6-6.信の失恋とマスターの秘密

 俺にとって歴史的意義のあるイブから一夜明けて、クリスマス当日──俺は、クリスマスとは関係もなく勤労の為に雪道を歩いていた。

 ここだけの話、日本人にとってはイブこそがクリスマス、という考え方が若干気に入らない。テレビでも二十五日になると、年末年始のCMとクリスマスのCMが半々くらいの割合になっている。私的には、二十六日から年末年始の宣伝を始めて欲しいと思うのだけども……何だかクリスマスに対して失礼だ。いくら商業戦略に日本人が弱いと言っても、もう少し信念をしっかり持ってほしい。

 そんな事を考えながらも、白い息を吐いてから、白い道路を眺めた。昨日の夜に降り続けた雪は、近年稀に見る大雪となり、朝になると十センチほど積もっていた。この雪を見て伊織のはしゃぐ顔を見たいとは思ったが、そんな事していたらバイトに遅れてしまうので、我慢した。それに、カフェに顔を出すと昨日の別れ際に言っていたので、今無理をして会う必要は無い。

 伊織と付き合い始めてまだ二日目だが、なるべく浮かれたい気分を抑えている。彼女を守らなければならない、二度と悲しい想いなんてさせないという使命感も強い。

 もちろん、昨日の出来事を思い出せばにやけてしまうのだけど、何だか自分が意外にもキス魔だった事には驚きであった。好きな人と付き合う事を想像した事なら多々ある。想像というか、この場合妄想と言うのかもしれないが、その中ではあまりキスについて考えていなかった気がする。

 もしかしたら、前世で俺と伊織は結ばれる事を許されなかった関係で、その時の分まで今叶えようとしているのかもしれない──そんな、自分への言い訳を作ってみる。

 しかし、これからはプラトンの言う節制の徳を鍛えなければならない。彰吾の事もあるし、バンドの事もある。ただただ付き合ってひゃっほいというわけにはいかないのだ。


 バイトのほうは暇だった。雪の日にわざわざ来る人も少ないし、二十五日はどちらかと言うと家族と過ごす人が多いのかもしれない。

 ちなみに欧米人はクリスマスは家族と過ごし、大晦日を恋人と過ごすらしい。日本とはまるで逆だ。

 それにしても、暇なのはよくない。昨日の事ばかり思い出してしまって、にやけないように気をつけねばならないからだ。


「昨日は店大変だった?」


 俺は気を逸らすためにもテーブルを拭きながら、暇そうに新聞を読んでるマスターに訊いた。


「そうでもなかったよ。あ、晩飯時に信が来てまたやかましかったけど」

「一人で?」

「いや、友達数人と。あの眞下って子もいたよ」

「ふぅん……」


 何だかんだ楽しんでたんじゃないか、と安心した。実は昨日、ちょうど伊織と映画を見ていた時間帯に、信からLIMEが着ていたのだ。『恋人がいない淋しい奴は、駅前カラオケセンターに集合!』という内容だった。どうやらこれを何人かに一斉送信したらしく、伊織のスマホにも同じものが着ていた。

 その時はちょうど映画を見ていた時で、スマホの電源を切っていた。このLIMEを見たのは夕食を食べていた頃だ。俺達はお互い何て返せばいいかも解らずそのまま放置しておいたから、今日信に会うのが恐い。あの野郎の事だから、きっと色々詮索を入れてくる事は間違いないのだ。

 お願いだから今日は来ませんように、と願った矢先──カランカランと扉のベルが鳴って、恐ろしく不機嫌な穂谷信が入ってきた。昨日ツキ過ぎていたせいか、今日は最悪らしい。服に濡れた箇所があるところから、滑って転んだのだろう。不機嫌な表情のまま、カウンターに座った。


「……ホットコーヒー」

「はいはい」


 マスターは苦笑しながらも、コーヒーを淹れ始めた。


「転んだみたいだけど、大丈夫かよ。タオルで一応拭いとく?」


 俺はビビりつつも、声をかけると、信がじろっと睨みつけてきた。


「おーおー、幸せな奴は余裕あるよな。きっとお前なら来てくれると信じてたのに、返事すら無いんだからなー。お前のあだ名は今日からユダに決定だ」

「ユダって……昨日は悪かったよ。電池切れててさ、見たの夜だったんだ」


 一応、嘘は言ってない。電源を切っていたから、見たのは夜だったのだ。


「ほー。なら麻宮もそうなのかね? あいつも返事来なかったけど」


 ぐっ。いきなり核心に迫ってきやがった。


「いや、それは知らないけど、昨日何人か集まって楽しんでたんだろ? 別に俺がいなかったからって……」


 ポーカーフェイスを駆使しながら、逃げ道を模索していく。臍を曲げている信は、扱いが面倒なのだ。


「ああ、集まったよ。眞下と一緒に中馬さんも来てくれたよ」

「良かったんじゃねーか」

「良くねーよ! 俺だって最初は喜んで色々作戦考えてたんだけど、五時半過ぎになったら急に帰るとか言ってさぁ……ふうぅぅッ」


 信はいきなりカウンターに突っ伏して泣いているそぶりを見せる。


「何でそれで泣くんだよ。来てくれたんだから良いだろ?」

「バカ野郎! 五時半に帰ったんだぞ? その後にデートに行くってのが丸解りじゃねーか!!」


 なるほど。そういう考え方があるのか。しかし、テスト期間中は中馬さんともよく一緒にいたが、俺が見る限り男の陰は見えなかったと思う。元彼の事もあるし……今はそういう気分ではないと思うのだ。


「でもさ、男の面子の中に嫌いな奴とかがいたのかもしれねーだろ? 決めつけんなよ」


 一応慰めておく。ここはとにかく信のご機嫌を取っておくのが得策だ。


「確かにそうだけどよ……」


 はぁ、と信は大袈裟に溜息を吐きながら、カウンターに顎を乗せた。俺は一瞬、彼氏いるか訊いてやろうか? と言おうとしたが、思い留まった。


『芙美も麻生君の事好きなの、知ってるでしょ?』


 眞下のその言葉が蘇った。彼氏の存在なんて訊いたら、俺が気があると思うかもしれない。しかし、もしかしたら俺の事なんてさっさと諦めて、イブに備えて彼氏を作ったという事も考えられる。


「まだフッ切れてないの?」


 コーヒーを出す際に、マスターが呆れて言った。そういった煽る言い方はやめてほしい。こちらに飛び火しそうだ。


「フッ切れてたけど、もう一回好きになっただけだよ!」

「それはフッ切れたとは言わないと思うんだけど……」

「うるせえ!」


 マスターはやれやれともう一度新聞を広げた。


「この際さ、眞下にしとけば? 仲良いんだし、丁度良いじゃんか」


 ふと眞下の〝正直じゃない態度〟を思い出したので、言ってみた。これで信も気があるようなら、上手くいけば二人も付き合えるかもしれない。


「お前もそれ言うのか。あのな、その冗談全く笑えねーぞ。まぁ、もう一回中馬さんにアタックしてダメだったら最終手段でそれも有りかもしれねーけどな」


 何だそりゃ、と俺は首を傾げた。確かに眞下はうるさいけれど、案外信と合ってるんじゃないかなとも思うのだ。逆に中馬さんと信の組合せだと、合わない。多分信が下僕になるだけだ。


「それよりオメーはどうなんだよ!」

「俺? 別に、何も」


 とぼけて見せたが、マスターがすかさず横槍を入れた。


「その割に、さっきから一人でにやけてたじゃないか」

「……いや、にやけてないし」


 ダメだ、返事も遅れたし一瞬ポーカーフェイスが崩れた。マスターはそんな俺を見てククッと笑った。俺もまだまだ修業不足だ。


「もうそんな下手な嘘はいらねーからよ」


 信はやや怒りながら続けた。


「昨日彰吾からも返事なかったしよ、どうなってんのか気になってたんだよ。まさかバトルったとかないよな? ライブ前にそれは勘弁してくれよ」

「いや、それは無い」


 間接的にはそうなのかもしれないけど、直接的にはバトルってない。ただ、実際俺も彰吾の事が気にならないわけじゃない。一昨日の彰吾の告白の後、伊織がどう言った対応をしたのかも気になるし、いきなりはたし状を渡されたりしても困る。穏便に解決したいとは思うが、どうなのだろうか。

 それに、どう転んでも明日はバンドの練習で嫌でも顔を合わせる。その時にどんな空気になるかなんて、恐くて想像もできなかった。彰吾がバンドを脱退する事だって十分有り得る。伊織と付き合う事になったからと言って、何もかもが上手く行くわけではない──俺が浮かれた気分のままでいられないのは、こういった事情があるからだった。

『誰かが幸せになる頃、あの子が泣いてるよ』

 確か宇多田ヒカルの歌で、こんな歌詞があった。まさしく、その通りの構図になってしまっている。俺と伊織が結ばれて幸せになったなら、彰吾は不幸のどん底だ。彰吾だけじゃない。きっと、彼の両親も残念に思うだろう。彼と伊織が結ばれてくれる事を祈っていただろうし、そう信じていたのかもしれない。だとしたら、俺はひどい奴なのだろうか。


「お前さぁ、いい加減白状しろよ。この前デートに誘う事自白したじゃねーか」

「結局誘えなかったかもしれないだろ?」

「かーっ! 何でそこまで強情になるんだかねー?」

「気のせいだよ」


 俺はノーコメントで貫いた。いや、俺だって本当は言いたいのだ。女神様がうっかり間違って下界におりてきちゃったのかと思うくらい可愛くて優しい女の子が彼女だなんて、全世界中の男に自慢してやりたい。

 だけれど、そうもいかない。少なくとも、彰吾と伊織が今どうなってるのかを解ってからでないと、誰にも言ってはならないと思う。

 と、こんな事を考えると、余計会いたくなってきた。あの天使顔負けの笑顔が脳裏に蘇った。サラサラの髪に触れて、抱き締めて、彼女の甘い香りに包まれていたい。気を抜けば、彼女の事を考えてしまっている。何時頃来るのか聞いとけば良かったな等と考えてしまう。

 ──ダメだ。節制の徳なんて全くありゃしない。一度考え始めると止まらなくなる。

 そんな時、ドアベルが鳴って扉が開いた。ハッとそちらを見ると、俺が誰よりも会いたかった姿があった。


「こんにちは」


 伊織は店に入ってくるなり、天使みたいな笑顔を見せてくれた。それだけで幸せな気持ちになれてしまうから、俺も随分と安上がりな男だ。

 伊織は昨日とは違う紙袋を持っていた。昨日言っていたケーキが入っているのだろう。彼女はにこりと俺にだけこっそり笑って、カウンターに向かってきた。


「寒くなかったか?」


 信の横のカウンター席に腰掛けた伊織に訊いてみた。もちろん、なるべくこれまで通りに平常心を装いながら。ただ、これまで自分がどうやって彼女に接していたか、もう思い出せない。俺達は──もう以前までの関係ではないのだから。


「うん。お日さまが丁度照ってきてたから、今はそんなに寒くないよ」

「じゃあ、明日にはもう雪は熔けてるかもな。あ、何にする?」

「うーん……じゃあ、今日はハニーラテ」

「今日〝も〟だろ?」


 最近伊織はハニーラテを注文する事が多いのだ。


「バレた? 最近ハマっちゃってて」


 伊織がはにかんで答えた。ああ、ヤバイ。こんな会話でも嬉し過ぎる。ここまで重病だとは思わなかった。信のニヤニヤとこちらを見る視線に気付き、慌てて正気に戻る。マスターはやれやれとした表情で、ハニーラテを作り始めた。


「つか、滑ってこけてケーキぐしゃぐしゃとか言うオチは無いだろうな」


 俺は浮かれた心を落ち着ける為、照れ隠しでそう言った。


「うん。実はそこで転んじゃったから、中見るの恐かったりして」

「おい……」

「なーんてね。嘘だよ」


 伊織はペロッと舌を出し、こちらを見て照れくさそうに笑った。俺もつい表情が緩んでしまうが、はっとして雑念を振り払う。ダメだ。今まで以上にのめり込んでしまっている。仕事だけはしっかりやらなくては。

 お湯で温めてあったカップからお湯を捨て、マスターに渡した。彼はそれにハニーラテを注ぎ込み、伊織の前に出す。そんな俺達の様子を見て、信はぽつりと呟く様に言った。


「……なーんだ、やっぱ付き合ってんじゃねぇか」


 信が俺達のやり取りを見て、呆れたような笑みを浮かべて言った。その言葉に、ぎょっとして俺と伊織は彼を見る。


「え、な、なんで……」

「ばーか。今の見たら、さすがに気付くっつの。お前等にある空気がもう前と違う。恋人オーラ出まくりだ」


 さすがにそう言われてしまえば、何も言い返せない。


「良かったじゃねーか。なんだかぐだぐだしてたからどうなるもんかと心配もしたが……とりあえず、おめでとう!」


 信はいつもの屈託のない笑顔で、俺達の門出を祝福してくれた。普段のようにおちゃらけてからかってくるのなら文句の一つでも言うのだが、こういう風に真面目に祝われると何も言えなくなる。

 こいつはこいつで、俺達の事を考えてくれていたのだ。伊織は顔を紅くして、ありがとう、と信に言っていた。


「はぁ。しかし……何でこのモテ度ナンバーワンの俺がまだ一人なんだ……」


 なんだか落ち込んでいるが、俺の知る限り、彼がモテ度ナンバーワンだった時がない。


「あ……信君もケーキ食べる? 作ってきたんだけど」


 伊織はケーキの入った袋をカウンターの上に出して、中からそっと紙箱を取りだした。


「俺もいいの? なら食う!」


 尻尾を振った犬の様に答える信。数秒前まで落ち込んでいたように思うのだけど、立ち直りが早いというか。それがこの穂谷信のいいところではあるのだけれど。


「マスター、ケーキ食べていいですか?」

「ん? まあ、他にお客さんいないし別にいいよ。僕も食べたいし。あ、包丁使っていいよ」


 マスターの承諾を得たので、俺はフォークとナイフ、お皿を人数分出してから、伊織の横に腰掛けた。

 伊織がケーキの箱を開けると、男性陣から感嘆の声が洩れた。ケーキは昨日話していた通り、シンプルな苺のショートケーキだ。

 サンタさんやトナカイの飾りが、まるで雪のうえをソリで滑っているかの様に綺麗に作られている。まだ赤みの引かない表情のまま、彼女はマスターから包丁を受け取ると、綺麗にケーキを切り分けて、おずおずと俺達に差し出した。


「これ、昨日帰ってから作ったのか?」

「ううん、ケーキは今朝材料を買いに行って作ったの。ショートケーキは作るのにそんなに時間かからないから」

「へえ……」


 ケーキをまじまじと見るが、どう見ても店で売っているケーキと差がわからない。いや、もちろんクリームの質やスポンジケーキの質感から手作りなのは伝わるのだが。すごいなぁ。


「で、お前等昨日どんなデートしてたんだよ」

「そ、それはいいから、早く食べて?」

「そうだな、食べよう! いただきまーす」

「……無視かよ」


 不服そうに呟く信を横目に、ケーキを頬張った。おお、これは美味い。生クリームも甘すぎずでちょうどよくて、スポンジケーキもフワフワだ。


「おお。美味しい。伊織ちゃんはお菓子作りも上手いなぁ」

「うわっ、最高! すげー旨いじゃん!!」


 マスターと信がそれぞれ絶賛した。シンプルなショートケーキなのに、何故かとてつもなく美味しい。口の中が蕩けてしまいそうだ。これは俺が伊織を好きだからそう感じるのだろうか。


「……どう?」


 彼女が心配そうにこちらを見ていた。そういえば、俺だけコメントをまだ出してなかった。


「俺が今までに食ったショートケーキん中で間違いなく一番美味しい」

「ほんと? 気遣ったりしてない?」

「今更気遣うと思う? つか、自分で食べたら解るだろ。マジで美味しいから」


 俺がそう言ってやると、伊織は恥ずかしそうな、でも凄く嬉しそうな笑みを見せた。


「……ありがとう」


 ああ、もう。何て可愛い表情で御礼言うんだよ。皆がいる前でそんな表情されても困る。心の全てをもぎ取られたかのような感覚に陥っているのに、それを示す事ができない。


「いや、こっちこそ美味しいケーキありがとうございます」

 何だか俺も照れ臭くなったので丁寧にお辞儀してみた。

「くっそー、やっぱむかつく! さっさと別れろバカ野郎!」


 信がそんな俺達のやり取りを見て、遂に錯乱し始めた。それは少し騒がしいけども、穏やかで幸せな昼下がりだった。


「ところでさ、マスター」


 ケーキを食べ終わった頃、唐突に信が切り出した。


「なんだい?」


 新聞を開いていたマスターは、コーヒーをすすりながら、信の方を向いた。


「昨日、俺らと入れ違いで入ってきた美人、誰なの? いい加減教えてくれよ」

「ごふっ……げほっげほっ」


 マスターが咳き込んだ。その大きすぎるリアクションに、俺と伊織もマスターに目を向ける。


「お? その反応はまさか?」


 俺もマスターのその反応には驚いた。今まで彼がこんなに狼狽したところを見たことがなかったからだ。


「ん? 信には前も言わなかったっけ? たまに来るお客さんだよ」


 こほん、と咳払いをして、再び新聞に目を移した。しかし、明らかに動作が不自然だった。怪しい。


「信、あれか? ついに見たのか? 噂の美女とやらを」

「おう、俺も前に数回遠くからしか見た事なかったけど、昨日はすれ違いザマだったから、しっかり見たぜ。アホみたいにべらぼうな美人だった。あれはマスターの彼女なの?」


 信が何度か見ている美人客。マスターと親しげに話していたから、彼女ではないかと彼は疑ったそうだが、出現率が低すぎて、確信が得られなかったそうだ。

 何度か信がマスターに調査を試みたが、マスターの防御壁はあまりに高く、全く情報を引き出せなかったそうだ。しかし、今そこに突破口ができた。


「あのね、うちのお客さんを勝手にそういう目で見ないでくれる? 彼女はたまに来るお客さんで──」

「ほー? マスター、あんたはそんなたまに来るお客さんに向けて、あんな誰にも見せたことない優しい笑みで迎えるのかい?」

「……は? だから信、君は何を言ってるんだ? 僕は至って普通だったよ」


 マスターの反応が一瞬遅れた。これは、どうやら図星だったみたいだ。


「おい、信。やったぞ、これはどうやら当たりみたいだな。どんな人だった?」

「背は麻宮より少し高くて、髪は真っ黒なサラサラロング。目つきは少しきつかったけど、でもすっげぇ美人で、大人っぽかった。年は俺らよりちょっと上の二十歳前後で大学生と見た!」


 ほうほう、さすが美人サーチマシンとの異名も持つ信。一瞬でちゃんとデータを揃えるあたり、芸能プロのスカウトでもやっていたほうがいいのではないかと思ってしまう。


「え? それ栞さんじゃないの?」


 伊織が何食わぬ顔で首を傾げた。まるで『なんで知らないの?』とでも言いたげな顔だ。すると、マスターが頭を抱えた。


「ああ、伊織ちゃん、バカ……」

「え? ……あっ!」


 マスターの反応を見て、自分が失言をしたらしいという事を伊織は察したらしい。彼女の頭の上にあった疑問符が、汗マークに変わっている。


「もしかして……みんな知らないんですか?」

「知らないし言わないし教えないよ……」


 お? どういう事だ? まさか、伊織がそのマスターの女(推定)の謎の美女と面識があった? いろいろ展開がついていけないが、どういう事だ?


「麻宮、その栞さんという人について詳しく教えなさい」


 信が伊織に向かって、好々爺のように優しい笑みを向ける。その笑顔が怖い。


「私が前に一人で来た時に──」

「い~お~り~ちゃ~ん?」


 今度はマスターが笑顔――しかしまるで虫を殺す感覚で簡単に人をも殺しそうな残忍性も持ち合わせている――で伊織に威圧した。怖い。これは信の笑顔なんかとは比べものにならない。殺される。


「な、なんでもないです」

「おい、麻宮! そりゃねえぜ!」

「何も知らないよね、伊織ちゃん?」

「はい、知らないです」


 伊織が引きつった笑みを浮かべ、マスターの脅しに屈している。完全にイエスマンになってしまった。伊織は何かマスターに弱みでも握られているのか? それとも、別の何かがあるのだろうか。

 というか、伊織がひとりでSカフェに来店していた事を初めて知った。でも、それも彼女の事情を知っている今ならわかる。彼女は今一人暮らしなのだ。ひとりでご飯を作れない時など、外食としてここに来ていたのかもしれない。

 言ってくれれば一緒に食べたのに、と思ったが、彼女からすれば、両親が亡くなっている事を誰にも言っていない。言えるわけがなかったのだ。


「おい、マスター! 何で俺や麻生が知らないのに麻宮が知ってんだよ。どれだけ俺らがこの店の売り上げに貢献してると」

「売上に貢献してるだって? あのねえ、ツケを1万も溜めてたら売り上げに貢献してることにはならないの」

「この前払っただろ!」

「それは、君が臨時収入を得てたからだろ?」


 その時、マスターがふと何かを思い出したように、にやりと笑った。信も、そこで『しまった』という顔をしていた。臨時収入という言葉で信にも弱みがある事を思い出したのだろう。


「そういえば、信。あの〝臨時収入〟って何から得た金だっけ?」

「う……ぐ……」


 信が息を詰まらせた。そう、伊織がいる前では〝臨時収入〟の事は話せない。あれは伊織を含む女子の写真を裏で売買して金銭に変えていたのだ。万が一クラスの女子にバレたなら、信の高校生活は終わる。


「さて、信? 僕はそれについて伊織ちゃんに話してもいいし、黙っていてもいいんだけど……?」

「なんでも……ありません……」


 信も屈しやがった。マスター、どれだけ人の弱みを握るのが得意なんだ。しかし、俺は違う! 俺はこいつらのように恐れる弱みなど──


「真樹? これについて何か言ったら、クビにするよ?」


 被雇用者である俺が一番立場的に弱かった。結局それ以降、誰もその件に突っ込める人間はおらず、有耶無耶にされてしまった。

 マスター、恐るべし。大人はやはり怖かった。

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