6-4.伊織の告白
「ホワイトクリスマスなんて、初めて……」
「俺もだよ」
雪が止む気配を見せなかったので、屋根のあるチャペルの入口まで移動した。入口の階段に腰かけて、ぼたん雪とイルミネーションのコラボレーションをしばらく楽しんだ。
クリスマスの前後に雪が降った事は何度かあったが、俺の記憶にある限りでは、二十四・二十五日に降る雪は初めてだった。まさか映画のラストシーンと同じような場面に自分達が身を置くとは、夢にも思わなかった。
ミサは先ほど終わり、教会の中にはもう人はいないようだった。神父さんが外に出てきた時に『もう少しだけツリーを見ていていいですか?』とお願いすると、今日はイルミネーションを消すつもりはないですので好きなだけ見ていて下さい、とお許しを頂けた。それだけではなく、神父さんは風邪を引いてはいけないからと言って、アールグレイの紅茶とホッカイロをくれた。さすが神に仕える者だな、と感心した。神父さんの厚意を有り難く頂戴して、もう少しだけここにいる事にしたのだった。
他のカップルは寒いのか、他にいくべき場所があるのかわからないが、もう帰ってしまっていて、この教会のツリーを俺と伊織の二人だけで独占できていた。これもまた、奇跡のように思えた。
「あっ、忘れてた」
伊織は紙袋の中からごそごそと包みを出し、ようやくプレゼントを渡してくれた。
「いつになったら渡してくれるのかと思ったよ」
雪が降り始めてから、もう結構な時間が既に経っている。
「ごめんね。嬉しくて忘れちゃってたの」
彼女は俺が喜ぶ言葉を知っているかのように、嬉しい事ばかり言ってくるから、いちいち心臓に悪い。包みを開けてみると、何と手編みの赤と黒のマフラーだった。
「先月くらいから急いで作ったから、ちょっと目が詰まっちゃったけど……」
「いや、全然わかんねーよ。凄いな……こんなの作れるとか、俺からすれば天才だよ」
編物の類いは全くもって苦手だ。それを一か月程で編めてしまう伊織は、もはや匠か神童かのように思えてしまう。そして、マフラーを持ってない俺にとって──実を言うと、このトレンチコートは外観重視で、防寒具としての効果はあまりない──非常に有り難いプレゼントでもあった。プレゼントされたマフラーを早速巻こうと思って立った時に気付いたのだが、普通のマフラーより結構長い。
「……ちょっと長くない?」
「うっ。やっぱりバレた? 実は焦ってるうちに、何か長くなっちゃって」
ごめん、と伊織はしゅんとした。
そういえば──俺は編んだ事が無いからわからないが──編物と言えば普通は何か月もかかると言う。それをたった一か月でやったという事は……もしかして、相当無理をしてたのではないだろうか?
一か月前と言えば、ちょうど文化祭前だ。もちろん学校だってバンド練習だってあったし、そしてその後はテストまであった。とてもではないが、編物だけに時間を費やせるほど、時間に余裕があったわけではなかったはずだ。これを編むために、どれだけの時間を要したのだろう? 睡眠時間を限界まで削ったのではないだろうか?
伊織は、そんな無理をしてまで、ずっと俺の為に編んでいてくれていたのだ。そんなに前から、今日の事を想って……?
瞼の裏がじわっと熱くなり、込み上げてくるものを必死で堪えながら、とりあえず巻いてみた。やっぱり少し長いが、そんなの気にならなかった。気になるはずがない。伊織がどんな気持ちでこれを編んでくれていたか……一つ一つの毛糸が教えてくれた。この世にこれ以上のものは無い。『こんなにいい物貰ったの初めて』はこっちのセリフだった。
その長いマフラーを見ていると、ふと良い事を想いついてしまった。マフラーを解き、伊織の横に詰めて座った。怪訝にこちらを見ている彼女の首にもかけてやり、そして二人の間で結ぶ。
「ちょっと長いけど、こうやって二人で使えるからいいかもな」
「もう……あんまりそういう事ばっかり言わないで」
「え? どうして?」
「もっと好きになって、止まらなくなっちゃうから」
伊織は恥ずかしそうに笑って、身を預けてきた。そして、頭を俺の肩に乗せてくる。そんな彼女の肩をそっと抱き寄せて、彼女の髪にキスをした。二人の距離も縮まるし、暖かい。まさしく文句無しのマフラーだ。
所詮、長所や短所なんてそんなものなのだ。見方や方法を変えれば、短所だって長所になる。もちろん、その逆だってあるのだけれど、長所や短所と言ったものは存在しないと思っている。人によって感じ方や考え方なんて異なるのだから。
だから、長所が無いと悩む必要なんてない。自分の短所が見えているなら、その見方を変えてみればいい。俺も過去では自分の短所ばかり嘆いていたが、伊織と出会ってからはこのように物事をプラスに持って行く事ができるようになった。マイナスとプラスは、表裏一体なのである。
人は変わる。変わらないと思っていた世界から俺を救ってくれたのは、彼女だった。
伊織は身を少し起こして、正面から向き合う。二人を囲むマフラーの中で俺たちは見つめあった。彼女の瞳から、決意のような意志を感じた。
「ねえ、真樹君……私の話、聞いてくれる?」
「話?」
「うん……私の事」
内心、少しドキッとしていた。それはきっと昨日彰吾の言っていた『麻生の知らない伊織の悲しみ』なのだろうと予測できたからだ。一体どんな話なのか、全く想像もつかなかった。
「真樹君には、私の事全部知っていて欲しいから」
彼女の目を見て、俺はしっかりと頷いた。
◇◇◇
伊織は暫く何かを考え、少し躊躇いながらではあるが、話し始めた。
「実はね、私……お父さんとお母さんがもういないの」
「えっ?」
どんな話が出てきても大丈夫と心構えしていたのだが、やはり驚いてしまった。
「亡くなられたの?」
「うん、お母さんは私が中学二年生の時に病気で、お父さんは今年の六月に、事故で」
「…………」
彼女が以前、自分は独りぼっちだと言った理由が今ようやくわかった。そういえば、所々でそういった面影は見えた。文化祭の時も、大切な人が消えてしまうと泣いていた。
「私、お父さんもお母さんも大好きだった。優しくて、時にはちゃんと怒ってくれて……愛されてるって実感できた。ううん、二人ともいなくなったから、実感できたのかな……」
親からの愛は、普通に生活している限りでは気付かないのかもしれない。現に、俺も親とのやり取りは全てが当たり前と感じているので、何が愛なのかもわかっていない。でも、もしいきなりいなくなれば……途方もない喪失感に襲われるだろう。
「お母さんがいなくなった時、お父さん放心状態になっちゃって……それで、私までそうなってるわけにもいかないじゃない? だから、葬儀の手続きとかも全部私がやる羽目になって」
「中学生なのに?」
「うん。でも、やっぱりそんなの無理で……そんな時助けてくれたのが彰吾のご両親。遺産の事とか、私あの頃じゃさっぱり解らなかったから、あの二人がいなかったら親戚にお母さんの遺産も奪われてたかも」
「親戚なのに奪うのかよ」
伊織は頷いて、「今にして思えばひどい話だよね」と苦い笑みを漏らした。
「会った事もない親戚がいきなり現れて、相続権を主張するの。私はそれまでの間、暗い霊安室を泣きながら何度も往復してるのにね」
親族の死に金が絡んでくるなんて、テレビの法律番組だけの世界かと思っていた俺にはショックな話だった。仮に、うちの親が死んだ時はひょっこり知らない親族が現れたりするのだろうか。どうしてそこまで金に拘るのか理解できない。人が死んでるのに。遺産なんて二の次だろう。
「人間なんてそんなもんだよ。人が死んでもお金が絡むと人が変わっちゃう。中には相続放棄しろ、なんて言い出した人もいたかな……」
本当にひどい話だった。親を亡くしたばかりの中学生に言う言葉とは思えなかった。
「ちなみに言うと私、それ以来お化け屋敷とか入れなくなっちゃって。あの時の、霊安室の暗闇を思い出しちゃうから……」
伊織は母の死を境に、その霊安室のトラウマから、暗闇でパニックを起こすようになってしまったのだという。怖いのではない。暗闇の中にいると、母を失った喪失感や悲しみが蘇ってしまい、自分を保てなくなってしまうと言うのだ。それ以降、伊織はお化け屋敷どころか、真っ暗の部屋では眠れなくなってしまったのだという。
「あれ? でも文化祭の時自分から入りたいって言わなかったか?」
「うん、そうなの。自分でも不思議だったよ。何ていうか……真樹君と一緒だったら大丈夫かなって、思えちゃって」
「それで……どうだった?」
文化祭の時の事を思い返してみたが、どちらかと言うと彼女はお化け屋敷を楽しんでいたように思えた。少なくとも、暗闇に対して恐怖を感じていたり、パニックを起こしていたりしたようには見えなかった。
「全然恐くなかったよ。こっちにくる前は、遊園地で彰吾や友達とお化け屋敷に入った時は泣いちゃったりもしたんだけど……不思議だよね。昔みたいに楽しめちゃった」
きっと真樹君の御蔭だよ、と彼女は微笑んだ。俺としては特別に何かやったわけでもないので、そんな言われ方をされても照れてしまう。「ごめん、話ずれちゃったね」と前置いてから、伊織はつづけた。
「とりあえず彰吾のご両親の御蔭でお母さんの遺産を守る事はできたんだけど、それからは何をやってても悲しかったし、お父さんも夜中にずっと泣いてて……彰吾も私を元気づけようと頑張ってくれてたけど、なかなか切り替えられなくて」
雪は深々と降り積もっていて、地面はうっすら雪で覆われ始めていた。彼女の肩にかかった雪を払い除けてから、耳を傾ける。ありがとう、と伊織は微笑んだ。
「そんな時、お母さんが夢に出てきたんだよね。それで、『いつまでもグズグズしてどうするの!』って叱られちゃった」
伊織は「そんな追い打ちかけなくてもいいのにね」と困ったように笑った。そして夢の最後──お母さんは伊織の頭を撫でながら、こう言ったのだと言う。
──私は伊織の中で、ずっと伊織を見守ってるから。
俺はその話を聞いた時、ただの夢だとはどうしても思えなかった。夢心理学や何かで、どうやってそれを説明できようか。ただ自分の願望が夢になって出ただけと言う人もいるかもしれない。それでも、それをただの夢とは言い切りたくないし、信じたくなかった。
「ちょうどお父さんも、その日にお母さんが夢に出て来て叱られたんだって。あの娘にばっかり苦労させてどうするのって。きっと、お母さんも見兼ねたのね」
くすっと彼女は笑った。
「それで、やっと立ち直って再出発。家事は一通りできたけど、毎日ってなると最初はやっぱり大変だったなぁ……」
たった十三、十四歳で家事を全てやるなんて、どれほど大変だっただろうか。俺には想像もつかない。
それから家事と学業を両立して高校に入り、母のいない生活に慣れてきた高二の初夏……再び悲劇は起こったのだった。今度はただ一人の家族、お父さんが不慮の交通事故で亡くなった。目撃者の話によると、青信号になってから発進させたお父さんの車の右、則ち運転席側にいきなり突っ込んできたらしい。原因は、相手側の飲酒運転だった。
再び、三年前の悲しみが彼女を襲った。どうして、運命とはこうも過酷なのだろうか。何も悪い事などしてない、平和で幸せな一家がたった二つの不運で不幸のドン底まで叩き落とされる。一体、彼女が何をしたというのだ。これではあんまりではないか。
「今回も彰吾達は助けてくれた。父方のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんもよ。だから、お母さんの時みたいにはならなかったけど──」
悲しい事には変わりなかった、と伊織は呟いた。
「でも、今回は泣かなかった。自分がどうするかっていう事も考えなきゃいけなかったし……というより、こんな現実を認めたくもなかったの。もう何もかもを忘れたかった。いっその事記憶喪失にでもなっちゃえばいいのにって真剣に思ってたくらい」
「…………」
「こんな事言うと引かれちゃうかもしれないけど……自殺も考えたりしたんだよ」
これは誰にも言ってないんだけどね、と伊織は苦笑いして言った。思わず、彼女を抱く手に力がこもってしまった。
何も言えなかった。彼女の持っていた傷は、俺なんかでは想像もできないほど重く、深かったのだ。
「でも、死ねなかった。この世界に未練があったというより……今、私が死んだら、お父さんとお母さんの存在もなくなっちゃう気がしちゃって」
「伊織……」
「もう、あの二人の痕跡は、私しかいないから。それに、そんな悲しんだまま私があっちに行っても、絶対に怒られるもん。だから……生きようと思ったの。全部まっさらな状態で、やり直したかった」
これが彼女が東京にきた理由だった。関西での辛い過去を思い出したくなかったから。本当は京都の父方の祖父母の家に引き取られるはずだったのだが、彼女はその申し出を断り、自分から望んで独り暮らしを始めたのだと言う。以前、両親と共に小学三年生まで過ごした実家で。
麻宮家が大阪に移った際、親父さんはその家を会社の後輩に貸家として使わせていたらしい。しかし、その父が亡くなり、今度はその後輩が伊織の父のポストとして関西に異動されたのだった。今、その家は伊織の持ち家となっているのだという。そうして、再び住む人がいなくなったあの家に、彼女は住む事を決めた……辛い記憶の無い町で、再スタートを切る為に。
そして、そこで彼女は俺と出会った。
「お前、そんなところ微塵も見せなかったじゃないか……!」
知らずのうちに、彼女の頭を強く抱き寄せて、自分の頭にくっつけていた。彼女の気持ちを想うと、どう言葉をかければいいのかわからない。ただ、泣きそうになってしまっている自分の感情だけを抑えつけていた。
「だから、再スタートなんだってば。ゼロから始めたかったの。悲しみも楽しみも、何も無い状態から」
彼女はそんな辛い過去と淡い希望を抱いてこっちに来たのに、可愛い子が転校してきたと言って浮かれていた自分が情けなくて堪らない。たまに見せるあの淋しそうな表情から読み取らなければならなかったのに。
「ごめん……俺、伊織のそんなとこに全然気付いてやれなくて……!」
「真樹君が謝る事じゃないよ。私が気付かれないようにしてきたんだし、彰吾や先生にも絶対みんなに言わないでってお願いしてたから」
ちなみに泉堂一家は、本社に申し出て関東に異動させてもらったという。自分達が伊織の親代わりになろうという気持ちなのかもしれない。小学生の頃、転校後にイジメられたという過去から心配だったのもあるだろう。それでも、いくら親友の子供だからって、自分達まで関東に引っ越してきたのだから凄い。彰吾に至っては、学校も変わっているのだ。彰吾の両親も、伊織を娘のように愛しているのだろう。
「それにね、さっきのお化け屋敷の事もそうなんだけど、真樹君って、とっても不思議なんだよ?」
「不思議?」
「何だかずっと前から知り合いだったみたいに親近感持ってたっていうか……初対面っていうより、やっと会えたって感じ……」
「え……?」
その言葉には驚いた。俺も初めて伊織と会った時、彼女に対してはそんな印象を持っていたからだ。
「俺も……同じだった。どこか懐かしくて、自分でも信じられないくらい早くに心を開いてた」
「ほんとに?」
「ほんと。ただ単に俺が惚れてるからそう思いたいだけだったのかもって思ってたけど……驚いたな」
「すごい……私達、本当にソウルメイトかもしれない」
「ソウルメイト?」
初めて聞いた言葉だった。
「前世から繋がりがある人の事を言うんだって。前世では恋人だったり親子だったり友達だったりするんだけど、再会した時は絶対にわかるって」
「じゃあ、俺たちが惹かれ合うのは、まさに天命みたいなもんだったりするのかな」
伊織は頷くと、俺の胸にもたれるようにして体を預けてきた。そんな彼女が愛しくて、そっと彼女の髪を撫でる。まるで子供をあやすように、優しく何度も髪を撫でた。
「ねえ……ずっと、一緒にいてくれる?」
その体勢のまま、彼女は言った。
「当たり前だろ」
出会って二か月と少し、付き合い始めて一時間程の奴等が何を言っているんだと通りすがりの連中から笑われるだろう。けれど、俺たちの時間は更に以前からあったのかもしれない。当たり前、とはっきり答えられる辺りから、その力の強さを感じた。例え俺達がソウルメイトで無かったとしたとしても、この二か月でそれと同等の価値ある時を過ごしたのだ。
本当のところ、ソウルメイトかどうかなんてどうでもいい。そうであったときてもなかったとしても、俺達の気持ちの強さに変わりは無いと思うのだ。
ただ同じように感じ、同じように惹かれた。それだけなのだ。
「真樹君、お願いがあるんだけど……」
「なに?」
「……泣いても、いい?」
最後の方はもう涙声になっていた。
「いいよ。好きなだけ泣きな。伊織はもう独りじゃないから。俺がずっといるから……もう我慢なんかしなくていい」
その言葉を合図として、彼女はおもいっきり泣き始めた。今までの種類とは違う涙。その泣き声から、彼女が今まで味わった孤独感や喪失感、そして何とも言い表せない慟哭が心に流れ込んできた。
きっと、何度も泣きたかったに違いない。たかだか三年の間に、両親二人共を亡くしたのだ。俺の想像を遥かに越えた辛さだろう。環境を変えたからと言っても、その悲しみを抑える事や忘れる事ができる程、人間の心は都合の良いものではない。
今まで、ずっと我慢してきたのだ。もう、伊織は苦痛から解放されてもいいよな? もう、悲しまなくていいよな?
俺は雪降る空へ問い掛けた。しかし、この冬一番の寒空は答えてはくれなかった。
伊織の苦しみを分かち合ってやる事すらできない自分自身が歯がゆくて堪らない。その歯がゆさを誤魔化すように、伊織の背中や髪を撫で、抱き締めてやった。
そして、神に誓った。二度と伊織がこんな涙を流さないでいい様に、彼女を守り通す、と……。
◇◇◇
既に時刻は、夜の十時を回っていた。もう夜半になるくらいは一緒にいたのではないかと思う程長く感じた。これは雪の魔力なのだろうか。それとも、魂の絆の力なのだろうか。
一瞬考えてから、そんなのどちらでもいいと思った。理屈ではこの気持ちを説明できない。世の中、科学だけでは理解できない事がたくさんあるのだ。
伊織の大泣きがすすり泣きに変わり、ようやく静寂な聖夜に戻った頃、彼女は言った。
「……もしかしたら、昔もこうやって真樹君の胸で泣いちゃったりしてたのかなぁ」
「そりゃ、こんなに泣き虫だったらそうだろうな」
「ひどい。泣いていいって言ったのに」
「まあ、そうだけど」
それにしても、と思う。彼女は昨日だって泣いていたし、今日に限っては何度泣いたかもわからない。ただ、逆を言えば、それほど彼女の心は傷だらけだったのかもしれない。ちょっとした衝撃でも、傷口が開いてしまうような……ズタズタに傷ついた心。この震える肩を癒すのが俺の役目だと思う。
「このまま時間が止まればいいのにね……」
「俺もそう思った」
そう言ってから、もう一度だけ軽いキスを交わした。それから互いに照れ笑い。何だかもう一度抱き締めたくなってしまった。
本当に、このまま時が止まってしまえばいいのに。でも、そういうわけにはいかない。時間は今も動き続けている。
「神父さんに挨拶しに行こっか」
頷き、紅茶の入っていた容器を持ってチャペルの中へと入った。中は夜にも関わらずとても明るく綺麗だった。祈りを捧げていた神父さんは振り向き、にこりと微笑んだ。
きっと伊織が泣いていた声も聞こえていただろうし、何だか気まずくなった。紅茶とホッカイロの御礼を言うと、神父さんはまるで全てがわかっていた様な穏やかな表情で頷いた。
「……年齢に関係無く、試練を乗り越えるのは辛い事です」
えっ、と俺達は顔を上げた。
「それでも、その試練を一緒に乗り越えてくれる人と出会えた事が、辛い試練を乗り越えた事による──神のお恵みなのかもしれませんね」
不覚にも、神父さんのこの言葉に何か感動を覚えた。一見矛盾しているようにみえて、とても深い言葉だった。まるで俺達の事を知っているかの様な、深さがある。神父ともなれば、人の中にあるものが見えるのだろうか。
「神の愛は常にあなた方に降り注いでいます。それを以てして、隣人を愛する事自体が我々の幸せなのかもしれません」
アガペーと隣人愛……キリスト教の原点だ。
俺は口に出さないが、こう思う。アガペー以上の愛を、伊織に送りたい。神が見捨てても俺は彼女の隣にいる。彼女の中だけでも、俺は神以上の存在になってやる。それは決意に近いものだった。
「あの、神父さん。一つだけお願いしてもいいですか?」
伊織が唐突に言うと、神父さんは私にできる事ならと頷いた。
「私達の写真を撮ってもらいたいんですけど……」
「ええ。構いませんよ」
伊織は御礼を言ってから、小さなバッグの中から、スマホを取り出して、神父さんに渡した。
「ねえ、真樹君」
「ん?」
「私、すごくツイてる」
「ツイてる?」
「うん。だって、今まで生きてきた中で、一番幸せな日、幸せな瞬間を撮れるんだよ? 最高の想い出だよ」
彼女が想い出に拘る理由が、ようやく解った。何気ない日々の想い出がどれほど大切かを彼女は身に染みてわかっているのだ。いつ消えるかもわからない〝今〟……それを形にして残しておきたいのだろう。彼女は心のどこかで、また自分が独りになる事への恐怖に怯えているのかもしれない。
彼女の言葉に頷きながらも、今日よりも、もっともっと幸せにしてやりたいと思っていた。
中央の輝かしい十字架の前で、俺達二人の写真が撮られた。まるで結婚式をも思わせるので、照れまくってしまったのは、ここだけの話だ。スマホを受け取り、もう一度御礼を言ってから帰ろうとした時、神父さんは独り言のように呟いた。
「メリークリスマス。あなた方に、神のご加護と永遠の幸せがあらんこと……」
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