8-5.エスパー・穂谷信

 六限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。今日はやたらと一分一分が長く感じたが、ようやく退屈な授業から解放された。今日ほど授業が終わるのを待ち焦がれた日は無い。何と言っても、この後は伊織が自宅でご馳走してくれるという俺の人生でも一大イベントが控えているからだ。俺はこの為に昼飯をパン一つで我慢した。だが、すぐに食べられるというわけではない。伊織は今から家に帰って夕飯の準備をするので、彼女から七時頃に家に来て欲しいと言われている。

 それまで何をするかが問題だが、予備校に行くというのが今のところ有力だ。この時期、受験生は入試本番なので、自習室等も結構空いている。

しかし、同時に自分も来年のこの時期は誕生日どころではなく、受験真っ只中なんだなと自覚させられ、気が重くなる。というか、あと一年しか無いのに、未だ志望校が決まっていないのもどうかと思う。

 このあたりはまた今度考えるとして……とりあえず今日は楽しもう。せっかく伊織が夕飯を作ってくれるんだから。

 ホームルームが終わると、伊織は俺に微笑みを見せてすぐに帰った。俺も何だか浮かれた気分になってきてしまう。


「あれっ? 今日はカノジョさんと一緒に帰らねーの?」


 伊織がすぐに教室に出た姿を見て、信が不思議そうに言った。確かに、いつもなら伊織が俺の席に来て『今日はどうするの?』と俺の予定を訊きに来る。

 俺が予備校に行かない時は図書室で一緒に勉強したり、マックに寄って他愛無い話をしたりと高校生らしい放課後を過ごしている。もちろん、伊織が眞下達と遊びに行くケースもあるので、毎日一緒に過ごしているわけでもない。


「ああ、ちょっとな」

「まさか、また喧嘩したんじゃないだろうな?」

「またって何だよ。あれは喧嘩したうちに入らないだろ」


 そう答えると、信はほっとした様子だった。彼にとっても、あのポッキー事件の期間は気苦労が耐えななかったのだろう。申し訳ないことをしたとは思っている。もちろん、今後はああいった事が起きないように気を付けるつもりだ。


「まあ、喧嘩したんじゃないなら何だっていいぜ。この後Sカフェでも寄ってかないか? どうやって修学旅行中に中馬さんを堕とすか戦略を練りたいんだ。皆のアイドル麻宮伊織を堕とした麻生の作戦を伝授してくれ」


 横目で教科書を鞄に仕舞い込んでる中馬さんを見て、こそこそと言う。まだそんな事を考えてたのか、と一瞬俺は呆れた。

 どんな優れた作戦を以てしても、無理な時もある。信はまだそれを理解できていない。しかも、俺は伊織を堕としたとも思っていないし、策を弄した記憶もない。迷いながらも真っすぐにぶつかっただけなのだ。

 どうせ信の与太話に付き合わされるだけなのは目に見えているが、ちょっと面倒だなとも思ってしまう。もうちょっと実のある話――それこそ眞下と仲良くなりたいだとか――なら時間を使って良いのだが、中馬さんが相手では無駄な時間にしかならない。勉強した方が有意義だ。


「あ、悪い。今日は無理なんだ」

「うわっ、冷てぇな。理由を言え」

「何でだよ」

「何か怪しい空気を感じる……」


 信は目を細めて俺を見た。

 こいつはエスパーか? 一瞬そう思ったが、俺は動じずに答えた。


「予備校だ、予備校。講義があるんだ」

「ほぉー。また白々しい嘘をブッこきやがるんだな」

「はぁ? 何で俺が嘘言わなきゃなんねーんだよ」

「では、何故に授業中ニヤニヤしてたのか述べよ」

「……ニヤニヤなんかしてないだろ」


 一瞬返事が遅れた。そう思った時には既に遅く、信はニヤリと笑って前の席に腰を降ろした。


「さて、ここで白状するまで拘束されるか、Sカフェにお付き合い頂くかどっちがいいかね?」

「……後者でお願いします」


 逆らっても無駄そうなので、今日は彼の軍門に下る事にした。


「でも、七時前にはマジで帰るからな? 用事があるのは本当だから」

「わーったよ。俺もお前の相談に何回か乗ってやったんだから、たまには俺の悩みを聞いてくれ」


 信に悩みという言葉が存在していたという事実が既に驚きだが、確かに彼の言う事も一理ある。俺は渋々頷いて、帰り支度をするのであった。


 Sカフェでバイトを始めてから、バイトの出勤日以外でここに来る事は珍しい。どうしても気分がバイトモードになって、リラックスできなくなってしまったのだ。

 店に入るとマスターも珍しがっていたが、信に連行されたと言えば納得していた。今日は客としてカウンターに座ると、ホットコーヒーだけ注文した。さすがに昼飯がパン一つでは苦しく、何か食べたいのだが、今日は我慢せねばならない。


「何も食わねーの?」

「ああ、腹減って無いから」


 そう嘘を言ったところで運悪く俺の腹の虫が鳴りやがって、マスターと信は同時に噴き出した。


「あからさまに腹が何か食い物を求めてんじゃねーか!」

「うるさい! 本当に減って無いんだよ!」


 赤面しつつ頑張って否定した。何故こんなにタイミング悪く鳴ってくれるのか理解し難い。何も今でなくても良いだろうが。


「金が無いなら何か奢ってやろーか?」

「いや、そんな滅相も無い! 俺なんぞに遠慮せず、どうぞお好きなように……」

「反応が怪し過ぎんぞ」


 俺の見苦しい言い訳は遮られて一蹴された。そんな様子を見て、信がパチンと指を鳴らして笑顔で俺を見てきた。


「謎は全て解けた!」

「……なんだよ」

「お前、晩飯麻宮と一緒に食うんだな?」


 ほんとにこいつは。どうしてこんなにも勘がいいんだ? 絶対に力の使い道を間違ってると思う。その勘の良さと推理力をテストに応用すれば、補習なんて出ずに済むと思うんだが……もちろん、こんな事を言おうものなら、またうるさいので喉元で留めておく。


「そんで、麻宮がすぐに帰ったところを見ると、今日の夜お前は招待されている立場だったりしちゃったりするんだろ⁉ そして、それがこの前の誕生日プレゼント代わりだ!」


 確信した。こいつはもはやエスパーだ。勘がいいとか探偵とかいうレベルではない。そうでないと、何でもかんでも当たるわけがない。その能力を眞下の気持ちにも適用できれば、二人も上手くいくのにな……などと思うが、きっとそれを言ってもうるさくなるので、これも喉元で留めておく。


「おいおい、黙るって事はマジなのかよ! 家って事は親御さんもいるんだろ? それってスゲー事なんじゃないのか?」

「はあ? 何言っ──」


 すんでのところで言葉が停まった。忘れていた。伊織の両親が亡くなった事を知っているのは、俺と彰吾、そしてクラスの担任くらいなもので、それ以外は誰も知らないのだ。

 少し前に黙っている理由を訊いたところ、〝両親が亡くなったから〟という色眼鏡で見られたくないからだそうだ。また、それを話した時に変な空気になり、『話させてごめん』と謝られてしまうのが、気持ち的につらいのだと言う。

 確かに、人という生き物はそういった事柄を知ると、無意識のうちに同情的に接してしまうものだ。相手には悪い事を言わせてしまったと、訊いた側も後悔する気持ちもよくわかる。だからというわけではないが、俺は伊織といる時、極力家族や家の話題は避けるようにしている。もちろん、俺が親や家の話をしたら何でもかんでも傷ついて泣くというわけではないだろう。しかし、どこに傷があるかわからない。俺としては何でもない事を言ったつもりが、過去を思い出させて悲しませてしまうという事態が無いとも言い切れないのだ。

 そんな手探りで傷口を探さなければならない話題ならば、しない方がいい。信が彼女を家に連れてきた時、俺が困惑したのはこれだった。何か俺の家の家庭的な部分を見て彼女が傷つくのではないだろうかと不安だったのだ。

 もしかしたら、これも一種の〝同情〟に入るのかもしれない。だが、彼女を傷つけたくないと思う事はそんなに悪い事なのだろうか? それとも俺が気を遣い過ぎなのだろうか? まだ伊織のそういった線引きに関して、俺は把握しきれていない面がある。彼女を傷つけないためにも、慎重に接さなければならないのだ。


「おい、難しい顔したまま途中で停まるなよ。何かマズイ事言ったか?」


 気がつくと、信が心配そうにこちらを見ていた。


「えっ? いや、別に。伊織の親、今日はちょっと遅くなるらしくてさ、今はまだいないんだ。だから、鉢合わせる前に帰らなきゃヤベーなって」


 とりあえず咄嗟に思い浮かんだ嘘を並べた。


「あ、そうなのか。鉢合わせになったらそりゃヤバイな。言い訳考えといた方が良くないか?」

「……いや、別にいいや。そんなに長居するつもり無いしさ。で、中馬さんを堕とす作戦って?」

「おっ、そうそう。まず俺達が二人になる為にはまずお前の協力が必要でだな……」


 信が楽しそうに作戦を述べている最中、俺はどこか罪悪感を感じていた。信には話しても良かったんじゃないか? と思う気持ちがあったからだ。

 先に言っておいた方が、これから先家族関連の話で信が失言する率も低くなるだろう。だが、言うにせよ、それは俺の判断だけでは言えない。

 伊織の意志を最優先すべきであり、例え彼女の事を想ってであっても、俺の独断で話す権利は無いのだ。ふと気がつくと、マスターがこちらを呆れたような目(少なくとも俺にはそう感じた)で見ていた。

 何故、彼がそんな風に俺を見たのかはわからない。俺はやや気まずい想いをしながらも、信の作戦に耳を傾けていたら、やはりそれは有り得ないシチュエーションばかりの空想的大作戦だった。時間の無駄である事には変わりなかったが、時間潰しにはなった。

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