6-7.伊織の決意

「そっかぁ。栞さんの事、みんな知らなかったんだね」


 バイトが終わって、伊織との帰り道を歩いていた途中、彼女が言った。


「栞さんって何者なの? マスターの彼女?」

「う〜ん……内緒」


 伊織は途端に気まずそうに笑って、そういった。


「え? 俺にも言えないの?」

「えっと、私がいろいろ栞さんにお世話になってるっていうか、相談に乗ってもらった事があるから……」

「じゃあ話した事もあるのか!」

「うん。ていうか、みんな普通に知ってると思ったよ……」


 そうならそう言っておいてよ、と伊織は1人不満気に大きくため息を吐いた。この話になると、伊織もそれ以上は言えない、とだけ言って、濁されてしまった。ただ、どうやらその栞さんとマスターは、ただならぬ関係なのは確実だろう。俺も一度見てみたいものだ。

 昼間晴れたおかげで、雪は大分溶けていた。溶け切ってない雪を蹴りながら、俺達は人通りの少なくなった住宅街を歩いていた。いくつか雪だるまが見られたが、昼間の太陽のせいで崩れてしまっているものが多い。


「あーあ、明日は私も雪だるま作ろうと思ってたのに」


 伊織は、雪が溶けて崩れてしまった雪だるまの鼻を直しながら、呟いた。


「週間予報だと、また大晦日前後に降るらしいから安心しな」


 今日は本当に異常気象だった。雪が降り積もってその日のうちに溶けてしまうなんて、なかなかないと思えた。


「じゃあ、一緒に作ろうね?」

「雪だるま?」


 訊くと、彼女は嬉しそうに頷いた。雪だるまなんて随分作ってないな、と思う。中学の半ば辺りから、男は雪が積もったら雪合戦しかしなくなる傾向が強い。最後に雪だるまを作ったのは、おそらく小学生の頃だろう。


「雪が積もるとね……いつも彰吾が遊びにきてた」


 伊織は不意にそう呟いた。驚いて彼女を見たが、彼女は溶けて少し固くなった雪を掬い上げ、指先で丸めて遊んでいた。少し寂しそうな表情だ。


「一緒に雪だるま作ったり、雪合戦したり……楽しかったなぁ」


 言いながら、手の中の雪をぽいと投げると、その雪はコンクリートに当たって砕け散った。


「でも、もうそんな事も無いんだって思うと、やっぱり少し寂しいかな……」


 伊織の瞳にはうっすら膜が張られていた。俺はどう言えばいいか解らず、ただ黙ってその言葉の続きを待っていた。


「実はね……一昨日、彰吾に告白されたの」


 彼女がその告白について自ら話し出した事には、少々驚いた。彼女にとって、それを俺に言う意味も必要もなかったからだ。俺はあの時の情景を、頭の中で蘇らせた。同時に、絶望感も蘇ってくる。


「真剣に付き合ってくれって言われたんだけど……私、」

「──知ってるよ」


 俺が思わず言葉を遮ると、伊織は驚いたようにこちらを見上げていた。


「知ってるから、辛いのにわざわざ無理して話すなよ」


 どういうつもりで彼女が話し出したのかはわからない。けれども、その潤んだ瞳を見て反射的にそう言ってしまった。彼女の口から、自分で自分を傷つけるような言葉を言って欲しくなかったからかもしれない。


「あの時、ちょうどプレゼント買った帰りでさ、近道だったからあの公園通ったんだ。別に見る気はなかったんだけど、ほぼ不可抗力で」

「そうだったんだ……」


 伊織は少し納得した様に眉根を寄せて笑った。


「どうした?」

「ううん。何となく知ってるんじゃないかなって思ってたからさ」

「…………?」

「教会で抱きしめてくれた時ね、何だか全部わかった上で包み込んでくれた感じがしたから」


 俺は返答に困り、視線を彼女からずらした。そんな風に言われると、伊織じゃないけど顔が赤くなりそうだ。彼女はそんな俺の心境を知ってか知らずか、少し遠慮がちに手を繋いできた。さっき雪を触っていた彼女の手は冷たかった。


「私、バンドやめるかもしれない」

「……そっか」

「だって……彰吾に合わせる顔無いもの。凄く傷つけちゃっただろうし、会っても何話せばいいかわかんない」


 それはきっと、彰吾も同じだろう。彼が今どうしてるのか、信ですら知らないのだから俺が知るわけが無いし、俺から何か連絡を取る事も難しい。それこそ嫌味にしかならない。

 しかし、二人の仲を潰す原因となった俺が言うのも何であるが、二人がこのまま話す事もなくなる関係になるというのは気が進まなかった。今まで家族のように接してきた二人が、いきなり他人になってしまうというのがとても辛かったのだ。


「傷ついたのは伊織も同じだろ?」

「え?」

「伊織もそうやって苦しんでる事、きっとあいつも解ってるよ。伊織のこと嫌うとか、そういうのは絶対無いと思うから。まぁ、俺が言うのも変な話なんだけどな」


 二人が元通り仲良くなったら不安になるし、嫉妬もするかもしれない。それでも、二人の築いてきた時間を破壊してしまうのはさすがに気が引けた。伊織が彰吾に救われた時期が今までにたくさんあったのは事実だと思うし、今の彼女を見ていると、そういった思い出まで封じ込めようとしているのではないかと感じた。それだけはあってはならないと思う。


「すぐに前みたいに戻るってのは無理だろうけど……他の奴みたいに『好きです』『ごめんなさい』『じゃあさよなら』って終わってしまう程、二人が過ごした時間は浅くないだろ?」


 伊織は暫く黙って考え込み、こくりと頷いた。


「俺はさ、もっと強くなって彰吾になんかビビらなくていいくらい伊織に好かれるよう頑張るからさ……あんまりそういうのは気にすんなよ。俺の前だからって下手にあいつを避けたりしなくていいから」


 これは強がりだった。俺の中には、彰吾に限らず、彼女に恋愛感情を持っている男とは話して欲しくない、俺だけを見ていて欲しいという気持ちが確かにあった。こんな天使みたいな娘が俺なんかで満足するのか、いつか俺から離れてしまうのではないかという不安は拭い去れない。束縛だけはしないようにするが、その時の内面の葛藤を想像するだけで嫌になる。まだまだ修業が足りないなと思った時、彼女はぽそっと言った。


「そんなに頑張らなくていいよ」

「……え?」

「今のでもっと好きになっちゃったから……」


 消え去りそうなくらい小さな声で、恥ずかしそうに言った。自分の頬が熱くなるのを感じずにはいられなかった。


「きっと、真樹君ならそう言ってくれるって無意識のうちに確信してたんだと思う。だから彰吾の事も打ち明けたのかも。隠し事したくないっていうのもあったんだけど」

「そんなの隠し事のうちに入らねーよ。大体、それを隠し事にしてたら伊織の場合キリが無いだろ」


 誰々に告白されただとかをいちいち報告されたら、俺がどんどん不安になってしまう。


「そ、そんな事無いよ?」

「じゃあ、今まで何人にこくられたんだよ?」

「えっ⁉ ぇっと……その……」

「ほらみろ。思い出せないくらいの人数に告白されてるのに、そんなの報告されたら俺が嫌になってくるだろ」

「か、顔と名前が一致しないから──」

「五人くらいまでなら嫌でも覚えてるはずだぞ」


 うっ、と伊織は言葉を詰まらせた。この高校に転入してまだ三か月も経っていないくせに、信の情報によると、確実に二十人近い人数から彼女は告白されている。その二十人の中には、同学年はもちろんの事、三年や一年まで入っている。しかし、あくまでもこの数字は、『麻宮にフラれた』と自己申告した奴の数だ。実質的にはもっと多いだろう。そんな学園のアイドルとなりつつある麻宮伊織と付き合っているのが、以前は学園の嫌われ者代表だった俺なのだから、これはもう夢か幻かと自分でも思ってしまうのだった。実際、今日の朝だって昨日の事が夢だったのではないかと思ってしまったくらいだ。これから俺は、毎朝この事実を確認するところから始めないといけないのだろうか。


「でも、これから先もし誰かに告白されたとしても……ちゃんと言えるから。『彼氏がいるから諦めて下さい』って」

「か、彼氏……」


 俺はおもむろに雪を両手で掬って、ベシャッと顔に押し当てた。じゅ~っと俺の顔から蒸気が出ている(ような気がした)。


「ちょっ、真樹君⁉ いきなりどうしたの?」

「そんな事面と向かって言われたら恥ずかしいだろ!」

「だって、本当の事だよ?」


 追い打ちをかけられて、頭がくらりとした。こいつ、いつからこんな大胆になりやがったんだ。そんな事ばかり言われたら俺の心臓が持たない。


「それとも……そんな風に言われたら迷惑?」


 演技なのか本気なのか判別できないが、彼女はとても寂しそうな表情で言った。何て卑怯な。昨日と同じような、伊織を想う激情が俺の中で暴れ始める。迷惑だなんて、よく言ってくれる。こっちだって好きで好きで好きでもう死ぬかと思うくらい好きで、大々的に銀河系全てに熱愛宣言したいくらいなのに。

 愛を叫び出したい衝動を、プラトンの節制の徳とやらで必死に抑えつけた。まだ通行人がいるこの時間帯に住宅街の真ん中で抱き締めてキスするわけにはいかない。


「全然、迷惑じゃねーよ。嬉し過ぎだろ、それ」


 ちょっと冗談っぽく言って、彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 ただ、楽観視できない問題もある。信の話によると、ひそかに麻宮伊織ファンクラブが設立されたらしいし、彼等のブラックリストに入っているのは間違いなく俺や彰吾だ。彰吾は幼なじみで許されるかもしれないが、問題は俺の方で、いつ闇討ちされるかわかったものではない。ましてや付き合っている事が公になったら、どうなるか予測もつかない。それでも、彼女がそこまで想ってくれているなら、何があっても耐えなければならないだろう。人から大切に想われた経験が無かった俺だから、余計にそう感じるのかもしれない。


「俺も誰かに告られたらそう言おうかな」

「え……告られたらって、誰に?」

「さぁ? 何だか最近俺のミリョクとやらに気付き始めた奴が多いみたいだし」

「だ、だから、それって誰なの!」


 何故かいきなり伊織が焦って怒り出す。


「何で怒るんだよ」

「当たり前でしょ? 自分の彼が他の子に告白されるなんて、考えただけでも辛いんだから」


 眉根を険しくして、本当に不機嫌そうに言う。冗談ではなくて本気で怒っているようだ。


「ちょっと待て。お前の理論でいくと、俺がどれだけ辛い思いをしまくらなければならないか解るだろ?」

「これとそれとは話の次元が違うの!」

「……違うのか?」


 全く同じ次元の話だと思うのだけれど。


「違うよ。私は真樹君が大好きだから、他の人に何を言われても私の気持ちは変わらないもの。でも──」

「あ、悪い。今聞こえなかった」

「え? 他の人に何を言われても……」

「違う、その前」

「だから、私は真樹君が大……」


 そこで彼女は俺の意図を読んだらしい。顔を真っ赤にしてお口に急ブレーキをかけたようだ。


「ちっ、惜しいな。あとちょっとで二回聞けたのに」


 俺は指をぱちんと鳴らして大袈裟に悔しがってみせた。


「もう……バカ!」


 伊織は顔を真っ赤にして俺の手を離し、一人でさっさか歩き出した。


「ちょ、ちょっと待てよ! 悪かったって」


 自業自得だった。

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