8-7.彼女の膝の上で

 やばい……動けない。胃が破裂しそうだ。

ホームパーティーを開いても問題なさそうな品数の料理を後先考えずに食べた結果、俺の胃はとうに限界を超え、形状を変えていた。知らない間に胃の限界を越えたというのは過去にあった。しかし、自分の限界を認識しつつ無理矢理詰め込んで食べたのは初めての経験だった。


「ちょ、ちょっとソファーで横にならしてもらうな。死にそう……」

「そんなに無理してまで食べなくて良かったのに」


 伊織は呆れた様子で、フラフラした足取りでソファーに向かう俺に言った。


「残してくれてもよかったんだよ? 作り過ぎた自覚はあったから」

「いや、せっかく作ってくれたんだから、全部食いたいなって思って……結局無理だったけど」


 シチューとビーフストロガノフを制覇する事はできなかった。かなり食べたはずだが、まだ二食分以上は残っている。たった二人なのに、どれだけの量を作ったんだと今更ながらツッコミを入れたくなった。


「ありがとう。でも、体壊してまで食べてもらっても嬉しくないよ」

「大丈夫、体壊したら伊織に看病してもらうから」

「食べ過ぎは病気じゃないでしょー?」

「そのとーり……」


 痛いところを突かれた。返す言葉が見つからない俺を見て、伊織はくすくすと笑っている。食器を流し台に置き終わり、彼女は俺が寝転がるソファーの端にちょこんと腰掛けた。


「あ、座る?」

「ううん、今コーヒー入れてるから」

「気が利くな」


 でしょ、と伊織ははにかみ、テレビの電源をつけた。今日は歌番組の特番があった事を思い出したのだろう。チャンネルをそれに合わせると、今人気沸騰中のパンクバンドが演奏している最中だった。ブリティッシュ・パンクロックに比べて日本のパンクは品が無い。もちろんかっこよくもないし、技術もない。ただ喚いてるだけにしか俺には映らなかった。何でこんなバンドが人気出るんだ、と一般大衆の耳を疑う程だ。


「真樹君、こういうの嫌いでしょ?」

「あ、わかる?」

「うん、何となくだけどね。私もあんまり好きじゃないな……」

「気が合うな。ロックとは激しく且思想がなければならない――BY麻生」

「何か哲学書に出てきそう」


 そのまま調子に乗って哲学的音楽論を高説しようかと思ったら、そのバンドの演奏が終わってしまった。その次に現れたのは、エロが売りのアイドルだったので、途端にげんなりしてしまう。音楽にエロだのスケベだのを持ってくるなと言いたい。歌や楽曲で魅了すればいいのに、何故エロに頼るのだろうか。いや、それが売れるからなのだけれど。だからこそ、それを誰もが追随する。芸術の劣化は、消費者側の質の悪さが均一化を導いていると思えてならなかった。


「はぁ……もうテレビはいいや。それより、伊織の部屋見たいな」

「え、私の部屋? 別にいいけど……男の子の喜ぶものなんてないよ?」


 いや、多分たくさんあります。俺は内心そう思ったが、言葉には出さず「どんな部屋なのか見たいだけ」と最もらしい事を言った。

 少し怪訝な顔をした伊織ではあったが、部屋に案内してくれた。

 二階の部屋は三つ程あるのだが、そのうち二つは使い道がなくほぼ空っぽなのだという。

 確かに、普通の二階建ての家に一人で暮らすと空き部屋も出てくるだろう。去年のプチ一人暮らしを思い浮かべてみたが、同様に二階は自分の部屋以外使い道がなかった。うちの場合はもともと両親の寝室と物置用の部屋しか二階にないので、自分の部屋以外使う機会もなかったのだけれど。

 伊織が先に部屋に入り、電気をつけた。結構ドキドキである。人生に於いて初めて女の子の部屋に入るので、それも当然だ。

 彼女に促されて中に入ると……何だかとても感動してしまった。別に、部屋としては何か変わったものがあるというわけではない。女の子らしくぬいぐるみもあって、至ってシンプルな部屋である。先日プレゼントしたクマプーのぬいぐるみはベッドに置いてあった。


「毎日これ抱っこして寝てるんだよ」


 真樹くんだと思って、と伊織が恥ずかしそうに付け足した。そんな事を言われるとこっちまで恥ずかしくなってしまうので、やめてほしい。何なら本物を抱っこして寝てほしいものであるが、さすがに今言うと気まずくなりそうなので、やめた。


「凄いな、この部屋……」


 部屋の中は伊織の香りで一杯だった。彼女を抱きしめた時にする、俺の大好きな匂い。


「そう? 何も変わったものは無いと思うけど……」

「いや、そういう意味じゃなくてさ。伊織の匂いがするから」

「……私って何か変な匂いする?」


 驚いて伊織は自分の服をくんくん嗅いだ。


「違うって。伊織をこうした時の、いい匂いがする」


 すっと伊織を抱き寄せて、その香りを吸い込もうとして、伊織の首元に鼻を押し当てた。彼女は擽ったそうに笑って俺を押し戻そうとしたが、そのままバランスを崩してしまい──二人してベッドに腰掛ける形となった。

 笑おうかと思ったけれど、先月の〝あの日〟を思い出してしまって笑えなかった。お互いに見つめ合って彼女をぎゅっと抱きしめると、彼女は無言のまま身を預けてきた。少しずつ、下半身に血がめぐりだす。

 男ってやつはどうしてこうなんだろう? 我ながら呆れる。それに、今は満腹の度が過ぎていて、とてもではないがそんな行為ができる状態ではない。

 それに加えて、ここは伊織の部屋だ。伊織なら求めたら応えてくれそうだが、ここで情事を営む気にはなれなかった。ここは彼女の家で、そして一階には、ご両親の仏壇もあるのだから。


「あのさ……何もしないから、もうちょっとだけこうしてていい?」


 俺の言葉に伊織はこくりと頷いた。

 彼女の肩を遠慮がちに引き寄せ、そっと自分の頭を彼女の肩へ乗せた。


「肩でいいの?」


 伊織が少し恥ずかしそうに、訊いてきた。


「え? どういうこと?」

「その……こっちでも、いいよ?」


 彼女が、自身の太ももを指差した。


「えっと、伊織さん……それは、膝枕をしてくれるということでいいのでしょうか?」

「恥ずかしくなってくるから確認しないでよ」

「ごめん。じゃあ、膝をお借りします……」

「どうぞ」


 なんだかお互いいきなり余所余所しくなりつつも、横になって、彼女の太ももに、遠慮がちに頭を乗せた。制服のスカート越しに、彼女の太ももの感触を感じる。

 横を向いてしまっているので、彼女の表情は見えないが……とても、落ち着く。そのまま無言でいると、伊織の手が、遠慮がちに俺の頭を撫でてきた。まるで子供を寝かしつけるように、優しく優しく頭を何度も撫でてくれる。

 それがすごく、心地良い。頭を撫でてもらうとこんなに安心感で満たされるのか、と驚いてしまう。


「伊織」

「なあに?」

「もうちょっとこのままでいい?」

「うん。いいよ」


 何故かはわからないが、今日はやけに甘えたくなってしまっている。彼女の家庭的な一面を見たからだろうか? もしかすると、この家でこんな事をするのもよろしくないのかもしれない。天にいるお母様やお父様に目撃されたら、怒られるのではないか。そんなことを思わなくもない。

 だが、そんな思考とは裏腹に、俺はとても居心地よく感じてしまっていて、離れる気になれない。大好きな伊織の膝を枕にできて、大好きな彼女の香に包まれて撫でてもらえる……あまりに心地良過ぎて、何だか意識が遠退いてきた。

 ――まずい。食べ過ぎにより脳に血が回っていない。それに加えて、俺自身今日は朝から緊張していた上に、その緊張が今解けてしまったというのも加わっているだろう。幕が下りるように眠気が襲ってきた。このままここで寝てしまいたい。


「真樹君……?」


 伊織が俺の名を呼んでいたが、これが夢なのか現実なのかもわからなくなっていた。睡眠欲と格闘を続けるが、もう目を開ける気力が無い。まるで海の底へ吸い込まれて行くように、すぅっと眠りの中へ誘い込まれて行った。

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