7-14.真樹の怒り

 伊織の腕を掴んだまま、俺は屋上まで駆け上がった。少し強く掴み過ぎていたようで、彼女は途中で手が痛いと言っていたが、そんなのお構いなしだった。

 鉄の扉を開けると、寒い空気が校内に流れ込み、青い空が広がった。寒いけれど、気持ちいいくらいの快晴だった。俺は疲労感から、その場に座り込んだ。


「くはー! キツ過ぎだろ、これ。足に力入んねー……」


 最近運動不足の俺には、さすがに一階から階段ダッシュは辛かった。伊織も膝に手を当て屈んだまま、乱れた呼吸を整えようとしていた。


「野球部とかサッカー部って梅雨の時期はこれ毎日何往復もやってんだぜ。凄くね?」


 伊織は答えなかった。彼女の乱れた息が、白くなって、宙に消えた。


「……つか、アイドルはファンに怒ったらダメだろ?」


 軽い口調で言った。階段ダッシュで疲れているのが今回は幸を相した。疲れで緊張がふっ飛んでしまっている。


「私、アイドルじゃないし……ファンなんて、要らない」


 やっと言葉が返ってきた。伊織との会話が成立したのは約一週間ぶりだ。


「でも、俺が間に入ってなかったら、あいつをひっぱたいてただろ?」


 伊織は躊躇しながらも……頷いた。しかし、やはり俺と視線を交えようとはしなかった。痛々しいほど悲痛な視線が、地面に注がれていた。


「……どこから聞いてたの?」

「ん? 多分、最初から」

「そっか……」


 そう呟いて、伊織は黙り込んだ。


「言っとくけど、あそこに居合わせたのは偶然だからな。自販機でこの缶コーヒー買ってここに来ようと思ったら、二人がたまたまあそこに居ただけだから」


 俺は思い出したようにポケットから缶コーヒーを取りだし、伊織に見せた。

 少し嘘は吐いた。本当は伊織と出くわすのを避ける為にわざわざ自販機経由で屋上に行こうとしたのだが、これは無理して話す必要もない。


「全く、彰吾の時といい、あんな場面にばっか出くわす俺もつくづくツイてないよな。タイミングが悪いっつーか……」


 自嘲の笑みを浮かべたが、伊織は相変わらず悲痛な表情のまま地面に視線を突き刺していた。


「……私、もう嫌われちゃったよね?」


 俺は何も答えず立ち上がり、遠くを見つめながらぬるくなった缶コーヒーの蓋を開け、口に含んだ。ぬるいコーヒーをそのまま一気に飲みほして、空き缶を地面に置いた。

 一月の寒い空気が俺達を吹き抜け、伊織の長い髪が風に靡いた。


「さっき言ってた事、嘘じゃないんだよな?」


 言いながら、伊織の両肩を掴んで、彼女の瞳をしっかり見据えた。

 伊織はビクッと体を震わせ、怯えたように俺の目を見ていた。彼女の目は少し赤かった。久々に、近くで伊織の顔を見た気がする。


「さっきって……?」

「俺の事、嫌いだからシカトしてたんじゃないんだよな?」


 彼女と同じく、俺の心も怯えていた。相変わらず、臆病さだけは全く治っていない。さっきのやり取りを聞いても、本人から直接言われなければ確証が持てないほど、俺は怯えていたのだ。


「当たり前だよ……私が真樹君を嫌いになるなんて、絶対に無いから。でも私、最低な事しちゃったから会わせる顔なくて……」


 今までずっと泣くのを我慢していたのだろう。瞳から涙が溢れ出てきていた。彼女は必死にそれを抑えようとしたが、もう後の祭りだった。彼女の涙腺は完全に開かれてしまい、留まる事を知らなかった。


「私の事、嫌いになったでしょ? 信頼してくれてたのに……あんなことになって」


 それ以上、伊織は口にはしなかった。まだ、自分でも信じたくないのだろう。自分が口にしたら、真実と自覚してしまいそうで嫌なのだ。その気持ちもわからなくもない。だから彼女は、何も触れていなかったことにしたのだろう。


「だってあの人の言う事、正しい部分もあるもの! 帰れば良かったのに……嫌なら帰れば良かったのに、周りの事とか気にしてたら帰れなくて、結局そのまま流れで参加する事になっちゃってて……」


 伊織は言ってから気まずそうに目を逸らした。


「こんなのただの言い訳にしか聞こえないよね……ごめん」

「ンな事ねーよ。お前が言い訳のつもりで言ってない事くらいわかるし」

「うそ……! 真樹君もほんとは怒ってたでしょ? 何で付き合ってるのにそんな事するんだって思ったんじゃないの? 嫌いになっちゃって当たり前なんだから……変な気遣わないでよ!」


 伊織は俺をキツく睨むようにして言い放った。しかし、それは悲痛な叫びだった。悲しみに満ちた、怯えの叫び。怯えを隠す為に、虚勢を張っている……俺にはそんな風にしか見えなかった。

 そして、それを聞いているうちに、俺もどんどん腹が立ってきて、グツグツと腹の奥でドス黒いものが暴れ出した。何だってそんな事をこいつは言うんだ。嫌いになって当たり前だ? ふざけるなよ。


「それ、誰が言ってたんだよ」

「え……?」

「俺がお前の事嫌いになったなんて、いつ誰が言ってたんだって訊いてんだよ!」


 彼女をフェンスに押し付け、至近距離で怒鳴った。俺が彼女に怒鳴ったのは、これが初めてだった。

 きっと俺がそんな風に怒ることを想定していなかったのだろう。伊織は反射的に目をつぶって、体を震わせた。もう自分でも止められなくて、自分の感情の赴くまま、怒鳴り続けた。


「ああ、怒ったよ! 当たり前だろ? 自分が誰よりも惚れてる女がポッキーキスだかトッポキスだか無理矢理やらされて、例え触れてないって言われても冷静にいられるはずがねぇだろ? でもな、俺だって何に怒っていいかわかんなかったんだよ! あの三野って野郎なのか、命令出した奴なのか、止められなかった眞下や神崎達なのか、帰らなかったお前なのか、行かせてしまった俺なのか……何に怒ってたのか、全部に怒ってたのかはわかんねー。だけどな、お前の事嫌いになった事なんて一回もねーよ!」


 いい加減停まってくれと、自分に呼びかけたが焼石に水だった。腹が立って仕方がなかった。怒りで頭が弾けそうだ。どうしてこいつはわかってくれてないんだ。どうして俺は、こんなに怒っているんだ。そして、どうして俺たちは、こんな風にならないといけなかったんだ。色々な理不尽な思いが頭の中を行き交っていた。


「お前、俺の事何もわかってないんじゃねーか⁉ お前に無視されて、俺が毎日どんな気分だったと思ってんだよ! もう最近じゃそっちの事ばっか考えてたよ! どうやったら話してくれんのか、理由が何なのか、本気で嫌われたのか、それとももうこのまま自然消滅でもしちまうんじゃねーかって、どれだけ苦しんだと思ってんだよ!」


 止まらなかった。この数日間溜め込んだ気持ちが決壊したダムの水のように溢れていた。


「今朝だって昨日と同じようにお前に先に学校行かれてて、無理してテンション上げてでもしなきゃ身が保たなかったんだよ。お前の事嫌いになって他の女と楽しく過ごそうと考えてるとか思ったかもしれないけど……あんま俺の事ナメてんじゃねーよ!」


 伊織は何度も途中で「ごめん」と言おうとしていたが、全部遮って言わせなかった。今では諦めたのか、ぼろぼろと涙を流し、鳴咽を堪えて唇を噛んでいた。

 そんな彼女の姿を見て、ようやく怒りが静まってきた。怒った後には無性に寂しさと悲しみに襲われた。

 俺達当事者の間で何かあったわけではなく、意見や倫理感の相違でモメたのでもない。なのに、何故俺はこんなに怒り、伊織は泣かなくてはいけないのだろう?


「さっきあのバカから聞いてもう知ってると思うけど、今からじゃ想像もできないくらい一年の頃は嫌われててさ。だからこそなんだけど……人から嫌われんのが、いや、お前に嫌われんのが、怖いんだ。だから、もし本当に嫌いになったんじゃないなら、ちゃんと言ってくれよ。じゃないと俺、どうしたら良いのかわかんねーよ……」


 崩れるようにフェンスを背にもたれかかって、ずるずると座っていく。もう、なんだか疲れ切って、力が入らなかった。ここ数日のイライラや不安、そういったものを全部吐き出してしまって、急な脱力感に襲われていたのだ。

 伊織はそんな俺の前に座って、俺の頭を抱えるようにして、自分の方に抱き寄せた。とても遠慮がちに、そっと。 その時に、ふわりと伊織の暖かさに包まれた。それは大好きな匂いで、こんな時だと言うのに、安心感を与えてくれた。


「ごめん……」


 そして、俺の耳元で呟くように言う。


「辛い思いさせて、嫌な思いさせて、本当にごめんなさい……」


 彼女の胸にぎゅっと頭を抱え込まれる。彼女の柔らかな感触と優しい匂いに包まれて、もっとそれを感じたくて目をつぶった。

 彼女の髪が風に流されて、シャンプーの香りが鼻を擽った。伊織に触れるのは、本当に久しぶりだった。


「もういいよ。俺、謝られるの好きじゃないし」

「でも、何て言えばいいか……」

「じゃあ、ちゃんと教えて」

「教える……?」

「そう……俺のこと、どう思ってるのか、ちゃんと教えて」


 伊織は抱えていた俺の頭を解放した。それから俺を真っ直ぐ見据えて頷き、相変わらずたくさんの涙を浮かべながら、教えてくれた。


「……好き」

「うん」

「真樹君のことが、大好きです」

「わかった」

「それから、傷つけちゃって、ごめんなさい……」

「だから、もう謝るなって言っただろ」

「だって……だって」


 言いながら、彼女は嗚咽を押し殺すようにまた泣き始めた。両手で俺の左右の袖をぎゅっと掴んで、肩のあたりに顔を埋めてくる。無意識のうちに、彼女を引き寄せ、力強く抱き締めていた。彼女の体温が制服越しに伝わってくる。

 彼女が言った、この『好き』には沢山の気持ちが込められているように思えた。俺がその意味をどの程度理解できたかはわからない。でも、これは確かに彼女の本音で……俺が最も欲しい言葉だった。


「不思議だよな……ここ、昼でも凄い寒いのに、二人だと寒くない」


 春の訪れにはまだまだ程遠い気温だ。だけれど、俺の心は春よりも穏やかなであたたかかった。


「屋上に一人でいたの?」


 彼女は涙声で訊いてきた。


「まぁ、今週はな……一人になりたかったから」

「ごめん……」

「だから、もう良いって」


 空を見上げた。真冬の晴天はどこか人を心細くさせるけど、今日はそんな事無かった。


「そういやさ……あのバカとポッキーした時、どの程度触れた? ガッツリいっちゃった?」


 俺は怒りの感情は込めずに、ちょっと冗談っぽく訊いた。本当にもう怒っていない。ただ、事実の確認として知っておきたいだけだ。


「ううん、ホントに少しだけ。先の方に、薄皮一枚だけ何か触れた感じ……あの人、いきなり詰め寄って来たから避けられなくて」


 彼女は指で上唇の先を触った。俺は彼女の指を退けて、親指でその箇所を撫でるように触れた。


「ここ?」


 彼女は恥ずかしいのか気まずいのかわからないが、目を逸らして頷いた。


「ふぅん……じゃあ、洗浄しなきゃな」

「──⁉」


 俺は、伊織が指した上唇に喰いつく勢いでキスをした。油断していた伊織は、驚きと息苦しさで戸惑っていたが、途中から俺の荒々しいキスに応えてくれた。

 柔らかな上唇から邪気を吸い出し、荒々しく唇を噛むと彼女が震えて、歯がカチカチ鳴った。今度は、そのまま彼女の舌を吸いだした。彼女は驚いて呻いたが、必死にそんな陵辱的なキスを受け入れてくれた。吸い出された舌はそのうち舌と絡み合い、唾液を交換すると、彼女の体がびくんと痙攣したように震えた。

 真冬の屋上には、風の音と唾液が交わる音だけが残っていた。息が切れる程キスを繰り返していた時に、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。あと五分後に授業が始まる。

 荒々しいキスを終えると、伊織は腰が抜けたように、ペタンと座り込んでしまった。俺はしゃがみ込んで、おでこをこつっと合わせる。


「……忘れられたか?」


 もう一度キスをしたい欲求を必死で抑えながら、彼女に訊いた。


「あの糞野郎に触れられた事、忘れられたか?」


 キスされた、とは言はなかった。実際にほんの少し触れた程度(それでも伊織にとってみればショックなのだろうけど)ならキスとは言わない。

 偶発的な事故だ。そんな事故をいつまでも覚えられていて、俺とのキスを忘れられてちゃ困る。彼氏の面目が立たない。おそらく俺の意図を読み取ったのだろう。伊織は一筋の涙をはらりと流して、微笑んで頷いた。


「うん……」

「それなら良いよ」

「真樹君……ありがとう。大好き」


 言いながら、伊織が遠慮がちにまた抱き着いてきた。俺もだよ、と応えて、優しく彼女を抱き留める。

 あんなに荒々しいキスをしたのは初めてだった。そして、さっきのあれはただ愛情表現のためのものではない。俺とのキスこそが本来のそれであるという事をわからせる為であり、彼女の忌まわしい記憶を消し去るためでもあった。


「あっ……俺の息臭くなかった?」


 冷静に戻った俺は、慌てて顔を離した。伊織はそんな俺を可笑しそうに笑う。


「んーん……全然。コーヒーの匂いしかしなかったよ」

「そ、そっか」


 さっきコーヒーを一気飲みしたのがこんなところで役立つとは思わなかった。


「でも、あれだけしといて、今更それは無いんじゃないかなぁ」


 言われて思い返して見れば、自分の強引さと大胆さは相当なものだった。恥ずかしい。


「う、うるさい」


 照れを隠す為、俺は視線の先を伊織から外した。暫くそのまま黙って動かずにいると、本鈴のチャイムが鳴った。


「あーあ……遅刻になっちゃった。次って英会話だっけ?」

「いや、外人講師が風邪で休みだから、代わりにまた修学旅行の事するんじゃなかったか?」


 うちの学校には外人講師が二人いるが、どちらも風邪とはまた笑える話だ。二人いる意味が無い。


「保健室でお休みしてもいい……? なんだか、すごく疲れちゃった」

「大丈夫か?」

「うん……最近あんまり寝れてなかったから」


 あれだけ怒ったり悲しんだり泣いたりしたら、さぞ疲れただろう。伊織はここ数日ほとんど熟睡できてないのだと思う。彼女の性格からして、家でも悩んで眠れなかったに違いない。その疲れが、ようやく安心できた今、吹き出してきたのだろう。


「わかった。保健室まで連れてってやるよ。俺も遅刻の言い訳にさせてもらうけど」

「あ、ずるい」

「ずるくなんかねーよ。疲れてないにしろ、お前は次保健室で休むべき」

「どうして?」

「鏡見れば解るだろ。少し腫れぼったい目にぷっくり赤くなった唇。一体何してたのかと思われんぜ?」

「え、うそ⁉」


 慌てて小さな鏡をポケットから取り出して、俺に指摘された箇所を見る。


「やだ、ほんとに赤くなってる! 恥ずかしい……」

「似合ってる似合ってる。とりあえず行こうぜ」


 伊織は非難の目をこちらに向けてきたが、それが可愛かったので、俺はもう一度優しいキスをした。

 彼女は嬉しそうに、バカ、と呟いた。それでも、しっかりと彼女は俺の手を握っていて、俺の存在を確かめるように、何度もぎゅっと強く握ってくる。俺はそれに応えるように、握り返してやった。

 どうしようもなく嬉しい気持ちと、どうしようもなく優しい気持ちと、どうしようもなく愛しい気持ち……それらが混在していて、どう接すればいいのかわからない。

 ただ、これだけは言える。

 俺達は……きっと、試練を乗り越えたのだ。

 お互いの本音を話してみないとわからない事は、案外多い。今回の件にしても、結果だけ見ると、もしかすると、信や眞下達に協力してもらった方が、早く問題は解決したかもしれない。どこでどう悩んでいるのかを徹底的にしつこく聞いてもらって、間に誰か入ってもらって話し合えば、こんなに長引く事もなかっただろう。

 でも、今回はこれで良かったのだと、思えた。

 俺も伊織も、どちらかというとそんなに本音を出す方じゃない。そんな二人が、お互いの本音を初めてぶつける事ができた。

 彼女の本音を聞けたのだから、きっと俺はもう、うじうじしなくなるだろう。これからは、もっと彼女を信じて行動できる。あれだけ伊織は、三野に対して怒ってくれた。それが何よりも嬉しかった。そして、伊織もまた、俺を信じてくれるだろう。俺に嫌われたかもしれないなどと、考えなくなると思う。

 凄く大変で、凄く嫌な思いをした期間だった。伊織のことを信じられなくなりそうな時もあった。でも、これはこれで、よかったのだ。

 最後まで彼女を信じて、よかった。繋いだ彼女の手の感触を感じながら、俺はそう思っていた。

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