風呂で知ったんだけどさ~……伊織、すっごく細くて肌も綺麗で、胸の形も綺麗なんだよ?」


 言いながら、その女子は伊織の後ろに回り込んで、彼女の胸を鷲掴みにした。伊織が小さな悲鳴を上げたかと思うと、顔を真っ赤にしてその女子に怒っていた。


「やば……伊織のおっぱい柔らか過ぎて自信なくしてきた」

「え、まじ? 私も触る!」

「もうっ、やめてってば!」


 そして、また数人の女子が伊織の体に触れようと群がる。だめだ。このまま俺がここに残っていては、伊織もろとも俺まで玩具にされてしまう。彼女には悪いが、ここは無視してさっさと撤退するのが良いだろうと判断した。適当に頷いておきながら、後退して部屋の入口へと向かった。

 その際、部屋の一番手前の布団で寝る予定らしい白河梨緒と目が合った。いつもなら即座に目を逸らされるのだが、今回は違った。


「……さっきはありがとな」


 目を逸らされなかったので、ちょっとだけ勇気を出して御礼を言ってみた。

 俺を守ってくれたのは伊織だが、白河の助言がなければそれにも至らずに見つかっていたかもしれないのだ。


「あ、あの時は必死だったから」

「そ? まぁ、とにかくおやすみ」

「……おやすみ」


 昨年の文化祭の『調子に乗らないで』事件以来の会話である。今回は険悪なムードにならずに済み、ほっと一息吐いた。そのままスリッパを履いて外に出ようとすると、女子がからかう口調で言った。


「あれ? 伊織お持ち帰りしないのー?」

「また今度落ち着いてからにするよ」


 俺まで恥ずかしがって遊ばれててはアホなので、ここは余裕をぶちかます。


「また今度だってさ! 良かったねぇ、伊織」

「もう、真樹君まで悪ノリしないでよ!」

「またまた照れっちゃって。ほんと伊織は可愛いねー」


 そんな伊織が可愛くて好きだから調子に乗ってみたというのもある。彼女がオモチャにされている間に俺は見事脱出に成功した。教師がいないか確かめながら、慎重に自室を目指す。

 お持ち帰り、か……悪ノリでもなんでもなく、本音以外のなにものでもないのだけれど、きっとそうとしか受け取られていないのだろう。俺の衣服には、まだ伊織の香が残っていた。もちろん、感触も覚えている。こんなに彼女を近くに感じたのはあの時以来だ。柔らかくて、暖かくて、優しくて……脳がとろけるような感覚。

 たった一つの布団の中で彼女と抱き合えるのは、一体いつになるのやら……全く想像ができなかった。

 焦って上手くいくものでもない。お互いの気持ちが一つに重なり合って、前のように自然とそうなる時は来るはずである。『鳴くまで待とう、時鳥』というやつだ。あまり好きではないが、今は家康の信念を見習う事にしよう。

 そんな事を考えながら、自室に戻った。俺達の部屋は、真っ暗でしーんとしており、唯一ひとり残されていた三島は、すでに就寝しているようだった。

 修学旅行初日に部屋に置いてけぼりにされた彼にとっては、俺達よりもっと悲惨な修学旅行と言えるのかもしれない。

 心の中で詫びながら、俺も自分の布団に入った。

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