7-13.伊織の怒り
昼休みくらいは人気者を装うのではなく、地の暗い高校生に戻ろう。そう思って静かな三号館に入って階段に向かって歩き、曲がり角を曲がった。
曲がった瞬間、息が詰まった。そこには伊織と見覚えが無い、よく知らない男子生徒がいたのだ。慌てて少し戻って死角となる壁に隠れた。どうやら気付かれなかったようだ。
何でこんなとこにいるんだよ、と心の中で愚痴る。三号館の一階は、科学室や生物室といった実験室系しかなく、あまり昼休みに利用する人はいない。まして我々外国語科の人間は来る事すらあまりないのだ。
それにしてもまたこうして出くわすって、どれだけ運が悪いのだろうか。
まるで、去年のクリスマスイブ前日のようだ。あの日、俺は帰宅への近道として、普段使わない公園に入った事により、泉堂彰吾の告白を聞いてしまった。今回も同じような経験をするのではないか──何となくそんな予感がした。
引き返そうかとも思ったが、やはり気になる。道徳的にも盗み聞きは悪いと思うが、もしかしたら伊織の本音を聞けるかもしれない。彼女が今何を考えているのか、例え傷つく事があってもいいから知りたかった。盗み聞きする以上、覚悟もしている。
「あの……話って、何ですか?」
二人は暫く黙っていたが、伊織が口を開いた。
俺はこの時点で苦笑を漏らした。彰吾の告白時も『伊織が呼び出された』シチュエーションだった。だとすれば、また傷つくかもしれない。俺は頭痛を感じながらも、ここを離れられず耳を澄ました。
「ははっ、今更敬語なんてやめてよ。俺たちタメだし、初対面じゃないでしょ」
「それで何か? 私、まだお昼食べてないし……」
「あ、ごめん。放課後の方が良かったかな?」
「いえ、今でも大丈夫です」
だから用件は何なんだって訊いてるだろうが! と俺は苛立ちながら聞いていた。多分、伊織も同じなのだろうと思う。言葉尻から苛立ちを感じた。
どこの誰だか知らないが、告白するならしてさっさと振られてしまえばいいのだ。
「えーっと……最近聞いた話なんだけど、彼氏と上手く行ってないんだってね?」
「ッ……⁉」
伊織の体がピクッと動いた。
クラスの連中でさえ気付いてないのに、何でこいつがそれを知っているのだろうか。俺も驚きつつも、話の続きを待った。
「ビックリした? 俺、一応君のファンクラブ入ってるんだよね。だから伊織ちゃんの情報については詳しくてね」
その男の口から伊織の名前が出た時、イラッと来た。伊織ちゃんだ? 馴れ馴れしく呼びやがって……。
「それで……?」
伊織は否定も肯定もしなかった。
「何て言うか、単刀直入に言うと……もうあいつと別れちゃえば?」
いきなり出た言葉に、俺は怒りすら通り越して、呆れ返った。
何だ、こいつは。頭がおかしいんじゃないか?
大体、普通ファンクラブに入ったらそのアイドルに対して告白は御法度だろう。そもそも、別れる別れないは他者に関係が無く、俺達当事者の問題だ。伊織も呆れからか、固まっている。
「俺さ、伊織ちゃんの事が好きなんだ。あんな奴さっさと別れて、俺と付き合おうよ。その方が絶対良いから」
「ちょ、ちょっと三野君? 何言ってるの?」
どうやらこいつは三野というらしいが、初めて聞いた名前だった。おそらく普通科の生徒だろう。外国語科と普通科の接点はほぼなく、部活でもやってないと関わりを持てない。
「そんなのあなたには関係無いでしょ……?」
「あるよ。だってほら、俺達もうちょっとでキスできたじゃん。っていうか唇ちょっと触れたからキスしたのと同じ?」
その言葉を聞いた時、何だか金属バットで後頭部を殴られた気分だった。こいつが、あのポッキーキス事件の伊織の相手だったのか。しかも、伊織は神崎君や眞下達には鼻先しか触れていないと言っていた。多分、本人も認めたくなかったのだろうし、眞下達に余計な気を遣わせないためもあっただろう。
俺は今すぐ出て行って殴り飛ばしてやりたい衝動に襲われたが、必死で抑えた。今のまま出てしまうと、三野とかいう奴を殺してしまう気がした。それに、伊織の言い分も聞かなければならない。理性を必死で繋ぎ止めるが、両手が痙攣したように怒りでぶるぶる震えていた。
「俺さ、あの時本気になっちゃったんだよね。もっと君とキスしたいっていうか、付き合いたいっていうかさ」
耐えろ、耐えろ! 俺はそう自分に言い聞かせる。せめて伊織の言葉を聞くまで堪えてくれ、と必死に理性を繋ぎ止めた。
「どうせあれ切っ掛けで喧嘩してるんでしょ? 伊織ちゃんも今週はずっと辛そうだ。そんなに辛いんだったら別れちゃえばいいじゃん」
「それは、あなたのせいでしょ……⁉ 私が嫌だって言ってるのに、全然やめようとしてくれなくて、みんなと一緒になって早く早くって……!」
伊織は肩を震わせていた。怒っているのか、泣いているのか、ここからでは解らなかった。
「だって、仕方ないでしょ。王様ゲームってそんなもんだし。君もわかっててやったろ?」
「私、あんなのやりたくなかった……! そんなゲームするなんて聞いてなかったし、ただカラオケ来ないかって神崎君たちに誘われただけなのに」
「でも、伊織ちゃんも神崎も最終的に合意したじゃん」
「あなた達が言っても聞かなかったからじゃない……! 私に彼がいるってわかってるなら、やめてくれたっていいのに……私の事、好きって言うならどうしてやめてくれなかったの?」
「だって、命令したの俺じゃないから変えられないよ。それに、君がキスは嫌だっていうからポッキー使ったんだし……ちゃんとそっちの意見も聞き入れただろ?」
伊織は小刻みに体を震わせているが、どんな表情をしているのか、ここからでは見えなかった
この三野という奴が言ってる事が全ておかしいと思うのは俺だけか? 俺が怒りにうち震えているからそう思うのだろうか。自分の彼女が嫌がる事をされたからそう感じるのか……思考回路がおかしくなってしまいそうだった。
「ふざけないで……! あれから私がどんな気分だったと思ってるの? ずっと悔やんで、泣いて……鼻先だけ触れたって事にしとけばいいって自分に言い聞かせても、やっぱりそんなの無理で。何度も心の中で真樹君に謝って……」
伊織は声を押し殺していた。多分、本当は叫びたいくらいなんだろう。
「真樹君はきっと怒ってる、もしかしたら私の事嫌いになってるかもしれないって思ったら話すのも恐くて、無視しちゃって……最低だよ、私」
伊織の話を聞いているうちに、少しずつ落ち着いてきた。そんなに伊織が苦しんでいたなんて考えもしなかった。というより、それ以前に俺には理由が何なのかすらもわからなかったのだ。おそらく、彼女は一人で抱え込み、ずっと家で泣いていたのだろう。それを思うと、胸が痛くなった。
「でも、そんなに嫌なら帰れば良かったじゃないか。あの場に残るからそうなったわけで……ゲームに参加したっていう時点でほぼ何でもOKだと思うよ、こっちは」
「違うよ……! そんなの、嫌に決まってるでしょ? でも私、あの時どうすればいいか……」
伊織は途中で言葉を途切らせ、下を向いた。多分、彼女は嘘を言ってない。帰るとか残るとか……そこまで気が回らなかったのだ。動転して何がなんだかわからないうちに流されて参加させられた。彼女の性格からして、充分有り得る。
「それにね、彼は君の事そんなに好きじゃないんだと思うよ。だってそうなら同伴するでしょ」
「それは、バイトがあったから!」
「じゃあ行くなって言えば済むじゃないか」
呆れた、という口調で三野は続けた。
「ていうかさ、伊織ちゃんはあいつのことをわかってないよ」
「……どういう事?」
「まだ転校してきてそんなに間が無いから知らないかもしれないけど、あんな奴、伊織ちゃんに相応しくないよ。あいつ、つい最近まで凄く印象悪かったんだ」
「…………」
「入学してからもいきなり先輩殴ったりして、そのくせ何かイキっててみんなにウザがられてさ。一年の頃なんて陰口言われるのが当たり前で、みんな聞こえよがしに言いまくってたよ。俺は直接関係が無かったし、暴力振るわれるのが恐かったから何も言わなかったけど。ハハッ、そういえば体に青い血が流れてるんじゃないかとも言われてたな。それに──」
噂から事実まで、彼はどんどん俺の悪口らしきものを並べた。その中には、俺が初めて聞いたものもあった。本当だったらキレて殴りにいく場面なのに、不思議と怒りが沸いて来なかった。
俺は小さく溜め息を吐いて、以前の自分を思い出していた。
一年の頃、実はイジメみたいなものがあった。俺がイジメと感じていなかっただけで、周りから見ればイジメであり、大半が加害者だった。
それは、今仲良くしているクラスの連中も例外じゃない。ひそひそ話や陰口は当たり前で、上履きだってたまに無くなっていた。
喧嘩を売れば返り討ちにされるのがわかっているから、直接喧嘩を売ってくる奴はいなかった。だからみんな聞こえよがしに、でも俺だと特定しないような陰口をずっと言っていたのだ。その陰口は、ただの悪口から嘘の情報など、様々だった。嘘の方が多かったとは思う。誰も俺の事を知らないのだから、それも当然だ。知らない奴を悪く言うには、嘘を言うしかない。三野という奴の口から出てきた悪口は、そういった内容だった。
今では普通に話しかけてきている奴らの中にも、加害者はいる。そう言った意味で、俺は普段から仲良くしている、信や眞下、神崎君や中馬さん、彰吾以外は信用していない。
憎しみだけが募り、毎日毎日ただ我慢するだけの日々だった。二年になってからはマシになったが、一年の頃は、もう何度学校を辞めようかと思ったかわからない。レベルが下の高校にきたがために、こんな程度の低い連中と一緒になってしまったと、受験に失敗した自分をひどく憎んだ。
今では想像もつかないけれど、それだけ追い詰められた時期もあった。そんな中、両親や信、マスターがいてくれたから、俺は今こうして自分の人格を保てていたのだ。
また、今となっては勘違いだとわかってしまったが、白河莉緒もその当時の俺にとっては心の支えだった。みんなには嫌われているけど、もしかしたら白河莉緒は俺の事を好きだと思ってくれているのかもしれない……そう思うと、つらいことも我慢できた。結果的にそれは勘違いだとわかったが、それでも当時の俺にとっては、白河莉緒も支えだったのだ。
そうだった、と心の中が重く霞んでいく。そういえば、それが俺の高校生活だったのだ
何だか、怒りどころか泣きたくなってきた。傷が……頭の片隅に追いやったはずの傷が、露になっていく。
自分自身でさえ存在価値を見出だせなかったあの頃を。突然変異のでき損ないだと自覚せざるを得なかった日々を。それ等から考えると、去年の暮れに白河梨緒が『調子に乗るな』と言った理由もわかる気がした。
何が人気者を装う、だ。笑える。自分でも笑える。冗談ではなく、俺こそが一番の嫌われ者だったというのに。そう考えれば、この三野という奴の言う通り、俺が伊織に相応しい男なわけがないのだ。俺は何を勘違いしていたのだろう。
そして、そんな恥部を今、伊織に聞かれている。俺がいかに醜くて間抜けで蔑まれるべき人間だったかを、今最愛の人に聞かれているのだ。
「まぁ彼の悪い噂は絶えないんだけど、要するに君には全く不釣り合いも良いとこなんだよ。さっさと別れた方が──」
「──取り消して」
伊織が遮って言った。今まで聞いたこともないような、冷たい声だった。その声で、トラウマに飲み込まれかけていた俺も、正気に戻った。
「今言った事、早く取り消して謝って!」
それから、伊織の怒号が響いた。彼女は怒っていた。彼女の怒った声を聞いたのは初めてだった。心優しい故、どれだけ腹が立っても態度には出さなかったのに……伊織は、今怒っているのだ。
「三野君、あなたは私の何なの? 真樹君の何?」
「え……」
「私の何を知ってるの? 彼の何を知ってるって言うの?」
「い、いや……別にそういう意味じゃ……」
三野も伊織が怒るという事は想定していなかったのだろう。怒りと伊織、イメージが結びつかないので、それもわかる。伊織の明るいところしか見ていない彼らなら、なおさらそう思うだろう。というか、俺も初めて見たので、驚いている。三野は彼女の気迫に押され、たじろいでいた。
「私の事はどう言ってもいいよ。私が最低な事は変わらないし……だけど、真樹君の事を悪く言うのだけは絶対に許さない」
「い、伊織ちゃん、その……」
「早く謝って。ねえ、謝ってよ!」
伊織の手は強く握られ、怒りに打ち震えていた。これを見て、俺はとっさにヤバイと思った。多分、ひっぱたく気だ。そんな鬼気迫るものを感じさせた。
どうする?
三野とかいう奴に罰を与えるのは後回しだ。伊織の事だから、例え腹が立って嫌いな奴を撲ったとしても、その後罪悪感を抱き続けるだろう。そんな思いを伊織がする必要は無い。むしろ、してほしくない。
俺は心臓を二度程軽く叩き、深呼吸をした。
思い出せ。さっきの教室での俺を。おちゃらけの明るいノリ。あのノリで今出て行けば、きっと乗り切れる。いいか、俺。今から穂谷信になれ。信のノリになって、あいつの雰囲気を纏え。そう自分に言い聞かせる。
よし。いける。いくぞ。息を大きく吸って、吐いて、もう一度吸った。
「あー! 伊織、やっと見つけた!」
伊織と三野がハッとしてこちらを向いた。信じられない、という顔を二人共していた。
「何だこんなとこにいたのかよ。捜した捜した~……」
伊織は呆気に取られて固まっていた。我ながらわざとらしい演技だが、今朝からの人気者を演じてたのがここに来て役に立つとは思わなかった。俺はそのまま続けた。
「お話中悪いけどさ、伊織連れていくな! ちょっと月末のライブについて緊急ミーティングがあるんだよ。キューバ危機の時並に切羽詰まってて、マジで急ぎなんだ。ほんと、ゴメンな。つーかアレ! そう、イランがイラクの米軍基地攻撃しやがったせいで、第三次世界大戦起きそうなんだわ! 今から俺らそれの対策しなきゃいけなくてさ!」
とりあえず全く意味の通じない言葉を勢いで並べまくって、俺は三野に対してパチンと掌を合わせて申し訳無さそうに言った。言いながら、彼の顔をしっかりと確認する。三野とは、所謂陽キャっぽくて爽やかな顔をしていた。さぞ自分に自信があったのだろう。確かに、そんな顔をしているなら、自分の方が伊織と釣り合っていると考えてもおかしくない。
ただ、なかなか俺にもナメた事を言ってくれたので、しっかりとその顔を記憶に刻んでおく。本当は今すぐに血祭りに上げたい。ただ、それは後回しだ。
伊織を連れていく事に対して謝りつつも、その態度とは裏腹に、俺はおもいっきり威圧した視線を三野に送った。視線で充分脅した後、伊織の腕を掴んで駆け出した。
「え……え⁉」
「つか、とりあえず急げって! 急ぎの用って書いて急用って意味だ。知ってんだろ?」
「う、うん!」
事態が飲み込めてないのを良い事に、俺は適当に丸め込んで伊織を連れ掠った。こんな状況だっていうのに、彼女と話せた事が嬉しくて嬉しくて堪らない俺がいた。
俺はやっぱり、自分でもバカだと思うほど、伊織が好きだった。
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