7-8.付き合っているはずの彼女に避けられまくっている
朝、いつも通り伊織をY字路で待っていた。心境は最悪。怯えつつ怒っているという情けない状態だ。伊織がどんな表情で来るのか、想像もできなかった。何と声を掛ければいいのか、また土曜の事を言われた時は何と言えばいいのか……全く思いつかない。
そして八時十五分……いつも伊織が来る時間だが、伊織の代わりにLIMEが着た。LIMEが着た時点で内容は予測できた。
『ゴメン。今日は寝坊しちゃった』
本当に寝坊したのか、俺と一緒に居たくないのか真意はわからない。ただ、いつもなら送付されているクマプーのスタンプが、今日は無かった。
教室に入ると、眞下詩乃がやや遠慮がちに声をかけてきた。俺が一人で教室に入ってきたのに少し驚いている様子だった。
「お、おはよう。あの……」
「謝るなよ」
俺は先手を打って言ってやった。今更どうしようもない事を謝れるのは嫌いなのだ。まるで謝る事でチャラにしようとしてるような……そんな狡い精神を感じてしまう。たとえ彼女がそう思っていなくても、俺はそう感じてしまうのだ。
「うん……あの、今日は伊織と一緒じゃないの?」
「寝坊だってさ。嘘かほんとか知らねーけど」
憮然として答えた。学校までの道のりが、どれほど苦痛だった事か。
何度も後を振り返り、『真樹君、待って!』という声が掛からないかバカみたいに期待して何度も後ろを振り返った。凄く自分が惨めに思えた。
「そ、そう……土日に連絡取った?」
「いや、今朝の寝坊連絡だけ。お前は?」
「あたしも、土曜のLIME一通だけ。『先に帰っちゃってごめんなさい。ちょっと用事を思い出したから』って。返事送ったけど、何も返って来なくて……」
ハァ、と眞下は溜息を吐いて肩を落とした。
「幸子達も、あの時は悪ノリしちゃってたって反省してる。一応みんなも伊織に謝ったみたいだけど、『気にしてないよ』の一言しか返って来なかったらしくて……ほんと、あたしバカだよ。どうしよう」
幸子とは、一昨日伊織や眞下と一緒にカラオケに行った外国語科のメンバーだ。俺とはそれほど親しくないから、伊織や眞下達とどういう間柄なのかはわからない。
反省なんて、所詮自己弁護の一つだ。反省したからと言って過去がなくなるわけではない。もちろん、傷ついた心も戻らない。そして……反省した心を常に保てる保証も無い。反省した態度を示せるのは最初の間だけで、一ヵ月もしたら大体以前のスタイルに戻っている場合が大半だ。
「俺の事、言った?」
「うん……ごめん、やっぱまずかったな……。麻生君も怒ってないからって、送ったんだけど、返事なくて」
俺は眉間の奥の方が痛くなるのを感じた。今朝、伊織が俺を避けたのはそれだ。怒ってないと俺が言ったところで、彼女は自分に気遣ってそう言ったのだと思うだろう。しかも今回はそれが事実だし、彼女自身が自分に負い目を感じているに違いない。俺もいつまでも怒ってないで、ちゃんと誤解を解かねばならない。眞下にも「そんなに落ち込むな」と元気づけて、前から四列目の窓際の席について伊織が来るのを待った。新学期ではここが俺の座席だ。伊織とは結構離れてしまっている。
教室の中では大半の女子が安物ブランドの香水をつけており、それ等が入り交じって混沌とした香りを創り出していた。
伊織はあんなにいい匂いなのにな、と彼女の香りを想い出しながら、寒そうに聳え立つ桜の木を眺めた。しかし、彼女は一限目が始まる五分前になってもまだ姿を現さなかった。
まさか、今日は休むつもりなのだろうか。
俺はトイレに行くついでに生徒玄関まで見に行ってみようと思い、席を立って教室の出入口へと向かった。溜息を吐きながら教室の引き戸を開けると、何と伊織が目の前に立っていた。
心の準備ができていないので、一気に心臓が高鳴る。
伊織もまさか俺がこのタイミングで現れるとは思っていなかったらしく、一瞬固まっていた。
「えっと、おは──」
よう、と俺が挨拶の言葉を繋げる前に、伊織は顔を伏せて横を通り抜けてしまった。
「……え?」
現実を飲み込めなかった。どうしてこんな風になるのか、全く想像も予想もできなかった。横を通り抜けた伊織は、クラスの連中に普段通り「おはよー!」と挨拶して、土曜にカラオケに行った子達から「この前はほんとごめん、調子に乗り過ぎた」とか何とか似たような謝り文句に受け答えしていた。
ちょっと待ってくれ。何でこうなるんだ? 可笑しくないか。普通逆だろ。
俺の中で意味の無い自問自答が繰り広げられる。ポッキーキスが許せなくて、俺が伊織を避けるというシチュエーションなら有り得るだろう。
しかし、何故俺が避けられるのだ?
どこに避けられる理由がある?
全く理解できなかった。現実全てを否定したくなった。
有り得ない。フツーに有り得ない。マジで有り得ない……午前の授業中、何度そう自分の頭の中で繰り返しただろう? もちろん、休み時間も話していない。伊織は俺の方を見ようともしなかったのだ。
彼女は前の方の席なので、授業中も表情は伺う事はできない。彼女の顔をちゃんと見たのは朝の無視された時だけ。正直……俺は本当に、冗談なんて全く言う余裕が無いほど、凹んでいた。
無視されたという事実だけが残り、これからどうすべきなのか、原因は何なのかといった思考が全く働かない。伊織と俺は教室内ではあまり話さない。からかわれるのが嫌だし、わざわざ見せ付ける必要もなかったからだ。少なくとも、俺達がこんな状態だと周りに知られるまで、もうちょっとかかるだろう。しかし、それも時間の問題だ。勘の良い奴ならもう気付いてるかもしれない。
一月半ばの屋上は格別に寒い。そして俺の現況も、ヤバイくらい寒い。俺は一脚のベンチに寝転んで、寒い空を見上げていた。確か、伊織が初めて作ってくれた弁当を食べた時に、座っていたベンチ。そんな昔の思い出に縋っている時点で、今の俺がどれだけ弱っているのか自分でも見て取れた。
──このまま凍死してしまえれば楽なのに。
そんなバカな事を考えていると、屋上の扉から穂谷信が現れた。俺は気付いてないふりをして、目をつぶっていた。まだ昼休みが始まって十分も経ってないのに、もう少しゆっくりさせてほしかった。
「おい、凍死中か?」
「………………」
「もしそうならズボン脱がして下に捨てるぞ」
その言葉に、俺は溜息を吐いて身を起こした。信なら本気でやりかねないのだ。
「何だよ」
「もう飯食ったの?」
枕代わりにしてた弁当箱を見て、信が訊いてきた。
「いや……食欲無い。食う?」
「おっ、マジ? 麻生の母さんの料理は旨いからな。遠慮なく頂くぜ?」
俺は頷いて弁当箱を差し出した。信は早速蓋を開けると、「おかずが一杯ある!」と喜びながらガツガツ食べていた。
とてもではないが、何かを食べられる胃ではなかったので、食べてくれるのは助かる。母さんは弁当を残すと怒るのだ。朝早くから起きて作ってものを残されたら怒るのも当然だけども。
「はいごちそーさん。いやぁ、実は今日弁当を玄関に置き忘れちゃってさ。助かったぜ」
「どういたしまして」
俺は無理矢理笑みを作って答えた。空を見上げてみれば、雲は寒い風に押されて西から東へとかなりのスピードで翔け抜けていた。雲は形を変え、或はちぎれ、風のままに空を流れていた。
「一人でこんな糞寒いとこにいるっつー事は、まさかあの事で麻宮と喧嘩したのか?」
あの事とは、もちろんポッキーキス事件の事だろう。無視されたのがあまりにショックだったので、そんな事件があった事すら忘れていた。
「……喧嘩どころか、土曜から連絡だって一回しかしてないな。もう、わけわからねぇや。何で伊織にまで白河梨緒みたいに避けられなきゃいけねぇんだよ」
「は? 避けられてるって、何でだよ?」
「だから、わからないって言ってんだろ。朝なんて目の前にいたのに普通にシカトぶっこかれたし、一回も俺の方を見なかった。凹むなって方が無理だろ」
「恥ずかしいとか、そんな感じとは……」
「違う。それだったらわかるだろ」
「……だよな」
信は溜息を吐いて、俺と同じ様に空を見上げた。
「実はさ、彰吾が言ってたんだよ。『今日の伊織はおかしいで。麻生と喧嘩でもしたんちゃうか』ってな」
「今の関西弁ナイス」
少し彰吾に似てたので、ささやかな拍手を送った。
「真面目に聞けって」
「……悪い」
信は呆れた表情を見せて、続けた。
「俺から見たら麻宮はいつも通りだったから解らなかったんだが、一方暗いオーラを放ってたのがお前。こりゃ何かあるなと思ってみたら、案の定ってとこだな」
そうなのだ。伊織は俺にはシカトしまくりなのに対して、クラスの子達とは普通に話しているのだ。彼女も俺みたいな態度だったなら、幾分救われていたはずだ。
「ポッキーキス事件について触れたのか?」
「だから、全く会話すらしてないって」
「あっ、そうか……すまん」
俺が見当すらつかないのだから、やはり信にもわからないのは当然だ。
「眞下に訊いてみっか?」
「いや、それはやめとく。あいつ責任感じてっから、直接本人に訊きかねないだろ」
そんな事をされては更に悪化しそうだ。信もそれには納得で、確かに、と苦笑していた。しかし、現状の打開策が無いのも事実だった。
「あと、彰吾にはポッキーの事言うなよ。相手の男を殴りに行くかもしれねーから」
「わかってる。それは眞下や神崎にも釘刺しといたよ」
効果あるかわかんねーけど、と信は付け足した。
彼は寒いからと言って、そのまま中へと入って行ったが、俺はもう少し寒さに身を任せる事にした。まだ教室に戻るには早い。伊織と会うのは極力避けたかった。今日は月曜だから七限授業だ。この状況であと三限は正直つらい。
どれだけ考えても何の案も出ない俺の頭は、寒さも相まって、機能停止状態に陥りそうだった。いっその事、停止してくれた方が楽かもしれない。
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