7-19.初めての……

 俺はカタカタ震えながらマグカップを乗せたトレイを持ち、重い足を二階に向かわせた。部屋の扉を開けると、伊織は小さなテーブルの前で何かをするでもなく横座りをしていた。俺が部屋に入ると、慌てて立ち上がってお盆を持ってくれた。

 伊織がテーブルにコーヒーを置いたので、俺もテーブル越しに彼女の対面に座った。部屋で伊織と二人きりになるなんて、考えもしなかった。いや、妄想の中では色々考えてたけど、それはあくまでも妄想で、現実的じゃなかった。


「あ、この部屋から私の家見えるかな?」


 俺と対面になるのが気まずいのか、伊織は立ち上がって窓辺に立ち、自分の家の方角を見た。伊織の黒のミニスカートに包まれた小さなお尻が俺の目に飛び込んでくる。

 何で今日に限ってミニなんだよ、と視線のやり場に困りながら、欲望に点火しそうになるのを必死で防いだ。

 伊織はバンド練習の時も結構スカートを履いていたりするのだが(というか、制服もスカートだけど)、いつもはそれほど気にならない。たまに中が見えそうになったらドキッとはするけど、慌てて目を逸らしてしまう。我ながらなかなかの小心者である。


「う~ん、やっぱり見えないね」

「あ、ああ」

「ちょっと安心かも。もし真樹君の家が見えてたら、そっちばっかり気になっちゃう」


 伊織は少し照れたように言った。ちくしょう、なんて可愛い事を可愛い顔で言ってくれるのだ。

 彼女は再びテーブルの前に正座して座った……のはいいが、座った拍子に、薄ピンクの見てはならない布地が一瞬見えてしまった。って、何見てんだよ。ヤバい。明らかに普段の俺じゃない。何か変だ。そっちの方面ばかり考えてしまう。


「いただきます」


 伊織はそう口にしてから、コーヒーを口に含んだ。


「でも、信君も変わってるよね。柿の種だなんて」

「え? あ、ああ。そうだな」


 そこで会話が終わってしまった。

 俺のバカ……何で会話を終わらせてるんだよ。せっかく伊織が必死になって会話を繋ごうとしてくれてるのに。

 そこからしばらく無言の時間が続いた。お互い視線を合わせられず、視線が泳ぎまくり。信が買ってきたお菓子に手を伸ばすも、緊張で味がしない。伊織もどこかそわそわした様子で、視線を部屋のあちこちに向けたり、手元のコーヒーに向けたりしている。そんな時にふと目が合ってしまって、お互い慌てて目を逸らした。

 早く帰って来てくれ、信。これでは間が持たない。俺にはお前が必要なのだと心の中で死ぬほど祈った。

 その時、伊織のスマホが鳴った。LIMEらしく、彼女はスマホを見て、そして固まった。


「ど、どうした? 何かあったとか?」

「う、うん。その、信君からだったんだけど……用事思い出したから帰るって」


 ほら、と伊織はスマホの画面をこちらに向けて見せてくれた。

 まじまじと見ると、信からのトーク画面には、確かにそう書いてあった。

 ──マジかよ。俺は大混乱だ。カオスの絶頂だった。まるで信を救世主メシアのように待ちわびていた俺にとっては、まさに裏切りも同然の行為。

 いつかアイツは俺の事をユダと呼んだが、まさしく信こそがユダだ。『信』という名前のくせに、全く信用できない。どうしようか迷っていると、次は俺のスマホが鳴った。


「あ……真樹君の方にも信君から何か送られてきたんじゃない?」


 言われてスマホを見てみると、液晶の画面に、ポップアップされた文字が表示されていた。嫌な予感はしつつも、俺も開いて見た。


『邪魔者は消えたぜ! 後は若い二人で濃密な時間を過ごしたまへ。いいか? とりあえず押し倒せ! 押し倒して強引にチューして欲望のままに野性の本能を爆発させて二人で初体験を済ませてしまうのだ! なに、礼はいらん。ただし、エッチの情景・内容・また麻宮の反応等を詳しくレポートして提出するように。では、健闘を祈る』


 俺は脳が停止してしまった。

 は、初体験だと⁉ バカか、テメーは! 俺等付き合い始めてまだ一ヶ月ちょいだぞ、無理に決まってるだろうが!

 そんな事思っていながらも、一瞬伊織とそうなっている事を想像している自分がいた。そんな自分が嫌になる。いや、男としては当然だし、想像の中でなら何度もそうなっているのだけれども、賢者タイムを迎える度、彼女を汚してしまった気になって、罪悪感を覚えてしまうのだ。


「信君、何て?」


 伊織が黙り込んでいる俺を、怪訝そうに見ていた。


「え、いや、あの、その……そっちと同じような内容だったよ」

「ほんとに? 何だか目見開いて顔ヒクついてたよ?」

「ま、マジマジマジマジ! 俺が嘘吐いた事あったか?」

「な、何でそんな必死なの? 何か怪しいなぁ……見せてよ」

「いや、だからそっちと同じ内容だから無意味だって」


 冗談じゃない。こんなLIMEを見られたら、伊織は二度とここには来なくなるし、俺への信頼が壊滅してしまう。


「同じだったらそんなに必死にならないんじゃない? 私も見せたんだから、見せてよ」

「プライバシー保護法が日本にはあってだな……法律違反する気か?」

「相変わらず大袈裟だなぁ。でも、見るなって言われたら、余計気になっちゃうじゃない?」

「いや、気のせい気のせい。こんなものにフェティッシュを見出だしちゃいけない。見たとしてもきっと期待に答えられない程くだらないものだから、見るだけ人生において貴重な青春時代の時間を無駄にしてるようなもんだって」


 こうなったら適当な言い回しをして逃げるしかない。


「うん? 面白く無くても全然良いし、見る時間なんて数秒でしょ? それとも、私には見せられない内容?」

「うっ……」


 その通りでございます、伊織様。俺の言語撹乱作戦は見事に失敗し、要点だけ答えられて、更にイタイ斬り返しを食らってしまった。しかし、冗談でも見せられるわけがない。一発ビンタを食らって帰られそうだ。


「あー! やっぱり見られるとまずい内容なんだ?」

「ちげーよ、バカ!」


 めちゃくちゃまずい内容です。


「じゃ、早く見せてよ~」

「こ、これはスワヒリ語で書かれてるから、伊織には解読不能なんだって! 俺でさえ月日を掛けて解読しないと……」

「嘘ばっかり!」


 ごもっとも。全くもって嘘だ。


「そんな下手っぴな嘘吐いてると、無理矢理にでも見ちゃうよ?」

「は? おい、ちょ、落ち着け!」


 伊織がいきなり立ち上がり、俺の方へ襲いかかってきた。逃げようとしたその時──伊織は正座していた為、足が痺れてしまっていたようで──勢い良く立ち上がって足を踏み出したのはいいが、血流のほうがついて来ていなかった。途端にバランスを失い、俺の方へ倒れてきたのだ。逃げようとしていた俺も不安定な体勢だったので、彼女を受け止め切れず……そのまま後ろのベッドに押し倒される形になった。


「やだ、足痺れちゃった。ごめん、大丈夫?」


 伊織がおかしくて堪らないという様に笑いながら言った。


「ほら、この勝負俺の勝ちだ! 諦めて足でもマッサージしてやがれ」

「やだ! 見たい~、絶対見る~!」


 伊織が俺の上に乗ったまま、俺の右手にあるスマホへと手を伸ばそうとした。その時、


「「…………………………」」


 二人の距離にお互いが気付き、動きが停まった。

 スマホのある右手はできるだけ遠くに伸ばしているが、左手は伊織をしっかりと抱える形になっている。体も密着していて、ほとんどお互い抱き合っているのと同じだった。

 セーター越しでも伊織の柔かな胸の感触が伝わってきて、一気に頭に血が昇った。今が冬で本当に良かった、と思う。夏場の薄着なら、理性を保てているかどうか怪しい。というか、今でも相当ヤバい。どうやら俺の下半身の暴走はまだバレていないらしいが、下半身への血流がどんどん増えて行っている。いくらジーンズを履いていると言っても、このままではバレてしまうだろう。

 鼻先スレスレに伊織の顔があり、伊織の吐息が頬の皮膚を撫でる。俺たちは時が停まったかのように、じっと見つめあったまま、固まっていた。

 伊織の瞳がとろんとしているように見えるのは気のせいだろうか? いや、気のせいだ。気のせいに違いない。気のせいで確実だ。謎の三段活用を言って自分に言い聞かせているのに、心臓がバカみたいに高鳴って、うるさくて堪らない。そして、彼女の胸から伝わってくる鼓動も、俺と同じくらい早かった。

 は、早くどいてくれと、祈るような気持ちで思っていた。伊織の匂いは、甘くて切なくて、何だかどうしようもない気分に襲われる。理性がどんどん打ち負かされていくようが、手に取るようにわかった。

 もう抑えられる自信がない。右手のスマホを握力から解放すると、スルッとベッドの上に抜け落ちた。

 まだ、彼女はじっと俺を見たまま、動かなかった。

 自由になった右手も彼女の背中に回そうとした時、なんと――伊織が自らの唇を、ゆっくりと俺の唇へと押し付けてきたのだ。

 重なる唇。一昨日の屋上の時以来の口づけだった。ただ、ロマンティックな雰囲気に浸れるほど、俺は今落ち着いてはいなかった。一言でいうなら、大混乱だ。何が起こっているのかわからない。伊織がこんな風に大胆になった事など、過去に一度もなかったからだ。

 困惑して一度彼女から距離を離そうとするが……彼女はそれに反発するように、剥がされまいと俺の肩を掴んだ。そして、ぎゅっと自分へと引き寄せ、同時に唇を押し付けてくる。

 あまりの彼女の異常行動に驚いて固まっていると、今度は……重なった唇の先から、彼女の舌が遠慮がちに俺の唇を割って入ってきたのである。彼女の薄くて柔らかい舌が、俺の歯を撫でまわすように、遠慮がちに優しく口内を蹂躙していった。俺の肩を掴む彼女の手は、震えているように思う。

 もう、限界だった。そこまでされて我慢できるほど、俺の理性は強くなかった。俺も彼女を力一杯ぎゅっと抱きしめて、彼女のキスに応える。上手いとか下手とか、そんなのお互いにわからなくて、ただただ馬鹿のひとつ覚えみたいに、互いの舌を絡ませた。

 少し息苦しくて、ふたりの吐息が舌を通して絡まりあう。その一瞬の隙間から漏れる伊織の喘いだような声が色っぽくて、思わず一欠片だけ残っている理性が飛びそうになった。脳が溶けるような幸福感と、抑え切れなくなりそうな本能が鬩ぎ合う。

 それでも、俺たちはそれをやめなかった。

 彼女はぎゅっと俺の肩あたりの服を掴んで握り締め、そして俺も力いっぱいに、まるでくっついてしまうのではないかと思うくらい、彼女を抱き締めた。

 加湿器と暖房の音、そして吐息と唾液の絡み合う音だけが部屋を支配していた。伊織に覆いかぶさられた俺は反抗することもなく、ただ舌を絡ませ合った。きっと伊織は、自分の体に固くなったものが当たっている事もわかっているだろう。恥ずかしさと背徳感と、このまま進んでしまいたい気持ちが鬩ぎ合う。

 大人のキスは前に屋上でもした。しかし、これは前のそれとは少し違う。仲直りでもなく、苛立ちでもなく、安心でもなく、本能がむき出しになっているだけのキス。何度も舌を絡ませているうちに、彼女の体もびくっと震えて、その度に色っぽい声が漏れた。

 どれだけそれを続けただろう? 永遠のように幸福で甘美で、そして艶やかな時間だった。

 息を切らしたことで、一旦伊織は唇を離して、今度は崩れるようにして俺に身を任せた。そして、荒くなった息を整えながら、伊織は耳元で囁いた。


「ごめん……」

「え、何が……?」

「私、真樹君の思ってるような女の子じゃないかも……」

「どういうこと?」

「その……私だって、好きな人と……〝そういう事〟したいって……思うよ?」


 その意味がわからないほど、俺も子供ではない。というより、驚きを隠せなかった。伊織は全く〝そういう事〟に興味がないと思っていたし、勝手な俺の先入観で、もしかして嫌っているのではないかとも思っていたからだ。


「寂しくて、会えない時が続いてたから、余計にそう思っちゃって……こんなの考えちゃだめだって思うけど、抑えられなくて。それに、ここ最近ずっとあんな感じで話せてなかったから、もう不安で、怖くて……おかしくなりそうだった。もうあんなの絶対に嫌……」

「伊織……」

「全部真樹君のものになりたいな、なんて」

 小さな声で、恥ずかしさを何とか抑え込んで、言葉を紡いでいる。そんな印象だった。

「真樹君は、こういう女の子、嫌い……?」


 泣きそうな顔で、切な気に訴えてくる彼女があまりに愛しくて。その答えの代わりに、めちゃくちゃ強く抱きしめた。

 無理しやがって、バカ。

 伊織がこんな行動に出たのは、おそらくあのポッキー事件が原因だ。伊織は不安だったのだ。怖くてどうしようもなくて、心も身体も全て繋がっていないと不安になってしまうほど、見捨てられる事に恐怖していたのではないだろうか。

 その証拠に、彼女の身体は僅かに震えている。伊織は俺が初めての彼氏と言っていたから、おそらく〝そういう事〟の経験は無いはずだ。初めてなのに、自分からこんな申し出をしないといけない状態になってしまっていたのだ。

 もちろん、真相はわからない。言葉通り俺と〝そういう事〟をしたいだけなのかもしれないし、それ以上の意味があるのかもしれないし、その両方なのかもしれない。おそらく、訊いてもきっと彼女は教えてくれないだろう。

 ただ、彼女の方からこれを口にするのは、とても勇気が必要だったはずだ。俺だって嫌われるのが怖くて言い出せなかったのに、それを彼女に言わせてしまった。これ以上、男として、彼氏として、伊織に勇気を出させるわけにはいかなかった。

 大丈夫だと、何も問題ないと、彼女を安心させることがなによりも大切だと思った。そうであるなら、俺の取るべき行動は、一つしかない。


「そんなわけない。そんなわけねーよ。俺も伊織から嫌われたくなくて、そういう風にならないようにしてた」

「……よかった。私、魅力ないのかと思ってた」

「そんなわけないだろ、バカ。ありすぎなんだよ。我慢するこっちの身にもなってくれよ」

「じゃあ、もう我慢しないで」


 真剣で、慕うような眼差し。そこから、彼女の覚悟と愛情を感じた。

 その言葉にこくりと頷くと、彼女は少しだけ笑顔を見せて、頷き返してくれた。その時の笑顔はいつもの笑顔と少し違っていて──目が潤んでいるせいか色気があって──とても、艶やかだった。心が融けてしまいそうで、全てを奪われそうな笑顔。全て奪われてもいいと思ってしまった。


「なあ、伊織」

「なあに……?」

「好きだよ」

「私も……大好き」


 滅多に言わない言葉を言って。

 俺達はそのままもう一度見つめ合って。

 そして、もう一度深い口付けを交わした。

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