6-8.中馬さんの失恋
「なぁ……さっきの話の続きだけどさ」
「ん?」
伊織は手を繋いだままこちらを見上げた。さきほど彼女はぷりぷり怒っていたが、本音はただ恥ずかしかっただけのようで、謝れば許してくれた。ただし、『真樹君も好きって言ってくれたら許してあげる』という条件付きだったが。
今はまた手を繋いで、家路を歩いている。もうすぐいつもの待ち合わせ場所で、別れる場所でもあるY字路に着いてしまう。
「俺も伊織と同じだから」
「同じって?」
「お前が誰かに告られてるとやっぱり不安になるし、俺が例え誰かに告白されたとしても俺の気持ちは変わらない。伊織と一緒なんだよ」
俺の場合誰にも告白されないと思うけど、と一応付け足しておく。
「それに……もう誰にでもいい顔なんてしないようにするからさ。誰も傷つけないようにしてるつもりが、伊織を傷つけてたらそれこそ本末転倒だし」
「え……どうしてそんな事いうの?」
「彰吾も言ってたろ? 麻生は誰にでもイイ顔してるって。俺のそんな態度が伊織を傷つけてたって全然気付いてなくてさ。ほんと、悪かったと思ってる」
伊織はY字路の少し手前で立ち止まり、かぶりを振った。
「そんな、こっちこそ何だか束縛してる感じになっちゃっててごめんなさい。私、独占欲とかそんなに強くないと思ってたんだけど……真樹君の事になると凄くヤキモチ妬いちゃうから」
それは俺も同じだった。束縛したりされたりするのは好きじゃない。だけど、伊織に対しては異常な程独占欲が湧いてしまう。伊織を自慢したいという気持ちと、伊織を見る野郎共全員の目を潰したくなる気持ちが同居しているのだ。多分、これは自分に対して自信が無いからだ。
同時に、伊織になら束縛されてもいいかな、とも思ってしまう自分がいた。だからと言って、私以外の女の人と話さないで、とか言われると困るのだけども。彼女がそれを願うなら、なるべく努力したいとは思っている。
「いや、ちょっと前マスターに言われた事を全然守れてなかった俺が悪いんだ」
「何て言われたの?」
「『できるだけ人を傷つけない様にしろ』ってのと『誰かを傷つけざるを得ない時は躊躇わずに傷つけて、自分の一番大切な人は傷つけるな』って感じだったかな。頭ではわかってたんだけど、全然実行できてなかったからさ」
「ううん……そう思ってくれるだけで凄く嬉しいよ。でも、なるべくみんなにも優しくしてあげて欲しいな」
難しい注文だった。みんなに優しくしたら、お前が傷つくんだろうが。
結局のところ、『誰かの願いが叶う頃、誰かが泣いてしまう』のである。人間の社会とは、結局は個人が集まったものだ。その個人の段階でもこうして誰かを傷つけなくてはならないのだから、それが社会・国と発展したら、やはり誰かを傷つけて守らなければならないのだろう。世界平和を望みつつ、世界平和は絶対に叶わない──人間と言うのは矛盾の塊なのかもしれない。
「……どうしたの?」
「ん? いや、何でもない」
黙り込んでいたのを心配してか、伊織が俺の顔を覗き込んでいた。
上目を遣ったその表情があまりにも愛しくて──隙有りとばかりに軽くキスをした。どうしても我慢できなかったのだ。仕方がない。
「──⁉」
いきなりの不意打ちに、伊織は目を白黒させて、言葉も発せない程驚いていた。
「びっくりした?」
事態が飲み込めた彼女は、じぃっと非難の視線をこちらに向けてきたが、やはり上目遣いが可愛いので非難の効果は無いに等しかった。
「もう……するならするって言ってよ。心臓止まりそうになったんだから」
「ごめん。じゃあ、もう一回する?」
彼女の本音が聞きたくて、つい意地悪な質問をしてしまう。ただ彼女の照れる仕草を見たいだけなのに、こうして虐めてしまう俺はサドっけでもあるのだろうか。そしてまた彼女も、頬を赤く染めて恥ずかしそうに頷き、期待に答えてくれるのだった。
さっき抑え込んだはずの激情が、再び暴走しそうになる。それを必死に抑え込みながら、俺は伊織ともう一度だけ、短い口付けをした。本当は抱き締めて何度もしたかったのだけれど、もう年末ライブも近い事だし、明日は彰吾とも対面する。ずっと恋愛モードでいるわけにもいかなかった。
今は節制の徳とやらをフル回転させて、暴走する想いを止める他ない。昔の賢人がどれほど節制できていたのかわからないが、俺もそれに劣らず我慢強いのではないかと最近思い始めた。
「ねえ、真樹君。一つだけお願いがあるんだけど」
「何?」
「新しくやる曲の歌詞、書き直していい?」
「歌詞? そんなの全然構わねーよ。信に急かされて書いたから、俺だって満足してないし」
歌詞かよ、と一瞬落胆した自分がいた。抱き締めて欲しいとか、もっとキスして欲しいとか、そんなお願いじゃないかとただ単に俺が期待していただけなのだけれど。ただ、冷静に考えてみると、伊織がそんな事を言うわけがない
「別に真樹君の詞が悪いって言うんじゃなくて、ちょっと書いてみたいなって思って……」
「その方がいいかもな。やっぱ俺じゃ女の子の気持ち解らない部分も多いからどうしても男が書く詞になるし、伊織がどんな歌詞書くのか見たい気もする」
「期待しないでよ?」
「ああ、全く期待してない」
そう言うと、伊織の優しいげんこつが俺の頭を襲った。
「じゃあ、ちょっと早いけどおやすみ。いつでもLIMEなり電話なりしてくれていいからさ」
これ以上一緒にいるとまたさっきの激情が蘇ってしまいそうなので、俺は名残惜しく思いながらもそう切り出した。
「うん。わかった。おやすみ、真樹君」
伊織も少し名残惜し気に俺の手を離し、彼女は真っ暗で誰もいない家へと帰った。
早く二人で暮らせたらいいのにな……などと、親に言ったら殴られそうな事を考えながら、彼女の背中を見送っていた。
その時──しゃり、という雪の踏む音が背後から聞こえた。振り返ってみると、俺は息を詰まらせた。そこには、暖かそうなコートに身を包んだ中馬芙美の姿があった。しかし、彼女の唇は震えていた。それが寒さから来たものではない事も、もちろん気付いていた。
「……付き合ってたんだね」
中馬さんは普段あまり見せない笑顔を作ろうとしたようだが、失敗して悲痛さを感じさせる表情になっていた。
「昨日から、な」
「あ、やっぱり。昨日、カラオケに居なかったもんね。薄々そうじゃないかとは思っていたけど」
彼女のこの言葉により、ある推測が浮かんだ。もしかすると、中馬さんが柄にもなくカラオケなんかに参加したのは、俺と伊織がそこにいるかどうかを確かめる為ではなかったのだろうか。もしいなければ、俺達が二人でいると類推するのは容易い。居ない事を確認したから、何も言わずに帰ったのではないだろうか。
「運悪いね、あたしも。普段と違うコースを散歩してたら麻生君達に出くわすなんて」
前からわかってたけどね、と中馬さんは付け足して、視線を落とした。
そんな彼女を直視できず、地面に視線を落とした。
「麻生君はずっと麻宮さんしか見てなかったし、二人がお似合いだって事も、あたしでは無理だって事も……あなたをずっと見てたんだから、わかるに決まってるじゃない」
中馬さんはいつになくお喋りだった。無理して場を繋げる為に言葉を探しているようにすら感じられて、彼女を見ていると、胸がギュッと締め付けられるように痛くなった。
「……ごめん」
俺はそう絞り出すことしかできなかった。他に何の言葉も浮かばなかった。
「どうして謝るの? 麻生君は何も悪い事なんてしてないよ」
「だって……」
ちらっと中馬さんの顔を見て、もう一度視線を落とす。
「だって、中馬さん……泣いてるだろ」
ハッとして彼女は手で自らの頬に触れて、慌てて涙を拭った。
「気のせい、だよ」
そして、また無理矢理作った笑顔を見せた。
「家、どっち? 途中まで送ってくよ」
中馬さんは頷いて、今俺達が歩いて来た道を指差した。黙ってそちらに歩き出すと、中馬さんも並んでついてくる。沈黙のまま、溶けた雪道を歩く。先程伊織がつけた足跡や、鼻を直した雪だるまにちらりと視線を向ける。
「なぁ、どうして俺だったんだ? 中馬さんならもっと良い男捕まえられるだろ」
沈黙が気まずくて、思わずそう声をかけていた。
「それ、失礼」
中馬さんはやや不機嫌そうにそう答えた。
「麻生君を選んだ麻宮さんにも、あたしにも……」
「ご、ごめん。そういう意味じゃなくて。ほかにももっと良い奴いると思うんだ。信だってお調子者だけど悪い奴じゃないぜ?」
「穂谷君も嫌いじゃないよ。ただ、あたしとは合わないと思う。それに何て言うか、麻生君の事は結構前から気になってたから」
「なんで?」
前にほんの少しだけ話したけど、と彼女は前置いてから、言葉を繋げた。
「あなたをどこか昔の彼──リョウに重ねてみていたのかも。でも、それだけじゃない。あなたが持つ暗い雰囲気が、あたしに近いものがあったから。多分、気になり始めたのはそれに気付いたから」
中馬さんは自分の事を少し話してくれた。昨年、彼氏を事故により失って、絶望して、周りとの関わりを拒否していた時、ふと自分と同じように周りとの関わりを拒否した暗い表情をしていた俺に気づいたのだと言う。
入学して彼が亡くなるまで、中馬さんは俺の事を特に気にした様子はなかった。ただ、ちょっと変わっていてクラスの女子から避けられている男子、といった認識だったそうだ。おそらくそれはみんなが俺に持っていた印象でもあった。
「結局……あたしはまた何もできなかった」
「また?」
「うん。あなたを暗闇から引き上げたのは、麻宮さんだったから。あたしには何もできなかった……だから、この結果は当然だと思う」
「そんな事ねーよ。そうやって俺の事を心配してくれてた事だけでも嬉しいから」
それならいいけど、と中馬さんは呟いてから、立ち止まった。
「ここまででいいよ。ここからそんなに遠くないから」
彼女は無理して笑顔を作ってそう言った。きっと、気まずくさせない為に、精一杯俺に気を遣ってくれているのだ。
「そっか。気をつけてな」
「うん。わざわざ送ってくれてありがとう。来年からは、今まで通り接して」
「ああ、わかったよ。良いお年を」
「良いお年を」
中馬さんは最後に少しだけ微笑んで、背を向けた。
この時、俺は何となく──これからも教室では顔を合わせるのだろうけど──彼女との道はもう交わる事はないんだろうな、と思った。
そういえば、俺は無責任にもこんな事を言ったように思う。
『何か力になれる事があったら、頼ってくれていいから』
しかし、今の俺は頼られても力になれない。その期待に答える事もできない。以前マスターも、誰も傷つけないように頑張っても誰かを傷つけざるを得ない状況になってしまったならば、躊躇わずに傷つけろ、と言っていた。果たして俺にそれがちゃんとできているかは自信が無いけれど、それに近い事はできたのではないか。
中馬さんが未だ彼氏の死から立ち直れていないのを知っていながら、彼女を意図的に傷つけた。さっきまでの幸せな気分が嘘だと思えるくらい、胸が痛くなった。でも、これは俺が得た幸せの代償だ。そして、もうひとつ俺は、代償を支払わなければならない。
幸せは、誰かの不幸の上で成り立っているのだ。
彼女の寂し気な背中を見て、改めてそれを自覚した。
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