6-17.この手だけは離さない

 逃げ出した後に思ったが、よくよく考えればこれは信の謀略だ。ほんのついさっき、打ち上げ兼忘年会でカフェを貸す条件として、飲み食いするものは自分達で買う、とマスターから言われていた。そんな数分前に出された条件を信が忘れるはずがない。そういえば、ライブ前に神崎君も「二人で過ごす時間を作ってあげるから」と言っていたところを見ると、あの二人は結託していたのかもしれない。しかし、合法的に二人っきりになれたのだから、これは俺にとって好都合だった。


「も~! 恥ずかし過ぎだよ。どうして信君はあんな事言うかなぁ」


 伊織は赤くなった頬を冷やすように、手のひらを当てて言った。


「あいつはそれで楽しんでんだよ。自分がモテないから」

「はぁ……真樹君がそういう事言うからこうやって仕返しされるんだよ?」

「本人の前では言ってねーよ。要するにヒガミだ、ヒガミ」


 伊織と胸を張って付き合っていると公言できたからか、俺は不思議とご機嫌だった。確かに恥ずかしかったけれど、それ以上に嬉しかった。どこかこそこそと付き合っていた感覚から解放されたからかもしれない。

 この辺りでは安売りで有名な二十四時間営業のスーパーが見えてきたが、今はスーパーに行く気は無かった。横断歩道の信号が赤なのを良い事に、伊織の手を引いて繁華街から一本内側の道路に入った。


「どうしたの? スーパーは?」

「行く。行くけど先に行きたいとこがあるから」

「……?」


 俺達は静かな住宅街を歩いた。とにかく二人っきりになれる場所に行きたかったのだ。

 彼女からもらったマフラーを解き、イブのときのように伊織の首にもかけてやった。この長いマフラーの一番の利点は、二人で使えるところだ。俺達をひとつに結びつけてくれて、それに寒い日も悪くないと思わせてくれる。利点だらけだった。

 住宅街に入ってから少し歩くと、公園が見えてきた。彰吾と伊織の時間に嫉妬して一人で勝手に落ち込んでいた時、信が叱ってくれた、あの公園だ。この公園で俺は決心した。あの時ここに来ていなかったら、今の俺達は無かったかもしれない。互いに言葉を発さないまま公園の中に入り、中央まで歩んだ。そして、何も言わずにそっと彼女を抱き締めた。


「真樹君? どうしたの?」

「あれは許さない」

「あれって……?」

「俺の為なら死ぬとか、そんなの許さないから」


 そこまで言うと、伊織は「あっ」と声を漏らした。


『Can die for you,This is my answer』


 彼女の言葉と同時に、これを言っていた時の満足げで輝かしい笑顔まで脳裏に蘇ってくる。スポットライトに照らされて、本当に天使かと思えるような、そんな笑顔だった。その時の感動が蘇ってきて、また涙腺が緩んでくる。


「聞こえちゃってた? 小さい声で言ったのに」


 伊織がくすっと笑って俺に身を預けてきた。そんな彼女の頭を抱え込むと、伊織の良い香りにふわっと包まれる。

 夜の公園は年末の喧さとは無縁なように静まり返っていて、繁華街の喧噪や車が走る音が遠くから聞こえてきた。まるで世界に俺達だけ取り残されているのではないかと思えるような中、ただ彼女の存在だけを感じていた。


「俺のリスニング能力を舐めるなよ」


 仮にも外国語科だぞ、と言ってやる。


「地獄耳だなぁ……でも、私の本音だよ?」


 言いながら、彼女も俺の背中に腕を回してきた。彼女にこうして抱き締められると、とても安心する。


「そうだとしても、俺の為に死ぬとか、そんな事言うのはやめろ。いくらそれでお前の辛さがわかるって言っても、お前がいない世界なんて想像したくないんだよ」

「うん。そうだね……」


 ごめんね、と伊織は優しく囁くようにして、そう呟いた。


「自分がそんな経験してつらいってわかってるのにね。でも、あれが私の気持ちだから。もし私が死ぬ事で真樹君を救える事があるなら──」

「バカ。ふざけんなよ!」


 伊織の言葉を遮って怒鳴った。例え、それが彼女の本音だったとしても、その覚悟を持っていたとしても、許すわけにはいかなかった。


「どっちかがいなくなったら意味無いだろ」


 そう。片方では意味がない。例え、俺が生きていても伊織がいなかったら意味がないし、伊織が生きていても俺がいなかったら意味がない。二人一緒でなければ、意味がないのだ。


「俺達はこのままずっと一緒にいて、一緒に年食って、じいさんばあさんになってくんだからよ」


 洋画か何かのセリフだったかもしれない。でも、今の俺達にはこの言葉がぴったりだった。俺の為なら死ねると言っているような奴には、ちゃんと教えてやらなくてはいけない。自分が一人になってあれだけ慟哭したというのに、同じ悲しみを俺にも与えようというのだ。そんなの許せるわけがなかった。

 ただ、きっと彼女のこの発想も、孤独への恐怖心から来ていると思うのだ。もうあんな寂しいのも悲しいのもごめんだ、それなら先に自分の方からいなくなる、という本音が混じっているようにも思えた。だからこそ、俺は許してやるわけにはいかないのだ。


「一人にしないから」


 そう耳元で諭すように言うと、伊織は涙声で「ごめん……」と言いながら、俺の胸に顔を押し付けていた。


「お前……ほんと泣き虫だな」

「だって、嬉しいんだもん。そんな風に言ってくれるの……本当に」


 鳴咽を堪えながら言う彼女を、更に強く抱き締めた。それほどまでに、未だに彼女の中では孤独感が深く根付いているのだ。俺がいると頭でわかっていても、孤独に怯えてしまう。この世界が無常であるように、愛も無常だからかもしれない。しかし、きっと変わらない愛もある。俺がそれを証明してみせる。


「『ライラック』の歌詞、最高だったよ。俺にとっては最高の歌詞、最高の唄……それに、最高の返歌だった」


 彼女の震える肩を抱いて、何度も何度も髪を撫でてやる。


「実はさ……泣きそうになったんだよ、俺。お前の唄に感動してさ……でも、ステージの上で泣くわけにもいかないだろ? だから、さっさと降りたんだ」

「じゃ、あ……そう、言ってよ……あんな歌詞、書いたから、重いとか、嫌われたんじゃないかって……不安だったんだから」


 嗚咽を堪えながら、言葉を紡いでいく伊織。なるほど、伊織は俺の態度をそう解釈していたのか。伊織はそこまで、俺に嫌われる事を恐怖しているのだ。


「何で嫌いにならなくちゃいけないんだよ。俺、唄で泣いたとかって初めてだからな? その……良かったらさ、ずっと『ライラック』はあの歌詞で唄ってくれよ。毎回感動したいんだ」


 ぐすっと鼻を鳴らしながら、彼女は頷いた。


「ライラックの、花言葉……知ってる?」

「いや、花はわからないな」

「紫は初恋、白なら青春の天真爛漫さ、だよ」

「初恋と天真爛漫さ……」


 俺は伊織の言葉を繰り返した。


「さて、ここで真樹君に問題です」


 イブの帰り道の時のように、伊織が唐突に言った。今度は何を答えさせられるのやら、と苦笑しながら、俺は伊織の言葉を待った。


「この曲のライラックは紫色です。どうしてでしょうか?」

「え、割とガチな感じかよ」


 もうちょっとわかりやすいやつかと思っていたので、ちょっと焦ってしまう。


「うん。意味さえ知ってれば簡単かな」


 俺は彼女を抱き締めたまま、ここ暫くまともに使っていなかった思考を回転させた。意味というキーワードに着目して暫く考えてみると、閃いた。


「なるほど、意味の掛け言葉か。確かライラックそのものにも紫色や藤色を示す意味もあったからな」

「正解。さすが真樹君だね」

「当たり前だろ。仮にも天才を目指してるから」


 そう言ってやると、彼女は「なにそれ」と可笑しそうに笑った。

 ライラックそのものに紫の意味があって、伊織が込めた想いも初恋、だからこのライラックは紫色なのだ。


「真樹君は、私の初恋だから。初恋は苦いって言うけど、こんなに幸せでいいのかな……?」

「良いも悪いも無いだろ。今まで辛い思いばっかしてきたんだからさ……逆にこれからは楽しくて、幸せにならなきゃいけないんだよ」


 在り来たりな言葉しか浮かばない自分自身が情けないが、在り来たりではない幸せを彼女に届けたい。

 幸も不幸も人生には半々あると言う。しかし、あれはきっと嘘で、不幸な人を慰める言葉でしかない。人間は不幸の事は骨の髄まで覚えているが、何気ない幸せを幸せだと感じる事ができなくなってしまうのだ。例えば、俺は今幸せの絶頂だ。伊織と話すだけで幸せで、こうやって抱擁できるのも夢のようだ。

 だが、長い間付き合うと、初心を忘れて何でも当たり前だと思ってしまう。話したり、抱擁したり、キスしたり……当初は奇跡だと感じた幸せですら、人間は当然だと思ってしまう。そして更には、何か不満を持って自分は不幸だと思ってしまう生き物なのだ。

 幸せな人間ですら贅沢な不幸を感じるのだから、真の不幸を帳消しできる幸福など存在しないのではないか。

 いや、仮にその不幸と同等の幸せを手に入れたとしても、その不幸を帳消しにはできないのだ。不幸は幸せを帳消しにできるが、幸せは不幸を帳消しにはできない。しかし、その代わり薄める事はできる。この不幸があったから今の幸せがあると不幸に意味を与える事はできるのだ。

 だから、俺は悪あがきしてみようと思う。一度の幸せでは無理でも、ずっと幸せを積み重ねて行こう。日々、少しずつ彼女の幸と不幸の差を埋めてやればいい。そしていつか、不幸という谷があった事なんて忘れてしまうくらいに、幸せの山を作ってしまおう。

 そのためには注意しなければならない事も多い。伊織との日々の幸せを当たり前と思わず、その幸福に感謝して互いの事を想い合って生きていかねばならないのだ。

 幸せは空から降ってくるものではなく、自分で目指さねばならないものだ。『満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い』と言うのであれば、不満足なまま、満足できる場所をずっと目指し続けてやろう。俺達にはそれを実現できる思考と意思があるのだから。

 そう……自分から求めなければ変わらない。今俺達の頭上を舞うぼたん雪のように、ただ落ちるのを待てばいいわけではないのだ。


「私、思うんだ……これはきっと最初で最後の恋だって。理由はわからないけど、そう確信してる」


 あの聖夜のように深々と雪は降り始めていた。伊織の髪にぼたん雪が落ちてきて、雫となって彼女の髪を濡らした。


「俺もそう思ってるよ」


 彼女の髪にかかった雪を指で拭ってやり、そう答えた。

 人を好きになった事ならある。白河梨緒にしても、好きと言えば好きだった。しかし、あれは果たして恋だったのだろうかと、今振り返れば甚だ疑問であった。もし白河莉緒とあのまま付き合っていたとしても、ここまで彼女を好きにならなかったはずである。そして、これから先にこれほどまで人を愛する事も無いように思う。この麻宮伊織ほど、俺と全てが合う女の子はいないと確信が持てるからだ。

 ここまで想うのが恋というならば、それは過去に無かったので初恋だ。そして、最後の恋だろうとも思う。もしこれから先、万が一この恋が終わる事があるなら……俺はもう人を愛せないように思うのだ。もしも、伊織の言うように、俺たちに魂の絆があるのなら、来世でまた会うまで待たねばならない。

 それは嫌だった。そんなあてのないものに賭けたくなかった。前世だとか来世だとか……そんな事はどうでもいい。俺は今の彼女が好きだから、今の彼女を幸せにしたい。それだけだ。

 伊織の顔を見る為、肩をそっと掴んで密着していた体を少し離した。膜が張られてとろんとした瞳が、俺を映している。そして、その瞳はゆっくり瞼に覆われた時、俺と彼女の唇が合わさった。

 ここ数日のような軽いキスではなかった。もちろん、信の言うような所謂大人のキスでもないのだけれど……ただ長くお互いの唇が合わさっているだけの普通のキス。それだけなのに、このまま二人で天国まで羽ばたけてしまうような幸福感を与えてくれる。

 伊織と付き合えたからと言って、全ての問題が解決したわけではない。白河莉緒との問題は文化祭のあれ以降何も進展していないし、進路の事や彰吾との事、バンドの事……そして、俺が伊織に相応しい男になれるかどうかなど、問題は山積みだ。それでも、今だけは……せめて今だけは、その全てから解放されたい。二人で一つの幸せを味わいたかった。

 ──時よ、どうかこのまま停まってくれ。

 そう願った時だった。

 ドテッという何かが転がり込んでくる効果音と共に、「あ、やば!」「バ、バカ垂れ!」とそれを咎める小声が聞こえた。

 二人だけの世界に入っていた俺と伊織は瞬く間にして現実に引き戻された。そして、目に入ってきた光景は、これまた怒りを通り越して呆れるようなものだった。そこには先ほど俺たち二人にちゃっかり買物を頼んできた奴等がいて、俺達の様子を見学していたのだ。さすがにマスターや彰吾はいなかったが、それ以外は全員いやがる。

 体勢を崩して転んだのは、眞下詩乃だった。


「……て、テメー等な! 何ノゾキぶちかましてやがんだコラァ!」


 俺がキレるや否や、真っ先に逃げ出したのは、おそらくこのノゾキ首謀者であろう穂谷信だった。

「ぎゃっはっはっ! なかなかお熱い感じなチューを見せてもらったぜ! 次は舌も絡ませろよぉ~!」


 ゲラゲラ笑いながら逃げる信の言葉に顔がボッと燃え上がった。


「ぜ、ゼッテー殺す! つか神崎、一番まともでバカ共を制御しなきゃいけないお前までここにいるってのはどういう事だ⁉ しかもカノジョまで一緒になって見てんじゃねぇよ!」


 いちいち君付けをしている余裕なんてなかった。こんな奴、呼び捨てで十分だ。


「ご、ごめん、流れで仕方なく……ほら明日香、逃げるよ!」

「ご、ごめんなさ~い!」


 謝りながらも逃げる神崎君と双葉さん、それにクラスメイト達がきゃあきゃあ言いながら続いた。


「ちゃんとお菓子と飲物買ってきなさいよー!」


 そう言い残して逃げる眞下はなかなか大した度胸を持っている。一度あのバカだけはシメてやらなければならない。

 俺は怒りが呆れに変わっていくのを感じながら、溜息を吐いて伊織の方を向いた。彼女は茹で蛸みたいにまっかっかになったまま、固まってしまっていた。

 俺達を結んでいたマフラーが解けて地面に落ちてしまっていたので、それを拾い上げて砂埃を払う。そして、固まっている伊織の首に掛けてやってから、軽くおでこにキスをした。


「え⁉ あっ……やだ!」

「安心しな。全員逃げて誰もいねーから」

「そ、そっか……」


 彼女も「はぁぁ」と大きな溜息を吐いてから、マフラーを俺の首に掛けて、二人の間で優しく結んだ。


「買い出し、行こっか。また何て言われるかわからないし」


 眉根を寄せて困ったように伊織は言い、手を差し出した。その華奢な手を取って、一緒に歩き出す。

 雪の華が降りそそぐ中、俺達は一つのマフラーの中で寄り添いながら、見つめ合って──もう一度だけ、唇を重ねた。


 気がつけば、日常が変わっていた。

 たった一人の女の子が現れただけで、全てが変わった。未だに自分自身ですら、この現実を信じられない。夢の中ではないのか、何かの間違いではないのか、と今を疑ってしまう。

 流れるように時が過ぎ、その時に流されてきた。半年前の俺は、半年後のこんな俺を予見できただろうか。

 これが奇跡と言うのだろうか?

 いや……奇跡なんてものは存在しない。求めなければ何も変わらないのと同じように、動かなければ何も変わらないのだ。

 必然と偶然、そして誰が何をしたか……その三つの軌跡が全て重なった結果なのだ。

 俺達が結ばれたのは、きっと俺達が互いに惹かれ合って、互いを求め合い、そしてそのために互いに動いた。その結果に過ぎないのだ。

 しかし、ここはゴールではない。まだ俺達は、三つの軌跡が重なり合ったスタートラインに立ったに過ぎないのだ。

 きっと俺と伊織の軌跡は、まだまだこれからも続いていくだろう。今ある問題から起因して、色んな困難が待ち受けているかもしれない。

 でも、何があってもこの手だけは離さない。

 彼女の笑顔を、ずっと隣で見ているためにも。


(前編・完)

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