8-8.ご両親との対面

 ハッと目が覚めた。枕元の小さなスタンドだけが点いていて、部屋はぼんやりと明るい。だが、俺の部屋ではない事は明らかだった。

 起き上がって頭をぽりぽりと掻き、辺りを見回した。ご丁寧に毛布まで掛けてくれてある。どうやらかなり優しい人の部屋らしい。

 とりあえず順に記憶を追ってみた。学校が終わって、信とカフェで話して、それから──そこで、ようやく思い出した。ここは伊織の部屋だ。

 ……やってしまった。本気で寝てしまうとは、何事だ。

 スタンドの横にある、普段伊織が目覚ましとして使っていると思われる時計を手に取った。長い方の針が十二、短い方が十の数字を指していた。どうやら一時間くらい寝てしまっていたらしい。

 最悪だ。初めて彼女の家に遊びに来て、ご馳走してもらって、そして彼女の部屋で寝てしまう男……しかも膝枕。ダサい。あまりにダサ過ぎる。

 溜息を吐いて部屋を出ようとした時、勉強机の上に置かれた、いくつかの写真立てが目に入った。昨年のクリスマスに俺がプレゼントした、クリスタルガラスの写真立てが真ん中に置いてある。もちろんその中に入れられている写真は、十二月二十四日のイブに、教会で撮られたものだった。おそらくスマホで撮ったものを現像したのだろう。伊織のスマホカメラは画素数が高いので、綺麗に撮られていた。

 十二月二十四日……この日から俺達は付き合った。というか、付き合い始めホヤホヤの時だ。伊織は目を赤くしながらも、とても幸せそうな笑顔を向けていた。その横にいる俺ももちろん、恥ずかしいくらいに幸せそうだった。

 幸せ絶頂の自分を見たのは初めてなので、ちょっと可笑しくなった。その横の写真立てには、文化祭の時に二人で撮ったものがある。確かこれを撮った後、信に鳩尾を殴られたのだ。こちらはさっきの写真とは違い、お互い照れ臭そうだった。

 もう一つの写真立ては、大阪の時の写真だろうか? 水族館で撮られた写真が飾られていた。学校帰りに行ったのか、全員制服姿だった。そこには、伊織と彰吾の他、スポーツ系っぽい男が二人とちょっとキツめの女のコの合計五人が制服姿で写っていた。五人ともとても楽しそうだった。

 それを見ていて、少し面白くない気持ちになった。俺の知らない制服を着た、俺の知らない伊織。そして、俺の知らない連中。この五人はどういった関係だったのだろう? 伊織は俺が初めての彼氏と言っていたから、元カレがこの中にいるわけではなさそうだが……それでも、良い気はしなかった。

 そしてその三つの写真立てに隠されるように後ろに置かれている写真がもう一つあった。

 手に取って見てみると、そこには今より少し幼い伊織と、優しそうな男性と、伊織そっくりの女性がいた。


「これが伊織のご両親なのか……」


 ピアノのコンクールで受賞した時に撮ったのだろう。誇らし気に賞状を広げている伊織と、父と母が優しく彼女の肩に手を乗せている。今の伊織より、ちょっと自信あり気な表情。

 そこで、俺は少し不思議な感覚を抱いた。


「あれ……? 俺、この二人、どっかで見た事ある気がするんだけどな」


 伊織の両親と俺は、もちろん面識がないはずだ。

 だが、不思議と二人のこの優しそうな顔には見覚えがあった。

 ──それにしても。

 これだけ笑顔で誇らしげな顔をしているのに、どうして伊織はピアノを辞めてしまったのだろうか。もしかして、それも両親の死が原因なのか?

 この写真を見て、ふとそんな考えが脳裏に過ぎった。しかし、それが正しいのかどうかを彼女に訊く事はできない。俺はまだそこに踏み入る勇気を持っていなかった。

 もう一度溜息を吐いて、写真を元の場所に置いた。下手な憶測はやめよう。憶測よりも、いつか彼女の口から聞くまで待った方が良さそうだ。少なくとも、大好きな両親の写真を後ろに隠してしまう程、彼女の心は未だ癒えていないのだ。俺たちの写真でその傷を隠していて良いとは思えない。

 今一番俺が優先すべき使命は、家族の写真を同じ列に並べれる様にしてやる事なのかもしれない。

 階段を下りてリビングに戻ると、台所で洗い物をしていた伊織が、こちらに意地の悪い笑みを向けてきた。


「あ、おはよう。よく眠れた?」

「あぁ、そりゃもう完全熟睡って感じだな。ベッドが俺のヨダレで湿ってるよ」

「えっ、うそ⁉」

「……うそだよ」


 言うと、伊織はぽかっと優しく叩いてきた。意地悪には意地悪で返すのが世の理なのだ。


「あ、そういえばさ、俺あの写真もらってないよ」

「写真?」

「イブのも、文化祭のも」


 そこまで言ったら何の事を指しているのかわかったらしく、彼女は頬をカァッと染めた。


「え、やだ……見たの?」

「見たって言うか……目に入った」

「もう。何で見ちゃうかなぁ……恥ずかしい」

「何で? 別に良いだろ。それに、ああやって飾ってくれてると俺も嬉しいし」

「ほんと?」

「ああ。だから俺にもくれよ。ちゃんと机に立てて勉強するから」


 からかいの意味を込めて言うと、もう一発叩かれた。今度のはちょっと痛かった。


「今度現像して渡すね」

「データで送ってくれてもいいよ。自分で現像するし」

「じゃあ、あとでLIMEに送っておく」


 照れたように笑いかけてくる。そういえば、あれ以降伊織と写真を撮っていない。また、何かで撮らないとな。


「あ、もう十時半になるけど、時間大丈夫?」


 伊織は時計を指差した。伊織の指先を辿って時計に目をやると、十時二十分を過ぎていた。確かにこれ以上遅くなると親が心配するかもしれない。泊めてもらうのは無理だし(それが一番望ましいのだが)、俺は渋々帰る事にした。もう一つだけ、伊織にあるお願い事をして……。


 線香の煙が、ゆらゆらと和室の中を舞っていた。正座したまま、正面にある位牌と伊織の両親の写真を見て、ゆっくり手を併せて目を閉じた。

 ──お線香だけ上げさせてもらっていいかな?

 そう彼女にお願いをした時、伊織は少し驚いた表情を見せたが、快く頷いてくれたのだった。


『お父様、お母様。私は伊織さんの恋人の、麻生真樹と申します』


 怒られるかもしれないと怯えつつ、心の声をご両親に向けた。


『まだまだ未熟で不甲斐ない高校生ですが、将来絶対に伊織さんを幸せにしてみせますので……どうか交際を許して下さい』


 もちろん、こんな事は両親を本当に前にしていたら、恐ろしくて言えないだろう。しかし、同時にこれは俺の本心であり、決意だ。

 ご両親への〝挨拶〟を終えて再びリビングに戻ると、伊織は笑顔を向けて言った。


「ありがとう……」

「え、どうして?」

「真樹君がそうやってお父さんとお母さんの事気にしてくれてたって言うのが、すごく嬉しかったから」

「そ、そうか? やっぱお付き合いさせて頂いてるんだから、挨拶くらいしとかないといけないかな、と」


 別にさっき写真を見たからではなく、ご両親の事はずっと気に掛かっていた。しかし、話題に出しては傷つけてしまうかもしれないので、極力触れないようにしていたのだ。

 それに、伊織自身があまりにも明るいから、そんな不幸があった事も忘れさせてしまう時もある。それを忘れない為の、自戒でもあった。


「ふふっ、じゃあ私も今度挨拶に行かないとね」

「……え」


 とんでもない事をおっしゃる。うちの親には彼女がいる事すら言ってないのだ。薄々気付いてるかもしれないけれど……。


「ま、また今度言っとくよ」


 とりあえず適当にはぐらかして逃げる。自分の彼女を親に紹介する事ほど恥ずかしい事は無いのだ。


「てかさ、また飯食いに来ていい? 今日みたいなご馳走じゃなくて全然良いし、料理作るのがめんどくさかったらどっか食べに行くとかさ」


 帰り際、靴を履きながら唐突に言った。


「それは構わないけど……どうしたの?」

「何つーか……あんま寂しい思いさせたくないんだよ。一人で飯食うのって、たまに凄く寂しくなる時もあるだろ?」


 伊織は黙ったまま、こくりと頷いた。これは昨年親がいなかった時に俺も体験した事がある。清々する半面、一人の食事というのは結構寂しく感じる時があるのだ。だからこそ俺は、知らずのうちにSカフェに足を運ぶようになっていたのだと思う。きっと彼女も同じだ。

 そして、俺にはこの家自体が寂しさを表しているように思えた。確かに家具はまるで三人家族が暮らしているぐらいある。しかし、そのどれもが使用頻度は一般家庭より遥かに少なくて、飾りにしか見えないのだ。

 両親の思い出の地を護る為だけに一軒家にわざわざ一人で暮らしている──そう思えてくるので、それが逆に痛々しい。別にこの家に住み着こうなんて俺は思っていない。ただ、少しでもその寂しさをこの家からも取り除く力になりたいとは思う。


「じゃあ、約束な。週一回は一緒に食べよう」

「うん……ありがとう」


 伊織の瞳はいつもキラキラしているのだが、今は普段よりも潤んで見えた。頬を赤く染め、嬉しさと寂しさが混同したような、そんな表情だった。

 その時彼女が見せたその表情に、俺は不覚にも胸がキュンとなってしまった。


「こちらこそ、誕生日祝ってくれてありがとう。じゃあ、また明日な。戸締まりしろよ」


 俺は照れ臭さを隠す為に、ちょっとそっけなく言って扉に手を掛けた。


「あ、待って……」


 少し遠慮がちに、彼女は俺を呼び止めた。


「ん?」

「や、やっぱり何でもない」

「何だよ、気になるだろ」

「ほんと何でも無いから」

「……教えてくれるまで帰らねーぞ」


 俺がそう言うと、観念したのか、消え入りそうなぐらい小さな声でこう言ったのだった。


「その、好きだなって……」


 とどめを刺された。伊織は言った途端顔を真っ赤にしていたが、そんな彼女を愛しく想う感情と、今すぐ抱き締めたいという気持ちが俺の中で暴れ回った。


「……俺もだよ」


 その感情を圧し留めて、何とかそう返した。そして、俺達は互いに赤くなった顔を見て、照れ笑いを交わす。


「……じゃあ、おやすみ。風邪引くなよ」

「うん、真樹君もね。おやすみなさい」


 そんな何と無い普通の会話でも、何だか擽ったかった。

 珍しく何もしなかった。あの空気になっていたら、いつもならキスぐらいしていただろうと思う。だが、やはりご両親に挨拶した後だという事もあってか、少し気が引けた。それに……こうやってキュンとしたまま、その余韻に浸るのも悪くない。また明日、伊織に会うのがもっと楽しみになってくるからだ。

 過去にない、最高の誕生祝いだった。

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