8-6.彼女の家で

 インターホンを押す指が僅かに震えていた。女の子の家に呼ばれるというのは、もちろん初めてである。しかも彼女は現在一人暮らしで、という事は二人っきりなわけで……もしかして、この前みたいな事をする事もあるのだろうか、なんてそんないかがわしい事も考えてしまう。少なくとも、先月の元旦は家には入れてくれなかった。これは彼女が俺の事を認めてくれたからなのか、心境の変化なのか……それとも、あの時は本当に帰省の準備が忙しかったのかはわからないが、ただ、それだけでも進歩だと思えた。

 と、そんな事を考えている間に、俺の指は勝手にインターホンを押していた。まだ心の準備ができていないのに、何たるミス。

 家の中からバタバタという足音が聞こえ、それが玄関の前で停まると鍵とチェーンを外して、伊織が勢い良く扉を開けた。


「いらっしゃい。寒いから早く入って?」


 制服の上からエプロンをつけ、料理に毛が入らないためなのか、普段は自由に流れる長い髪が今はゆったりと束ねられていた。

 あまりに可愛すぎて、見惚れてしまう。最初は、何で誰が来たか確かめもせずにドアを開けるんだと注意しようと思ったのだが、すっかり忘れてしまっていた。


「……どうしたの?」


 完全に見惚れて固まってしまっていた俺に、伊織は首を傾げて訊いた。


「えっ、いや、何でも……それより、いきなりドア開けたら不用心だろ。せめて誰か確認するくらいしないと」

「ご心配どうも。でも、インターホンの横にカメラついてるでしょ? ちゃんと真樹君だって確認したから」


 インターホン横を確認すると、確かに小さなレンズが見受けられた。

 若い女の一人暮らしなのだから、それくらいの設備をつけるのは当然か。何だったら二十四時間体制でSPに門番してもらうくらいの方が俺としては安心できるのだが。


「あっ、いけない。焦げちゃう!」


 まだ料理の最中だったらしく、再びバタバタと中に入っていく伊織を見て、俺も遠慮がちに扉を潜らせて頂いた。台所から「鍵閉めて」という声が聞こえたので、指示通り鍵を閉める。これで邪魔者は来ない……なんてくだらない事は考えるなよ、俺。

 また余計な事を考え始めたので、自分で一発頭を殴って靴を脱いだ。リビングに案内された俺は、とりあえず鞄を遠慮がちに置き、ソファーに腰掛けた。まだ食事の準備ができてないので、伊織から適当に寛いでおくよう指示されたのだ。

 寛げと言われても、初めて女の子の家に来て、しかも二人っきりというシチュエーションで寛げるはずがない。挙動不審にキョロキョロ辺りを見回しては、背後から聞こえる伊織が料理や食器を運ぶ音にドキドキしていた。美味しそうな匂いが鼻を擽り、また腹が鳴りそうになる。

 家の中を見た時やや驚いたのだが、あまりに普通だった。家族三人で暮らしてるかと思わせるくらい家具や置物があって、生活感が溢れている。とても家族を亡くした女子高生が一人暮ししている家とは思えなかった。或は、彼女が意識的にそうしているのかもしれない。

 横の部屋の和室の引き戸が少し開いていたので、ふと中に目が行ってしまった。リビングから漏れた光だけが和室を照らしていた。目を凝らして奥を見てみると……仏壇と位牌が見えた。

 彼女の両親が亡くなっていたのを知っているとは言え、何か見てはならないようなものを見てしまった感覚を抱き、咄嗟に目を逸らした。

 何だか居心地の悪くなった俺は、ダイニングの横を通って、伊織があくせくと動き回るキッチンの方へと向かった。


「あっ、もうお腹ペコペコ?先に食べる?」


 こちらに気付いた伊織が、にこっと微笑んだ。


「いや、じっと座ってるのもどうかと思って……何か手伝う事無い?」

「真樹君はお客様でしょ? いいから座って待ってて。もうできるから」


 どうやらお邪魔らしい。わかった、と素直に承諾してダイニングに戻ろうとした時、ふと弱火をかけられている鍋二つを見たら、ぎょっとした。ビーフストロガノフとビーフシチューが別々の鍋でぐつぐつ言っていたのだ。

 確かにビーフシチューも捨て難いとは言った記憶はあるが、どちらも一度に食うとは一切言わなかったと思うのだけど、きっと〝捨て難い〟という意味から気遣って作ってくれたのだろう。

 しかし、いくら空腹の状態でもこの量は無理があるんじゃないか? しかも更にまだ何か作ってる様子だ。幸せなのだろうけど、胃薬が必要かもしれない。

 やる事も無いので、ダイニングの椅子に座って伊織の姿を眺めていた。何だか凄く楽しそうに料理を作っている彼女が印象的で、学校やデート等で見る彼女とはまた違って新鮮だった。

 それからまもなくして、彼女が残りの料理をテーブルに運び始めたので、今度は俺も手伝わせてもらった。そして全てを運び終わった時、テーブルぎっしりに並べられた料理を見て思わず絶句してしまった。俺がリクエストしたビーフストロガノフ、ビーフシチュー、ポテトサラダ(いずれもお代わり可)に何故かパスタ二種とハンバーグもついて、軽くホームパーティーでも開けそうな分量の料理がある。


「や、やっぱり作り過ぎたかな……?」


 並べ終わってから、ようやく伊織も量の異常さに気付いたらしい。


「ちょっと多いかな……でも、スゲー美味そう。早く食おうぜ。腹減って胃が捻れそうなんだ」

「うん。でもその前に、乾杯しようね」


 伊織は冷蔵庫からジンジャエールを取り出し、二人のグラスに注ぐと「お誕生日おめでとう」と言って、杯を交わした。高校生なのにかっこつけすぎかな、と伊織が少し恥ずかしそうに笑っていた。

 さて、御次はこの膨大な量の夕飯の制覇だ。伊織が作った料理は何を食べても絶品で、美味い、美味しい、最高、と何度この言葉を言ったかわからないくらいだ。フードジャーナリストみたいに上手い言い回しができないのが悔しいが、本当に嘘偽りなく美味しかった。

 シチューは昨夜から煮込んだのだろうし、ビーフストロガノフだって俺のリクエスト通り、玉葱少なめ甘さ控え目だった。何だか感動した。

 家庭的で暖かくて、安らぎと癒しを与えてくれる食卓……もし俺達が将来結婚したら、毎晩こんな夕食を食べられるのだろうか? そんな事が起こりうるなら、俺は地球上で一番の幸せ者なのではないか。大好きな人が作ってくれた料理を、大好きな人と一緒に食べられるのは至高の幸せなのかもしれない。


「美味しい?」

「もう何度も言ってる様に美味過ぎ! このハンバーグだって、オーブンでやってくれてるから肉汁がちゃんと残ってて……」


 食欲に任せてガツガツと食べる俺を、伊織は嬉しそうに眺めて微笑んでいた。実はそろそろ胃が限界に近づいてきつつあるのだが、そうやって微笑まれては、例え腹を壊してでも全部食べるしかない。俺はひそかにそう誓った。


「やっぱり、誰かと食べるのっていいね……」


 伊織はぽつりと言った。


「私の作ったご飯を美味しいって言ってくれる人がいて、寂しくなくて……暖かいな」


 力なく、しかし優しく微笑んだ。彼女の視線は真っ白なご飯を見つめたまま停まっていて、嬉しさと寂しが混ざった、何とも言えない表情をしていた。

 何か言わなくちゃいけない。本能的にそう感じた。


「……いつか、毎日一緒に食べられるようになろうな」


 少しキザだったかもしれない。というか、半分プロポーズみたいなものだ。言ってから気付いて激しく恥ずかしかったが、伊織は少し瞳に膜を張らせて、嬉しそうに頷いてくれた。


「実はね、マスターと、あと栞さんにだけ話しちゃったの。両親の事」


 彼女が唐突にそう切り出したのは、そろそろ満腹の限界に差し掛かった頃だった。

 今年に入ってから俺がバイトを始めた関係でシフト日以外はSカフェに行く事は少なっていた。そうなると必然的に彼女と夕食を取る事も少なくなるのだが、彼女は時折、この家で一人っきりの食事をするのが辛くなる時があるらしい。そんな時はSカフェに足を運び、マスターと会話を交わして寂しさを紛らわしていたそうだ。

 昨年までは彰吾の家にお邪魔させてもらい、一緒に夕飯を食べさせてもらったのだが、今となってはそれもできない。彼女にとって他に行く場所が無かったのかもしれない。

 しかし、マスターがそんな彼女を怪訝に思って「ご両親は?」と遂に尋ねたそうだ。その時、たまたまマスターと謎の関係の美人客こと栞さんも来ていた時らしい。俺はまだその栞さんとやらとは会った事がないのだが、伊織は何回か会っているそうだ。俺が運が悪いだけなのか、必然的にマスターが俺や信が来なさそうな日を伝えているのかはわからないが、栞さんと俺は縁がないようだ。

 ともかく、両親の死については周りに隠す形で今までやり過ごしてきたので、彼女としてはそれも精神的な負担となっていた。まるで二人が手を指しのべてくれたように感じて話したのだと言う。

 彼らは何も言わずに話を聞く事に専念して、自分の意見は何一つ言わなかったそうだ。

 マスターに関しては、きっと伊織の家庭に何らかの事情があることには薄々気付いていたのだろう。また、それを隠す事も辛くなっている彼女の内面も見抜いていたのかもしれない。その場合、彼はこちらが話すように仕向けてくれる。Sカフェのマスターとは、そんな人である。

 彼がさっき俺を呆れたように見たのも、少しわかった気がした。俺がそんな伊織の苦しみに気付いてなかったから呆れていたのだろう。


「俺を呼んでくれたら良かったのに……俺じゃ頼りなかった?」


 少しマスターに嫉妬したのは事実だった。どちらかと言うと悲しかったのかもしれない。寂しい時や辛い時、どうして俺じゃダメだったんだと思った。だが、そんなヤキモチを一瞬でも妬いた自分が、次の彼女の一言であまりにもガキだったと実感させられた。


「んーん……真樹君が頼り無いなんて一度も思った事ないよ。逆に、私が頼り過ぎないようにしてるだけかな」

「どういう事……?」

「真樹君優しいから、きっと私が『寂しいから来て』って言えばすぐにでも来てくれるでしょ? それは凄く嬉しいんだけど、甘やかされてばっかだと私がダメになっちゃうし……それに、真樹君には真樹君の家族がいるから、その時間を邪魔したくないの」


 これは家族との時間の大切さを知る伊織だからこそ、そう言うのだと思う。そう言われると、俺は何も言えなくなってしまう。それと同時に、今自分がどれほどダサい嫉妬をしていたか、考えただけで恥ずかしい。伊織は俺なんかよりずっと大人で、自分の感情の事だけでなく俺や、俺の親の事まで考えているのだ。

 それに比べて俺はどうだ? 自分の気持ちしか考えていないのではないか。情けない。伊織に相応しい男になるまで、いつまでかかるのか想像もつかなかった。

 本心を言えば、家族よりも伊織が大事だった。冷たい人間だと思われるかもしれない。今まで育ててもらったのに、自分でもひどい人間だなと思う。だけれど、これは紛れもない事実だ。

 しかし、これを言ったとしても彼女が喜ぶとは思えなかった。彼女の性格上、嬉しい半面俺の親に罪悪感を感じてしまうかもしれない。そうなると、また何か関係を壊しかねないものに発展してしまうのではないか……そう危惧してしまうのだ。


「あっ、ご飯冷めちゃうよ。シチューまだ食べる?」

「……ああ、食べる食べる。いくらでも食べれる」


 俺は笑顔を作って言った。実は胃の事情的にはかなり無理しているが、まだもう少しくらい無理できる。

 ──もっと、こんな時間を増やせればいいのに。

 空になったお皿を持ってパタパタとキッチンに行く伊織を見て思った。

 彼女に気兼ねなく一緒にいる時間を確保するにはどうしたら良いか? 彼女が辛い時、遠慮せずに俺を求められる様になるにはどうしたら良いか?

 方法は無い事は無い。だが、それはそれで、また何か波乱を呼びそうな気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る