6章・新しい関係
6-1.クリスマスイブ当日
遂にイブの朝を迎えた。夜は全く眠れなかったが、薄暗くなった朝方から三時間程眠れたので、まだ身体は楽だった。時計を見てから俺は怠い体を持ち上げ、とりあえず伸びをする。余裕を持って待ち合わせ場所に行くなら、そろそろ準備を始めなけれなならない。
先週、いや、一昨日の予想では、今日はわくわくして朝を迎えるはずだった。それがどうしてこんなに重い気分なんだろう。果たして彼女と会った時にまともに接する事ができるだろうか。
そんな事を考えながら顔を洗ってもやはり意識がシャキッとせず、そのままダラダラと着替えた。とりあえずジーンズを履き、上は白のカジュアルシャツを選んだ。上から羽織るものは、長めの黒のトレンチコートと決めている。このトレンチコートは、去年大ヒットしたドラマで俳優が着ていたのと同じもので、今年の春のバーゲンで入手したのだ。半額なのに二万もしたが、これを着るだけで芸能人みたいにかっこよくなった気分になる。いわゆる勝負服だ。今日に備えてクリーニングにまで出した。
それなのに……気分が全く浮かない。浮かれてくれない。昨日の帰り──公園で彼らに出くわす前──みたいに浮かれたまま、今日を迎えられたら、きっと幸せだった。
今は、ただただ怖い。時計を見ると、まだ十一時だった。待ち合わせは二時間後の午後一時で、行き先は電車で二駅先にあるショッピングモール。そこには巨大ツリーが設置されているため、情報誌やメディアでも騒がれていた。
ショッピングモール内には映画館もあるので、まずは彼女が見たがっていた映画を先に見てから店を見て回ろうと思っている。そして、予約した本格フレンチの店(とは言え、ペアで五千円の安いコースだが)で夕飯を食べて、二人でイルミネーションに包まれたツリーを見て……そして、告白。それが本日のおおよそのスケジュールだった。
細かい計画を立てて、頭の中で何度も告白までイメージを繰り返した。これからの明るい未来を想像して、昨日の夕方まではドキドキワクワクしていた。それが、その本番を迎えた朝がこの陰鬱加減である。
何度かスマホを見てアプリを開いてみるが、伊織から連絡はない。今は連絡がないことに安心していた。昨日の彰吾の告白を受けて「やっぱり今日はいけない」とメッセージが送られてくることも十分に考えられたからだ。もちろん、ドタキャンという可能性もある。正直なところ、それが一番凹むからやめてほしい。ドタキャンをされたら、俺は明日以降どんな顔をして伊織に会えばいいかわからない。年末にはライブもあるし、いろいろな意味で終わってしまう。
髪をセットする前に、バタンとベッドに倒れ込んで、昨日の事を思い出した。
伊織に長年の気持ちを伝えた彰吾と、それを拒んだ伊織。そして、俺は伊織の事を何も知らなくて、救えないという彰吾の痛烈な言葉。
夜が明けた今でも俺の心を抉る事には変わりはない。しかし、このままの状態で伊織と会うわけにもいかない。何とかして、気持ちを前向きにしなければいけないのだ。どんな結果になろうとも、今日という一日を素敵なものにしたいと思うのなら。
起き上がって一階に降りて、洗面台までいって、水を出す。その冷たい水を頭から被って、ついで顔も洗って、頭をすっきりとさせる。
──しっかりしろよ、麻生真樹。今日のためにお前は頑張ってきたんじゃないのか。
髪も顔も水浸しになった自分を鏡越しに見て、そう語りかける。
──思い出せ。悪いところばかり考えるな。それがよくないってことは、ここ数か月で学んだはずだ。
伊織とのこれまでのやりとりを思い出す。そして、昨日のことも細部まで思い出す。
伊織は俺の誘いを受け入れてくれた。しかも、一か月以上も前から、ずっと俺の誘いを待ってくれていた。自分から誘おうかとも考えたと言ってくれていた。昨日の彰吾の告白は、確かに予期していなかったことだ。しかし、思い出せ。彰吾は昨日、伊織に拒まれたのだ。
これらを鑑みれば、俺が落ち込む理由はないはずだ。確かに俺は伊織の事を知らない。過去に何があったのか、どんな悲しみや苦しみがあったのかも知らない。だけど、それは、これから聞けば済む事なんじゃないか。俺だって伊織が好きなんだ。彰吾よりも過ごした時間ははるかに少ないが、信の言う通り、好きだという気持ちに時間の長さは関係ない。
俺は彼女と一緒に、これからの時を生きていきたい。ずっと一緒にいたい。だからこそ、時計付きのフォトフレームを彼女に送ろうと思ったのだ。
深呼吸をして、もう一度水を被った。
──何を弱気になっているのだろうか、俺は。昨夜は、最も恐れていた彰吾の強い気持ちの告白に俺が動揺してしまい、更に夜の闇に飲まれてしまっていた。伊織の事を知らないから、俺には付き合う資格は無いという彼の言葉が突き刺さっていた。
しかし、その資格云々の話は、伊織自身が決める事だ。彰吾が決めるわけではない。知らない事がいけないなら、知ればいい。例えどんな過去があっても、受け入れて支えてやればいい。俺が強くなって、彼女を支えられるようになれば良いのだ。
本当に好きだからこそ、そうしてやるべきだと思えた。今の俺にできる事は、今日という日を、伊織にとって最高の一日にする事。そして、俺の想いをちゃんと伝える事。
伊織の返事がどんなものかはわからない。もしかしたら、昨日のことも相まって、振られてしまうかもしれない。ただ、その時はその時だ。そうなってから、考えればいい。ただ今は、自分にできることを精一杯やろう。伊織の心の中は、伊織にしかわからない。それでも、俺は彼女が好きだ。今日はその気持ちを伝える日で、それだけの日と考えよう。
そう考えると、気分が物凄く楽になった。一晩悩んだ意味がわからない。俺が悩む事なんて全てバカバカしい事なのかもしれないな、と苦笑が漏れた。
でも、心と身体は軽くなった。気持ちも少し前向きになれた。大きく伸びをしてからバスタオルで冷えた頭と顔を拭いて、もう一度鏡を覗き込む。鏡の中に写った顔は、心なしかさっきよりマシになっていた。
待ち合わせの十分前に俺は駅に到着した。先ほどコンビニで買ったエナジードリンクをぐびっと飲み干して、駅前の広場でぼんやりと周囲を眺めた。
まだ伊織は来ていないので、駅前の広場のオブジェにもたれかかった。ここのオブジェは、よく待ち合わせに使われている。普段は閑散としているこの駅前の広場だが、今日は待ち合わせをしている人が結構いた。今日はイブだ。デートの待ち合わせが多くて当然だ。見回してみると、ド平日だからか、学生風の男女が多い。みんなそわそわしながら恋人や恋人候補の異性と待ち合わせているのだろうか。
ひと組、ふた組とカップルが待ち合わせ場所から去っていき、余計に俺の心はそわそわしてくる。
クリスマスデートはもちろん初めてなので、待ち合わせだけでもすでに緊張する。それに、昨日の事もある。自分の中でいろいろ吹っ切れたつもりだったが、伊織がどう考えているのかわからない分、不安は拭い去りきれない。早く会いたい気持ちと、緊張とがせめぎあっていた。
あれから何度もLIMEを起動しているけども、メッセージはない。きっと、大丈夫だ。
そして一時──待ち合わせ時間ちょうどに、伊織は現れた。白のコートを羽織り、スカートにブーツを履いている。そして、両手で大事そうに紙袋を持っていた。
俺は彼女が来てくれた事に、とりあえず安堵の息を吐いた。
「おはよ! 待たせちゃった?」
伊織がいつも通りに声をかけてくれて、それだけで俺の心がぽかぽかと安堵で満たされていく。目が少し赤い事を除けば、いつもの天使の笑顔だ。
少し面白かったのが、伊織が俺に声をかけた瞬間、周りの男達の視線が、一斉に伊織に向けられた事だ。本人にその自覚はないみたいだが、彼女に向けられた視線は次に俺に向けられて、舌打ちをされる。
こんな可愛い子がいたら誰だって見てしまうのは当然だ。でも、それを今日は、俺が独り占めできるのだ。こんな幸せな事はない。
「待ってないよ。つか、今日はもう昼だから」
「あっ、そっか。いつも待ち合わせするのって朝だから、変な感じだね」
「確かに。あ、ところで昼飯食った?」
「うん!」
「じゃあ行くか」
伊織は頷きって二人で改札をくぐると、他愛ない話をしながら駅のホームへの階段を上がった。
俺は自分でも驚くほど普通に接せていた。彼女が来てくれた事が、それほど嬉しかったらしい。そして彼女もまた、いつも通りだった。まるで昨日の事などなかったかのように、普通に話してくれていた。冗談を言えば笑うし、俺の顔色がいつもよりよくないのを心配もしてくれた。とりあえず「緊張して眠れなかった」と冗談っぽく言ってその場は逃げ切った。返しにお前だって目が赤いぞ、と言いそうになったが、それはすんでのところで思い留まる。危うく空気が悪くなるところだ。
電車の中では、いつも通りの会話が続いた。クリスマスだからと言って、特別何かが変わるわけではない。いつもより少し周囲にカップルが多いくらいだろうか。そうして話していると、すぐに目的のショッピングモールへと辿り着いた。
ショッピングモールでは、ツリー目当てのカップルや子連れの家族が多かった。男同士や女同士で来てる連中もいたが、どこか浮いていて、嫉妬の炎がギラギラ燃え盛っている。去年の俺と信も、多分これに近かったのかもしれない。そういった連中を除けば、ここは幸せな空気に包まれていた。カップルも家族も、みんなが幸せそうだった。俺達もそんな空気を放てているのだろうか? 放てていたら嬉しいな、と思う。
「ねえ、荷物ロッカーに入れておかない?」
コインロッカーを見つけた伊織が提案した。確かに、こちらのは割れ物だからその方が安心だ。それに、実は少し重い。
「楽しみだなぁ、真樹君のプレゼント」
ぶつけないよう、慎重にロッカーに入れていると、伊織が子供のように無邪気な笑顔を見せた。
「俺だって、その紙袋の中身が気になるな」
手を伸ばして紙袋の中を見ようとすると、パシッと叩かれた。
「痛て!」
「だーめ。楽しみは最後に取っとかないと」
「ちぇっ。良いじゃんか、ちょっとくらい」
「だめなものはだめ」
拗ねる俺を見て、彼女は笑った。本当に恋人のようなやりとり。昨日の事なんてなかったかのように、彼女は接してくれていた。
しかし、まだ俺達は付き合ってもいないし、告白もしていない。今日の夜が勝負なのだ。そう考えると、何だか本当に緊張してきた。
「さっ、どこから行く?」
彼俺と同じロッカーに紙袋を入れると、伊織が笑顔で訊いてくる。
「じゃあまず、前に言ってた映画でも見に行く?」
言うと、彼女が元気よく「うん!」と頷いてくれた。
手を繋ごうかと思ったりもしたが、何だか照れ臭くなって、やめた。
映画の方は、伊織が『聖夜の奇跡』という邦画クリスマス純愛ストーリーを見たいと言ったので、それにした。
どうしてか理由を訊いてみると、
「イブに『聖夜の奇跡』を見るなんてすっごくロマンチックじゃない? それに、こういう映画って一人じゃ見れないし」
だそうだ。何よりその映画を今日この日に俺と見たいと思ってくれていた事が嬉しい。ただ、同じような事を考える輩は多いらしく、開演間近では入場口に結構な列ができていた。
まさか最後で破局するとかそんな演技の悪いストーリーじゃないよな? と一瞬不安になって、並んでいる時にこっそりスマホでレビューサイトを覗いてみたが、どうやらそういう結末ではないらしい。
列で待っている間、俺がジュースやポップコーンを買って来ようと思ったのだが、伊織が殿方は待っててと言い張るので、買い出しは彼女に任せてそのまま待つ事にした。
「お待たせ」
彼女が再び列へ戻ってくると、ありがとう、と礼を言ってポップコーン等を受け取る。こういうシチュエーションも良いかもしれない。
この映画館に入ってから特に思うのだが、周りの男からの視線が痛い。自分だって彼女連れのくせに、みなさんすれ違いざまに俺を睨み殺す気かというぐらい、恐い顔で睨んでくる。
それはきっと、俺の隣にいる伊織のせいで。今隣で映画のパンフレットを見ては無邪気な笑顔を見せている彼女はあまりにも可愛らしくて、愛しくて……こんな子を横に連れているのだから、多少怨まれても仕方ない。きっと今日の彼女は、世界一美しい──俺の主観補正かもしれないが、そう感じる。
映画の内容は、本当に純粋なラブストーリーだった。偶然出会った二人が互いに惹かれ合い、幾多の障害を乗り越えて、イブの日に結ばれるという感動モノ。ベタと言えばベタだ。きっと信と見ていたなら、二人して途中で帰っていただろう。しかし、何だか自分達と重なり合うところもあるので、最後の雪降る中ツリーの前でキスをするシーンでは、不覚にも胸にグッと来てしまった。
途中、無理矢理主人公二人が引き離されそうになった場面から、伊織はずっと俺の手を握っていた。俺は驚いて彼女を見たが、彼女は映画に見入っていて、どうやら無意識のようだった。俺もスクリーンに視線を戻して、そっと手を握り返した。
制作者スクロールが流れ始めても、すぐに退場する人は少なかった。みんな、感慨に浸っていたのだろう。エンディング曲も流れ終わり、ライトがついたところでようやく周りがざわざわと動き出した。
「……これにして良かったね」
伊織は目尻に涙を浮かべながら言った。俺は頷きながらも、彼女が一体どんな事を考えていたのかが気になって仕方なかった。
彼女は映画が終わってからも俺の手を離そうとしなかった。ショッピングモールを回り終わってレストランに行くまでの間、俺達の手はずっと繋がれたままだったのだ。これは、自信を持っていいのか。自信を持ってしまってもいいのだろうか。
その時、ふと半年前の失恋が脳裏をよぎったが、それを振り払った。
あの時とは違う。何もかも違う。あの時とは、相手も相手との関係も、告白する状況も、全てが違うのだ。
今日、ケリをつけるんだ。過去の俺とも、この中途半端な関係とも。
前に、進むんだ。そう誓って、予約しているレストランに入った。
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