7-15.休息

失礼しますと声をかけてから、保健室のドアを開けた。保健室の中は石油ストーブが設置されていて暖かかったが、相変わらずの薬品臭さだ。

 保健室に来るのは久しぶりだった。二年の一学期まではしょっちゅう仮病をして授業をサボりに来ていたが、二学期以降は一度も来ていない。人間、変わるものだと思った。

 保健室に入ると、保健のおばさん先生(もう名前すら憶えていない)が怪訝そうに俺と伊織を見た。もう昼休みが終わって、すでに十分程度経過している。あまりこの時間帯に保健室に来る生徒はいない。


「麻生君、もう授業始まってますよ?」


 俺をサボり常習犯と認定している保健のおばさん先生は、ジロッと威圧するようにこちらを睨んだ。


「いえ、今日は俺じゃなくて、彼女を休ませたくて。どうにも昼休みから体調悪かったみたいなんで、連れてきました。授業受けようか迷ってたみたいなんですけど、無理して体調壊すのもどうかと思いまして」


 俺は歩きながら考えていた言い訳をスラスラ言った。サボるための言い訳を使わせたら俺の右に出るのは信くらいのものだ。いついかなる場合もサボれるよう、言い訳のストックは常に溜めておくのが俺達ろくでなしコンビの鉄則である。それらのストックを用いれば、伊織を休ませる口実を考えるなんて朝飯前だ。


「あ、そうなの。じゃあそっちの子、名前とクラスは?」

「に、二年八組の麻宮伊織です」


 少し緊張した面持ちで伊織は答えた。彼女はどうやら人生でサボった事が無いらしい。生理痛が重くて本当に倒れそうな時は休ませてもらうらしいが、今みたいにただ疲れている時は大抵我慢して授業に出るそうだ。


「あ、例の転校生の子だね? じゃあ、こっちにお座んなさい」


 保健医は、伊織を自分の近くのソファーに座らせ、体調の具合い等を記す問診票とペンを渡されていた。その用紙には、現在の具合いを訊く質問だけではなく、昨日何時に寝たか、朝ご飯は食べたかどうか等の生活についての質問もある。

 症状は寝不足から来る頭痛、風邪気味と書いとけば寝かせてもらえるので、彼女にもそう指示しておいた。


「遅くなってすみません。麻宮がどうするか決めかねている間にチャイムが鳴ってしまって」


 伊織が問診票を書いてる間、俺は自身と彼女のフォローに入る。一応、苗字で呼んでおいた。


「いえいえ。それにしても麻生君と会うのは随分久しぶりだわねぇ。最近全然来なくなったじゃないの」

「そうでしたっけ? できるだけ健康を保ってますし、多少無理もするようになったんで」


 俺は爽やかな笑顔で答えた。ここでも人気者を装う時の教訓が生きている。結構この方が楽に生きれるのかもしれない。多分、精神的に疲れるのだろうけど。陽キャはこれを自然にできて、陰キャはこれを頑張らないとできないんだろうなぁ、などと考えていた。


「あら。という事はあなた休んでいかないのね?」

「はい。遅刻届けと彼女の休養届けを持ってすぐに教室に戻ります」

「珍しいわねぇ。毎週一回はサボりに来てたあの麻生君が、保健室に来てすぐに帰るだなんて」

「サボるだなんて人聞きの悪い。あれは体調不良ですよ」

「毎週、体育の時間に体調が悪くなってたのね?」

「そうでしたか? どうでもいい事は忘れる主義なんで覚えてないです」

「あら都合の良い事!」


 そんな俺達のやり取りを見て、伊織がくすっと笑っていた。

 保健おばさんの言う通り、以前はこの保健室をよく利用していた。寝不足の日だったり、体育の授業時だったり、何かサボりたくなった時だったり、夢に逃避したくなった時だったりとか……そういえば、伊織が転校してくる前まではそれが当たり前だった。先生も、俺の学校での立場があまり良くない事は察していたので、おそらく大目に見てくれていたのだろうと思う。保健室には、駆け込み寺的な要素もあったのだ。

 俺達が無駄な話をしている間に伊織は問診票を書き終わり、先生にそれを渡した。先生はそれを見てから彼女の表情をチェックすると、ふっと鼻で笑った。


「二人の問題解決は、なるべく休み時間中にする様努力しなさいね」

「……うっ」


 おもいっきりバレていた。やはり伊織の演技力ではダメだったか。俺はバツの悪い表情を隠すために、薬品棚に視線を移した。


「あらあら、瞼と唇が腫れてるみたいね。氷で冷やしときなさいね。一時間あれば少しは引くでしょうけど」

「は、はい……」


 恥ずかしくなったのか、伊織も下を向いてしまった。


「じゃあ二人共、生徒手帳出しといて」


 保険医はそう言いながら、氷を取りに部屋を出た。桜ヶ丘高校では、遅刻・早退・休養届けは生徒手帳の『届け出等』というページに記され、そして生徒手帖を担任や授業をしている先生に提出せねばならないのだ。久々にそのページを開けてびっくりした。去年の秋以降から遅刻や早退が極端に減っている。入学した時から伊織と一緒だったら、皆勤賞も狙えていたかもしれない。

 そんな事を考えてるうちに、氷と水を入れた透明のビニール袋を持って先生が戻ってきた。


「目の方を重点的に冷やしなさい。じゃないと泣いてた事がバレるわよ」

「はい……」


 伊織はおずおずと氷入り袋を受け取り、俺に非難の視線を向けてきた。

 言っておくが、目論見が外れたのは俺のせいではない。確かに俺が言い訳をすれば大丈夫だとは言った。しかし、伊織の表情から見抜かれたのでは俺にはどうしようも無いだろう。


「えーっと、麻生君の遅刻理由は『女の子と綾取りしていたから』でいいかしら?」


 からかう様な表情で保健室のオバチャンはおっしゃった。綾取り……多分女の子とベタベタしていたという表現として使ったのだろうが、俺は伊織と違ってそんな事では動じない。それに、結構修羅場だったので、綾取りという穏やかな表現が正しいとは思えなかった。


「綾取りですか? 俺不器用なんで全然ダメなんですよ。東京タワーとかどうやって作るのか見当もつきませんね」

「……さすがに麻生君はなかなか手強いのね」

「はて、何の事やら」


 おもいっきりとぼけてやった。


「じゃあ、ゆっくり休めよ」

「うん、ありがとう」


 伊織とそんなやり取りをしてから、保健の先生から二人分の生徒手帳を受け取って、俺だけ教室に戻った。


 授業が始まって既に二〇分が経過しており、伊織が休める時間は微々たるものだ。ただ、寝ないよりはマシだろう。

 教室の引き戸をガラッと開けると、全員の視線がこちらに向けられた。どうやら修学旅行のグループ別に分かれているらしく、グループ毎に机をくっつけて何やら話し合っている様子だった。図書館で借りた本やプリントアウトした資料が机の上にあるから、多分京都で何処を回るかについて話し合っているのだろう。俺は周りの視線は気に止めず、担任に生徒手帳を渡した。


「これ遅刻届けと麻宮の休養届けです。麻宮は次の時間には多分戻ってくると思いますけど」

「はい、わかりました」


 担任は生徒手帳を受け取り、俺は自分のグループの座席に向かった。その最中、「麻生君戻ってくんの遅過ぎ!」「数学教えてくれるって言ったじゃない」「あたしの古文は⁉」等とバッシングされた。いつ約束したのか不明だし、そもそも俺には断った記憶があるのだけれども。

 ちなみに、「伊織ちゃんと何してたせいで遅れたのー?」「二人で仲良くおサボりかと思ってた」等の声も聞こえたが、このあたりは完全無視の対象である。というか、屋上でキスして抱き合っていたせいで遅れたとは言えない。言ったら大変な事になってしまう。

 自分たちのグループに行くと、信と眞下は何やら意味深な笑みをこちらに向けてきたが、何も言わなかった。


「伊織は大丈夫なんか?」


 彰吾だけがまともな事を訊いてくれたが、口調から察するに、機嫌はあまり良くないらしい。俺と伊織についての茶化しが教室で起こると大概彼はこんな顔をする。彼のそんな表情を見る度、俺はどこか申し訳ない気持ちになってしまうのだった。


「ああ、多分大丈夫。最近寝不足みたいだったから。ちょっと寝れば頭痛もなくなるだろうってさ」

「さよか」


 言うと彰吾は不機嫌そうに頷いた。溜め息を吐いてから信の隣の席に座ると、その時スマホが震えた。マナーモードにしているので、当然音は出ない。この震動パターンはLIMEだ。

 伊織かと思ってスマホを見てみると、送信者は、何と斜め前にいる中馬さんだった。


『麻宮さんと仲直りできた?』


 中馬さんを見てみると、少し微笑んでくれた。彼女は昨日と同様、前髪を降ろしていた。俺が言ったからそうしてくれたのかどうかは解らないが、何だかそれが妙に嬉しい。


『仲直りっていうかどうか知らないけど、とりあえず何とかなった』


 机の下でLIMEを返信すると、またすぐ返事がきた。


『よかった』


 その一言だけだったが、何だかそれを見てようやくほっとした。この長かった苦痛の期間が、ようやく終わったように思えたのだ。

 一件落着、と行きたいところだが、まだだ。まだ肝心な事が残っていた。

 ――三野。あのバカの処理だけが残っている。ただ、俺はあいつの事を全く知らない。あいつがどんな性格で、どんな武器を持っているのか。何かをやるにしても、まずは彼の情報を仕入れる事が先だ。普通科でカラオケに参加していた奴なら、おそらく神崎君が彼の情報を知っているだろう。

 そんな事を考えつつ、信のバカ話に耳を傾けていた。今は京都の寺に大きな落書きができないかを真剣に議論しているようだ。もちろん、誰もそんな事を真に受けていないので、信の作戦とやらを面白おかしく暇つぶし代わりに聞いているだけだ。信は、一人で放っておいても喋るので、良いラジオ代わりにもなる。そこに、更に一人で放っておけば喋る眞下詩乃も加わり、それが夫婦どつき漫才になっている。それが周囲に笑いを誘って、こちらも自然と笑みが零れる。

 そんなやり取りを見ていて、ふと思う。

 落ち着いた気持ちでこのグループの連中と接する事ができるのが、やっぱり何よりも楽しい、と。

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