8章・幸福な如月

8-1.煩悩と誘惑の戦い

 伊織が初めて俺の部屋に来た日から、数日が経っていた。二月に入っても寒さは相変わらずで、温暖化なんて嘘だと思えた。実際にそういった学説もあるらしい。例えば、中世の始まりと言われるゲルマン民族の大移動だ。当時もちょっとした氷河期だったらしいのだが、その際も温暖化現象が起こっており、今回の温暖化も氷河期の前ぶれではないかと言われている。

 しかし、今回の温暖化は昔のものとは違い、明らかに人為的作用で起こっている。デカルトの物心二元論、フランシス=ベーコンの『知は力なり』に始まった自然破壊が何世紀も経て地球をズタズタにしてきた。そういった学者は、極地の氷が熔けて海面が上昇しているという現実を理解できていないのだろうか。少なくとも俺が生きている間に地球が死星となる事は無いだろうから良いけれど……孫の代でまだ保てているかどうかが疑問だ。

 ──などと、小難しい事を考えてしまうのは、数日前の伊織との〝交わり〟が未だに脳裏にこびりついてしまっていて、心却を滅しないと煩悩で精神が持っていかれてしまうからだ。

 あの〝交わり〟以降、伊織との距離がとても近付いた気がする。というか、あの時は色んな意味でゼロ距離だったので、それも当たり前なのだが……あの日以降、彼女からのボディタッチが増えた。俺の体に触れることを躊躇しなくなったというか、教室で話しているだけなのに、いきなり手を添えてくるのだ。周りに人がいなかったら、もっと大胆になる。

 例えば、まさしく今がそれである。放課後に勉強をしようと伊織と二人で図書室に来たのだが、テストシーズンでもなく、更に上級生も学校に来ていないため、ガラガラだった。

 もちろん最初はちゃんと勉強をしていた。それがしばらく経って、お互いの集中力が切れてきた頃、伊織が俺の手で遊び始めたのだ。両手で俺の手をこねくり回したり、指で弄んだりしてきて、くすぐったい。大好きな彼女からこんな事をされて、勉強なんてできるはずがなかった。


「なに? いきなりどうした?」

「え? 何となく……この手、好きだなって」


 伊織は悪びれた様子もなく、目だけで笑ってみせて、また指で俺の手を弄んだ。その笑顔が、少し艶っぽい。両手で包み込むようにしたり、ぎゅっと握ったり、とにかく飽きる事なく俺の手を弄る。

 もう勉強を諦めて、そうして手を弄ぶ彼女を眺めた。人差し指と小指を引っ張ったり、指を優しく握り込んだり、爪を撫でたり……よくもまあそこまでレパートリーがあるもんだというくらい、弄ぶ。


「あ、痛くない?」

「痛くないよ。つか、どっちかって言うとくすぐったい」


 言うと、彼女はまた嬉しそうに笑って、彼女の業務(俺の手を弄ぶこと)に戻った。

 こんな事をされていて、理性を保てている自分に驚く。いや、まるで修行僧の如く心却を滅しているのだ。今の俺は、あの時とは違う。この程度の煩悩には負けないほど、鋼の精神力を有しているのだ。滝の修行をしている場面を想像し、真冬の滝に打たれた痛みと寒さを思い浮かべる。

 と言っておきながら、下半身に血流が流れつつあるのだが、ここは学校の図書室。絶対に暴走させるわけには行かないので、根性で煩悩を滅するしかない。


『心頭滅却すれば火もまた涼し、心頭滅却すれば火もまた涼し、心頭滅却すれば火もまた涼し……破!』


 まるで念仏を唱えるように、自身の煩悩を抑えつける。すぅっと心が静まり返り、血流も元通りになった。


 ──どうだ見たか、釈迦め。俺は今、煩悩を抑え込んだぞ。俺の勝ちだ!


 何と戦っているのかわからない状況ではあるが、とりあえず釈迦に勝利宣言をしてみた。

 その勝利宣言をした瞬間である。じーっと伊織は俺の人差し指を眺めていたかと思うと……いきなり、かぷっと優しく第一関節まで人差し指を咥えやがったのだ。まるで、クレープに乗っている苺を食べるかのように、嬉しそうに。

 その驚異の行動に、ガン、と机に頭を打ち付けて突っ伏した。理性が煩悩に負けた瞬間である。おのれ、釈迦め……卑劣なり。なんという修行を持ちかけてくるのだ。こんなもの、高位の坊主でも耐えられないだろうが。


「え、どうしたの? もしかして、痛かった?」


 慌てて訊いてくる彼女。その時、彼女は何となしに、自身の唇を舐めた。それがまたどうしようもなく艶めかしくて、清楚な彼女との印象が掛け離れていて。余計に彼女に狂ってしまいたくなる。先ほど彼女の口に含まれていた俺の人差し指は、外気に触れて、少しだけひんやりしていた。


「いえ、全く痛くないです……」

「嫌だった?」

「全然。むしろ嬉しいです……」

「そう? よかった」


 言うと、彼女はさっき咥えた人差し指に……優しくキスをしてきた。

 ──オーバーキル。死体に向けて銃弾をぶち込んでくるほど、今日の伊織さんは容赦がなかった。

 思えば、こうして二人きりになるのはあの部屋での一件以来なので、彼女なりに色々我慢をしていたのかもしれない。ただ、あまり過激なことをされると、こっちの心臓が壊れそうだ。心筋梗塞にでもなったらどうしてくれる。

 それからしばらく、彼女は死体に銃弾を撃ち続けた。


 ──もう、勘弁して。


 そう思ってはいるものの、彼女の幸せそうな顔を見ていると、何も言えない俺だった。ただ、勉強の最中だけはやめさせないといけない。毎回こうだと、全く勉強が進まない。ただ、やめてほしくもないという本音も、もちろんあるのだった。

 煩悩との戦いは、終わりそうになかった。

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