6-5.当たり前の世界が変わったとき
チャペルからの帰りの電車の中で、出来たばかりの恋人と並んで座りながら、ゆらゆらと揺れる吊り革を眺めていた。電車の中ではほとんど話さなかったけど、手だけはしっかりと繋がれていた。
ふと、横を盗み見てみると、伊織がうとうとしているようだった。おそらく、昨夜は彰吾の一件もあって、あまり寝ていないのだろう。それは俺も同じ事だが、映画館を出てからこっそり大容量カフェインドリンク〝目ガシャキ〟を飲んで、今は辛うじて眠気を抑え込んでいる。それでも、色んな壁を乗り越えた安堵とこの電車の暖かさのせいで、眠気がじわじわと襲い掛かってきている。
「肩、貸そうか?」
「えっ、いいの……?」
「別に、変じゃないだろ? だって……俺達、もう付き合ってるんだから」
少し照れ臭くなって、明後日の方向に視線をやる。伊織はくすっと笑ってから、俺の横に詰めて、ぴったりと座ってきた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
嬉しそうに言いながら、寄りかかるようにして、肩に頭を乗せてきた。暖かいからか、さっきチャペルで触れた時よりも、伊織の優しい匂いを感じられる。周りの視線が気になったが、クリスマスイブだからか、周りも人目を気にしていなさそうだった。彼氏彼女でくっついているカップルが何組かいたので、俺達だけが特別目立っているわけではない。
もちろん、今日はド平日なので、残業帰りのサラリーマンも多い。手には子供に贈る用だろうか。プレゼントらしき大きな箱や紙袋を抱えている人もいた。サラリーマンのお父さんは疲れた顔をしているが、どこかワクワクしているようにも思える。きっと、プレゼントを見た子供が喜ぶ顔を想像しているのだろう。
自分が〝幸せ〟を知ったからかわからないが、世界にはこんなにも〝幸せ〟が溢れていたのだと気付かされた。それとも、愛する人に寄りかかられて、幸せを感じている今だからこそ、他人の〝幸せ〟を考えられる余裕があるのだろうか。
『まもなく桜ヶ丘、桜ヶ丘です。お降りの方はドア付近までお進みください。雪の影響で、電車が少々遅れております。すぐの発車となりますので、降りられたお客様はなるべく電車から離れてお歩きください』
車掌のアナウンスが流れた。もっと続けばいいのにと思っていた二駅の移動が、終わってしまう。雪の影響でいつもよりゆっくり走っていた事から少しだけ乗車時間が長かったが、それでも全然足りなかった。
「伊織、もう着くよ」
「うん、大丈夫。起きてたから」
彼女は体を起こして、困ったように眉を寄せてから、笑ってみせた。
「寝てないの? 寝ればよかったのに」
「なんだかもったいなくて」
「もったいない?」
「こうしてるだけで幸せだったから」
本当にこいつは、いちいちドキドキする事を言ってくるから、ずるい。このままでは心臓が持たない。そんなバカップル丸出しな会話をしているうちに、電車が最寄り駅に止まった。
「あーあ、もう着いちゃった。このままずっと乗っててもいいのにね?」
「確かに。いっそ乗り過ごして終点までいってみるか?」
「そしたら、終電なくなって帰ってこれなくなっちゃう」
まんざら嫌でもなさそうに言ってくるから、やっぱり彼女はずるい。俺がそうしないとわかっていて、こっちの欲求を刺激してくるのだ。
「それはそれでいいかも」
「もう。明日バイトでしょ?」
「その通り……」
今日を休みにしてもらう代わりに、明日のバイトに入る事になっている。マスターには恩義がありすぎるので、彼を裏切る事だけはできない。
「今度電車に乗って遠くにデートしにいこうぜ」
「うん! 真樹君とデート、たくさんしたいな」
電車の扉が開いてから、俺達は立ち上がった。もちろん、手は繋がれたままだ。
電車から降りて、駅のホームに降り立つ。いつも乗る駅のホーム、いつも使うホームのエスカレーター。都内でどこにでもありそうな、代わり映えしないさっぱりとした駅。でも、隣には伊織がいて、その伊織と手を繋いでいる。たったそれだけで、いつもの駅が全く別の場所のように思えて、どこにでもありそうな駅が、輝いて見えた。
彼女をふと見ると、彼女もこちらを見ていた。目が合うと、困ったように眉を寄せて、照れ臭そうに微笑みかけてくる。なんだかそれだけで世界が明るくなった気がした。
恋人って、すごい。世界をこんなにも変えてくれるんだ。
駅の改札をくぐって、また俺たちは手を繋ぎ直した。改札をくぐる僅かな時間ですら、手を離したくない──そう思ってしまうのは、さすがにちょっとバカップルが過ぎるだろうか。
待ち合わせ場所の広場を横目で見て、ふと思う。昼にここで待ち合わせていた時は、まだ俺達は、仲の良い友達だった。でも、もう友達じゃなくなってしまった。今は、恋人なのだ。たったそれだけで、これまでの世界とは全く別のように思える。
「私達があそこで待ち合わせてた時は、まだ付き合ってなかったんだよね」
ふと、オブジェの前で伊織が立ち止まって、こちらを見上げて言った。伊織も同じ事を考えていたようだった。
「だな」
「昼の私達と、今の私達。同じ二人なのに、全然違う感じがする」
「そりゃ違うだろ。だって、今は、もう彼氏彼女だからな」
そう言うと、伊織はまたくすっと笑って、身を寄せてきた。そんな彼女の肩をそっと抱き寄せて、彼女の髪の香りをこっそりと嗅ぐ。彼女の髪には、雪が少しだけ積もっていたので、ついでに払ってやった。
「ありがとっ。あ、真樹君も」
言いながら、彼女も俺の髪についた雪を払ってくれる。
「雪、積もりそうだな」
あたりを見てみると、地面がうっすら白くなっていた。ぼたん雪だし、降っている量も結構多い。明日には積もりそうだ。
「だね。傘買おっか」
「ああ」
俺達は駅近くのコンビニで、傘を一本だけ買った。そして、その一本の傘を差して、二人で共有する。
「相合傘だね」
「だな」
「真樹君と相合傘」
「伊織と相合傘」
「なんだか、ちょっぴり恥ずかしいね」
「じゃあ、もう一本買ってきたほうがいい?」
「だめ……
そう言って、彼女は俺の方に体をぴったりとくっつけてきた。伊織に雪がかからないように、ちょっとだけ傘を彼女のほうに傾けてやる。それは恋人同士としては当たり前の光景で、当たり前の事をしているだけなのに、それがとても新鮮で、気恥ずかしい。でも、嬉しくて仕方ない。何もかもが新鮮なひと時を、全身で感じていた。
家路を歩いている最中、特に会話をする事もなく、うっすらと積もった新雪を、二人で黙って踏んでいく。
「真樹君、問題です」
唐突に伊織が話し出した。
「なに?」
「私の両手が寂しがっています。どうすればいいと思いますか?」
「え?」
ふと、伊織を見ると、彼女は空の両手のひらを空に向けて、手をグーにしたりパーにしたりして、手持ち無沙汰さをアピールしていた。
ちなみに、彼女にあげたフォトフレームは、結局俺がまた持っている。重みが結構あるし、女の子にずっと持たせるのも悪いと思ったからだ。彼女は自分で持ちたがっていたが、俺が無理矢理持つ事にしている。
伊織は、少し恥ずかしそうに、そしてちょっとだけ不服そうに、こちらを見上げている。
「あ、えっと……どうぞ」
言ってから、傘を持っている腕を少しだけ下げてやる。すると、彼女は嬉しそうに、その腕に飛びつくようにぎゅっと抱え込んだ。
「せいかいっ」
「合っててよかった」
俺達の距離がぐっと縮まって、コート越しに彼女の温かさを感じられた気がした。
「正解のご褒美は?」
「……これじゃダメなの?」
これとは、腕を組むことだろう。少し不満気だった。
「いえ、最高のご褒美です」
「言わせちゃった」
言って、伊織は幸せそうにはにかんだ。こんな彼女を見ていると、もっと早く告白すればよかったと思ってしまう。
きっと、伊織はもっと前からこうやって腕を組んでみたいと思っていたのではないだろうか。でなければ、こんな風にいきなり手持ち無沙汰さをアピールしてこないと思うのだ。
思えば、随分遠回りしていたように思う。でも、遠回りは遠回りでよかった。遠回りしたからこそ、お互い信頼した上で付き合えているのだから。
「明日はバイト何時から?」
「えっと、十一時から六時まで」
「じゃあ、明日ケーキ作って持っていくね」
「お、まじ? ケーキ作れるの?」
伊織から手作りお菓子の話を聞いたのは、初めてだった。
「うん。こう見えて、お菓子作りは結構好きなんだよ?」
「まあ、料理も上手いもんな。何のケーキ?」
「あんまり凝ったのは作ってる時間がないから、ショートケーキ作ろうかなって」
「お、まじでか。めちゃくちゃ楽しみにしてる」
「うん! 頑張っちゃう」
笑顔をこちらに向けて言ってくるので、あまりにも愛しくて、抱き締めたくなってしまった。さっきはたくさん泣いていたけれど、それよりもたくさん笑顔を見せてくれるようになったのが、何よりも嬉しい。
そんな会話を交わしていると、いつも待ち合わせしているY字路が見えてきた。
「……もう着いちゃうね」
伊織の横顔が寂しげだった。それは俺も同じだったが、寂しく思ってくれる事が嬉しかった。
「ずっと続けばいいのに。って、さっき電車でも同じような事言ってたっけ、私」
「俺も同じ事思ってるよ」
「ほんと? 嬉しい」
言って、伊織ははにかんだ。
「じゃあ、また明日な」
「うん」
彼女は名残惜しそうに腕を離した。そして、フォトフレームと、ついでに傘ももたせてやる。
「いいの?」
「いいよ。だって、俺んちすぐそこだから」
「ありがとう」
伊織の家は、ここから歩いて徒歩十分近くかかる。一方、俺の家は、ここから三分もかからない。伊織が持っていく方が良いし、むしろ俺のほうが遠くても伊織に傘を持たせたい。
「真樹君、今日は本当にありがとう。こんなに素敵なプレゼントも貰っちゃったし……最高のクリスマスイブだったよ」
「それは俺も同じだから。一緒に過ごしてくれて、全部話してくれて、ありがとな」
「こちらこそ。あと……」
伊織は姿勢を正して、ぺこりと頭を下げた。
「ふつつか者ですが、これからも宜しくお願いします」
「ああ、えっと、こちらこそ至らない点は多いかもしれませんが、よろしくお願いしま……す?」
お互いにお礼を言い合ってるうちに恥ずかしくなって、同時に笑ってしまった。
「なんだかおかしいね。じゃあ、また明日。おやすみ、真樹君」
「おやすみ、伊織」
そして、最後にもう一度だけキスをして、ぎゅっと抱き締めた。あとは、彼女の背中が見えなくなるまで、その場所で見送っていた。
こうして、俺達のクリスマスデートは終わった。
家に入ると、マフラーを見た母親は少しニヤニヤしていた気がするが、何も追求してこなかった。
そのまま自室のベッドに寝転がって、今日一日のことを思い返してみる。一応念のため、ほっぺたを指で強くツネってみたが、案の定痛かった。その痛みが今日という一日を現実だと教えてくれていた。
ただ、それで緊張の糸が切れたのか、そこで睡魔が襲ってきた。その睡魔に逆らわず、目を閉じた。瞼の裏では、今日の出来事がコマ送りで蘇っている。
楽しかった事、嬉しかった事、驚いた事、胸が痛くなった事……情報量があまりに多くて、頭がついていかない。脳みそがどろりと重くなってきて、体が沈んでいくような感覚に陥る。
まだ着替えてないのに──そんな事を一瞬思うが、もう体は言うことを聞かなかった。鼻腔の奥に記憶した彼女の香りを思い出して、記憶の中の彼女の柔らかさに浸りながら、そのまま眠りについた。
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