7-20.守りたいもの
見慣れた天井、見慣れた勉強机に本棚、壁。
俺にとって毎日当たり前に見ていたこの光景が、まるで別世界のように思えてならなかった。そう思える原因は一つ。毎日寝ているベッドで、誰よりも大切な彼女が、俺の腕を枕にして眠っているからだ。
お互い初めて尽くしで、大変だった。映像のようには全くうまくできないし、彼女も最初はとても痛がっていて気が気でなかったし、たくさん苦労もかけてしまった。しかし、大変だったけども、無事なんとかなり……今こうして、人生で最も幸せな時間を迎えているのだった。
思い返すだけで、またドキドキしてくる。今まで自分達がしていた事を信じられない。しかし、彼女は横で幸せそうに眠っていて、お互いの衣服がベッドの横に脱ぎ捨ててある。自分の記憶とこの状況証拠では、自分の記憶が事実であったと信じるほかない。
加湿器と暖房の音がやけにうるさくて、耳障りだった。それでも、彼女の小さな寝息を聞き逃すまい、と聴力を集中させる。
実際に経験してから初めてわかったことは、幸福感というものは、行為そのものにあるわけではないという事。こうして、穏やかに彼女を眺め、愛しくて愛しくて堪らなくなるこの瞬間こそが、最も幸福なのだ。
伊織と付き合う事になったクリスマスイブのあの日も幸せだった。けれども、あれとはまた質の違う幸福感が、ここにはあった。
あまりに愛しくておでこにそっとキスをすると、彼女がゆっくりと目を開けた。
「あ、悪い。起こした?」
ぼやっとしている彼女に、そう語り掛けると、彼女はハッとして顔を掛布団で覆い隠して、目だけこちらを覗かせた。顔が赤いのがわかった。きっと彼女も、色々と思い出してしまったのだろう。
「ね、寝ちゃってたんだ、私……」
「うん、小一時間くらい」
「ごめん」
「いいよ。寝顔たくさん見れたから」
ばか、とつぶやいて、伊織は掛け時計に目をやった。
「もうこんな時間なんだ……」
時刻は夜の六時を過ぎていた。信と伊織が来たのが二時だったが、まさかこの四時間の間にこんなに人生観が変わるとは思わなかった。ただ、この余韻に浸れる時間ももう長くない。もうそろそろ親が帰ってくる時刻だった。
「そろそろ帰ったほうがいいよね」
「まあ、もうすぐ親帰ってくるかもだから」
「うん……」
伊織が、じぃっとシーツに包まったまま視線を送ってくる。
「なに?」
「ううん……帰りたくないなぁって」
そんな事を言う彼女が愛しくなって、抱き締めて、唇を何度も重ねた。彼女は嬉しそうに笑って、今度は鼻を俺の首筋に当ててくる。
少しだけいちゃついた後、伊織は脱ぎ捨てた服をもう一度身に着けていた。着替えている間はこっちを見ないでと言われたので、俺は壁と向かい合う羽目になっている。さっき全部見たからいいじゃないか、と思うが、どうやら別らしい。
彼女が部屋を出ていこうとした時、俺はふと部屋の片隅にある袋に目がいった。
そういえば、大事なものを忘れていた。彼女に渡さねばならないものがあったのだ。
「あのさぁ……」
「ん……なぁに?」
何気なく振り向いた伊織。それはいつも見る彼女の表情だった。でも、なぜだろう。今までと違って、そんな何気ない仕草でも、伊織がやたらと大人に見えたのだ。
「いや、ストーキングとかされてないかなって」
「え? 多分、されて無いと思うけど」
「そっか。ならいいんだけど。もし何かつけられてる感じしたりとか、家に入った時に異変感じたりしたら、絶対俺を呼べよ。すぐに駆け付けるから」
「……うん、わかった。でも、いきなりどうしたの?」
「いや、何となく。お前、可愛いから誰かに狙われたりとかしてないかなって……心配になってさ」
これだと『いきなりどうしたの?』の答えになってないな、と苦笑した。『いきなり』の理由は、ちょっと恥ずかしかったからだ。だが、伊織の身の安全については俺が常に心配している事であった。
彼女には守ってくれる家族がいない。例えば空き巣に入られたり、宅配を装った犯罪者が現れたりしたら、身を守る術が無いのだ。双葉さんの話からすると、三野が何らかの復讐を企てる可能性もある。いくら俺が脅したからと言って、何もやって来ないとは言い切れないのだ。
幸にも俺は近くに住んでるし、何かあればすぐに駆け付けてやれる。そんなとこは遠慮せずガンガン頼って欲しいのだ。
「真樹君が可愛いとか褒めてくれるのって珍しいね」
「……さっき、散々言ったと思うけど」
さっき、とはもちろん真っ最中の事である。言うと、彼女は無言で優しく拳でぽかりと叩いてきた。でも、怒っているわけではなく、恥ずかしそうに笑みを浮かべていただけだった。
「それは良いとしてさ。とにかく、ちょっとでも何か危なく思ったら連絡寄越せよ?」
「うん、わかったってば」
「誓約できる?」
「はい。私、麻宮伊織は身の危険を感じたら即真樹君に連絡する事を、ここに誓約します」
伊織は宣誓の代わりにキスをしてきて、微笑んだ。やっぱり、今日だけで彼女はすごく大人っぽくなった気がする。
「よろしい。じゃあ、ご褒美にこれあげるよ」
俺は部屋の隅に仕舞ってあった巨大クマプーの入った袋を取り出し、彼女に手渡した。
「遅くなったけど、交際一ヶ月記念プレゼント。本当は二十四日に渡したかったんだけど、あんな状態だったろ? まぁ、これ取ったのも二十四日なんだけどな」
袋を受け取った伊織は、早速巨大クマプーを袋から出した。
「これって……もしかして、駅前のゲームセンターの?」
喜びというより、まず驚きの表情を見せた。『うそ⁉ ありがとー!』と喜ぶ顔を想像していたので、ちょっと期待外れだ。あまり欲しくなかったのだろうか。
「あれ? 知ってたの?」
「うん……木曜日にね、詩乃と明日香ちゃんに、クマプーの限定品が入荷されたから行こうって誘われたの。真樹君とはあんな感じだったし、私は気分的に行きたくなかったんだけど……二人共私が落ち込んでるっていうのわかってて誘ってくれたみたいだから、断れなくて」
そして彼女がゲーセンで見たものは、大きなUFOキャッチャーの中に一匹しかいない巨大クマプーだったという。店長に『君達と同じ高校の男子にたった八〇〇円で取られたから、頼むから取らないでくれ』とお願いされたそうだ。しかし、それでハイそうですかと引き下がる眞下や双葉さんでは無く、俄然やる気を出して挑戦した。
だが、結局二人には取れなかったようだ。伊織も限定クマプーに興味が無かったわけではないが、UFOキャッチャーをする気分にはなれなくて、そのまま帰ってしまった。そして……その八〇〇円でクマプーを取った高校生とはまさに俺であり、それが自分にくれる為のものだった、という事だ。仕組んだわけではないが、世の中面白い偶然が重なるものだ。
「ずるいよ……」
「え?」
彼女はぬいぐるみをぎゅっと抱き締めて、涙を堪えていた。
「こんな風にされると私が嬉しくて堪らなくなるのわかってて、しかも自然にそれができちゃうなんて、ずるい……」
なんだかその姿が可愛くて、思わず俺はよしよしと頭を撫でてしまっていた。
「最低な事しちゃっても許してくれて、それどころか私が気にしないように慰めてくれて、記念日の事も覚えててくれて……」
伊織はぬいぐるみを離し、横にいた俺の首に両手を回した。しがみつくように俺を引き寄せ、胸に顔を押し付けてくる。
「ずるいくらい、かっこいい……」
伊織にかっこいいと思ってもらえたなら、よかった。それは俺にとっても最も嬉しい事だし、ずっとそう思われていたい。
髪に指を通して、何度も撫でた。大好きな彼女の香が俺を包み込み、幸せに導いてくれる。伊織のあごをあげて、ゆっくり口付けた。
その時見せた彼女の照れたような、それでも嬉しそうな笑顔。
──この笑顔を一生守りたい。そう心から思った。
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