穂谷信の苦悩②
信は自転車で家の駅近くにある個人経営の中華料理屋さんを尋ねた。
夕食時なので、客足も多そうだった。引き戸を開けてのれんをくぐる。
「いらっしゃいま……って、信かいな! 珍しいやん」
厨房の中から顔をのぞかせたのは、泉堂彰吾だった。ここは彰吾のバイト先で、彼はここの厨房スタッフとして働いている。
それを知ってからたまにここに通って飯を食うようにしている。ここの麻婆豆腐は美味いのだ。
「麻婆定食でええか?」
「おう! 辛めで頼むぜ」
「任せんかい。死ぬほど辛くしたるわ」
「それはやめろ」
彰吾は関西人だから、ノリがいい。ボケツッコミも上手い。信にとっては、真樹と同じくらい仲良くしたい人間だった。
「今日バイト何時までなの?」
彰吾が麻婆定食を運んできた時に聞いた。
「今日は九時までやから……あと一時間くらいやな」
「お、じゃあ待ってるから一緒に帰ろうぜ」
「ええで」
彰吾は親指を立てて、厨房に戻っていった。
彼は東京に越してきてすぐここでバイトを始めたそうだ。最初はフロアスタッフだけやっていたそうだが、最近は厨房も任されているらしい。そして、料理のセンスがあるのか、ここのレシピが良いのかはわからないが、大体美味い。今日も今日とて麻婆定食を信は楽しむのだった。
一時間後、彰吾が着替えて出てきたので、信もそのタイミングで会計を済ませた。そうして、二人で自転車を並べて走って帰る。
彰吾とは帰る方面が同じなので、お互いのバイトがない時はよくこうして一緒に帰るのだ。
「で、なんか用なんか?」
自転車で走りながら、彰吾が訊いてきた。
察しがいい。というか、わざわざバイト先まで来て一緒に帰ろうというのだから、察せられるのも当たり前か、と納得した。
「まあ、ちょっとな」
きぃ、と自転車を止めると、彰吾も合わせて自転車を止める。
「なんや?」
「いや、あのさ……」
信は、いささかこれを訊くのを躊躇っていた。ただ、訊かなければならないと思っていた。友達で、同じバンドメンバーなのだから。
「麻宮に、コクんの?」
彰吾が、目を見開いた。信は、彰吾がどういう理由でバイトを始めたのか、ある程度の理由は察している。麻宮にクリスマスプレゼントを買うつもりだろう。ただ、それでも……告白する事が、今の彰吾にとって正しいとは思えなかったのだ。
「……コクるで」
彰吾は少し迷った末に、そう応えた。
やっぱりか、と信は溜息を吐いた。
「本気か?」
「本気や」
「だよなぁ……」
信は頬を掻いた。
なんと言えばいいか、わからなかった。ただ、言うしかない。
「すっげぇ言い難いんだけどさ」
「なんや?」
「たぶん、その告白、失敗するぞ」
「…………」
彰吾は地面を見据えたまま、何も言い返してこなかった。
いつもなら、なんでやねん! そんなわけあるかい! とか言いそうだが、今回は何も言い返してこない。
「麻宮は多分、麻生のことが……」
「言うなや」
彰吾は信の言葉を遮った。
「そんなん、お前に言われんでも俺が一番よぉわかってるわ。何年一緒におるとおもてんねん」
「じゃあ、なんでだよ。あいつら、多分付き合うぞ」
今告白しても、お前が傷つくだけだろ、信はそう付け加えた。断られる事がわかっていて告白する事ほどつらいものはない。
信も過去、中馬芙美(なかまふみ)に告白した時、そうだった。
十中八九受け入れられるはずがない、とわかった上で告白した。告白した結果は、予想通りだった。ただ後悔しか残らなかった告白だった。
しかし、彰吾はそれを否定した。
「それやったら、なおさら今しか言えへんやろ」
「え?」
「あいつらが付き合ってからやったら、言われへんやん。そしたら俺は一生この気持ち抱えていかなあかんようになる」
確かに、と信は思った。彰吾の言い分ももっともだ。ただ、それはとてもつらいことだとも思った。
「小学校の時から一緒におるねんで? 家族包みで付き合いあって、伊織のために部活も地元の友達もほっぽり出してこっち来て……それで、何も言わんと一人で抱え続けるんは、さすがに俺もきっついわ」
「彰吾……」
いつもは明るくていつでも笑っている彰吾が、今とてもつらそうな表情をしている。
こんな彰吾を見たのは初めてだった。
そして、そんな彼を見て、親友の背中を押してよかったのか、自分の行動に自信を持てなくなってしまった。真樹も大切な友達だが、信にとっては彰吾も大切な友達だからだ。
(つっても、今更もう遅いか)
真樹には発破をかけてしまった。もう、賽を投げてしまった後なのだ。
「いつから麻宮の事好きだったんだ?」
「さあ、いつやろなぁ……」
「いじめから助けた時か?」
「なんや伊織、それ言うたんかいな。恥ずかしいから言うなっていうたのに」
「それで麻生はダメージ受けてたぞ」
「あ、それやったらええわ。ザマァ見さらせ、あのアホンダラ」
彰吾は中指を立てて冗談っぽく言って、二人して笑った。
「まあ最初から気になってたとは思うけどな。でも、言うほど最初からベタ惚れやったってわけでもあらへん。家族同士で休日も会ってたら、過ごす時も多いし、知らん間に好きになることもあるやん? 明確なキッカケってなかった気がするわ」
「幼馴染ってそういうもん?」
「そういうもんや。他は知らんけどな」
はあ、と彰吾は溜息を吐いた。
信も、なんとなく次の言葉が見つからなくて、黙っていた。
そこで、信は疑問に思っていた事を聞いてみる事にした。
聞けるとすれば、今しかないと思っていたからだ。
「お前はさ、なんでこっちきたんだ? さっきの口ぶりから察するに、麻宮のためか? 明らかに二人同時に転校っておかしいとは思ってたけど」
「まあ、そら不審に思うわなぁ。誰かからいつか突っ込まれるとおもてたけど。ただ、それは言えへん。すまん」
彰吾は頭を掻いて、気まずそうに目を逸らした。おそらく、彰吾の口からは言えない、という事なのだろう。
「俺がこっちに来た理由は、伊織のため……と思ってたけど、どうなんやろな。実際は自分のためかもしれへん」
「自分のため?」
「せや。俺が伊織と離れたくなかっただけなんかもしれん。
「すげえよ⋯⋯普通、女のためだけにそこまでの決断できねーよ」
信は素直に感嘆した。
彰吾の伊織を想う気持ちは、本物だ。自分もいつかこんなにも人を深く愛せるのか、その自信が彼にはなかった。
「
「まるでナイトだな」
「せやから最初の時、伊織のナイトやって言うたやん」
「そういえばそうだった」
言って、お互いに笑った。
転校初日の自己紹介のとき、彰吾は自身を伊織のナイトだと言ったが、まさしく彼は本当の意味でナイトだった。
姫君のために忠義を尽くす騎士。
最初は信もバカにしていたが、ここまでの想いと意志を持って伊織のために東京に来ていたのであれば、もはや尊敬に値する。
「まあ⋯⋯なんにせよ、そのナイトごっこももう終わりや。俺も次に行く為に一回終わらせんとあかんやろ。ずっと抱えたまま接するのもしんどいし、あいつらもそんなん嫌やと思うし」
やっぱり彰吾はいい奴だな、と思った。
真樹と伊織が付き合ってからの事も考えている。いや、どちらかというと真樹に気を遣ってるのかもしれない。
真樹のことをライバル視して認められないながらも、伊織の気持ちを尊重しようとしている。
男の迷いと決断をそこに感じた。
「俺な、今まで何回か伊織が誰かと付き合いそうになるの邪魔した事あるねん」
ああ、なんかちらっと今日そんな事も伊織は言ってたな、と信は思った。
今は口には出さなかったが。
「それはまあ、相手は気に入らんかったっていうのもあるし、その男のよくない噂があったり、伊織の事大切にしなさそうやったっていうのもあるんやけど……いや、まあ、嫉妬やったんかなぁ。なんで俺やないねんっていう。だっさいわ」
「麻生にはなんでやらなかったんだ?」
「さあ、なんでやろな⋯⋯いや、やらへんかったっちゅーか、でけへんかったんかなぁ」
「なんで?」
彰吾は寂しそうに笑って、また溜息を吐いてから、こう言った。
「だって伊織、麻生と話してる時めっちゃ楽しそうやもん」
彰吾の言葉を聞いて、信は胸がぐっと痛くなるのを感じた。
それを見るのがどれだけつらいかを、信もよく知っていたからだ。
その場面を見た時、狼狽して真樹とうまく接することができなくなってしまったのは、ほんの1か月半前の事だった。
「あんな伊織、見た事なかったわ。あんだけ積極的やった伊織も見た事なかった。これまでずっと一緒におって、初めて見た。こっちに来てから、そんなんばっかや。ああやって笑わせることなんか、全然でけへんかってんけどな⋯⋯」
「ああ⋯⋯それ、きついよな」
「中馬さんか?」
どうやら彰吾にもバレてしまっているらしい。それなら、今更隠す事もないだろう。
「まあな」
「ほんまに、けったくそ悪いやっちゃな、麻生は」
「全くだ。一回くらい本気でぶん殴ってやりてーよ」
「一回で足りるか。百発や!」
言って、お互いに笑った。
真樹のことは好きだが、同志は彰吾だな、と信は密かに思った。
「なあ、信。お前のこと信用してええか?」
「あん? なんだ、今更」
「これは絶対に本人に言わんといて欲しいし、眞下とか麻生に内緒にしてほしいねんけど⋯⋯でも、俺もいい加減一人で抱えるのしんどなってきたし、話したいねん。ええか?」
「ああ、もちろんだ。
「ほな、信用するで」
信は、彰吾の真剣な眼差しに、こくりと頷いた。
「ほんまはな、伊織、こっちくるまであんなんちゃうかってん」
「え? 性格がってことか?」
「いや、元の伊織の性格はあんなんやで? 引っ越す直前はあんなんちゃうかったっていうか⋯⋯難しいな、どう言ったらええんやろ」
「俺らには言えない事がある、みたいな感じか?」
「まあ、せやな。俺の口からは言えへん。でも、伊織は
「まじかよ⋯⋯」
転校してきた時期や彰吾とのセットで、伊織と彰吾、或いはその両親に何かしらの理由があったのは察していたが、そういう深い事情があるようには思えなかった。
信から見ていても、麻宮伊織は、普通の優しい女の子でしかなかったからだ。転校してきた当初を思い出しても、そんな状態だったとは思えなかった。
「向こうの友達ともな、めっちゃ頑張ってんで。伊織のこと笑わせよう、楽しませようって。でも、でけへんかった」
「⋯⋯⋯⋯」
「そんな伊織が、麻生と話してたら、すぐに元気になりよんねんで。ほんまに、自分の無力感と、麻生への嫉妬で気が狂いそうやったわ」
ガシガシ、と彰吾は頭をまた掻いたあと、大きなため息を吐いた。
「まあ、でも麻生の事嫌いやないしな⋯⋯あいつやったらええか、とどっかで思ってる俺もおるのも事実。というか、そういう伊織見てたらもうそう思うしかあらへんやろ」
男だなぁ、と信は思った。
負けを認めたくないはずなのに、ちゃんと認めている。
そこが、男だし、かっこいい。
「しっかし、ほんまにけったくそ悪いわ! なんやねんあいつ! 俺がどれだけ色々やってきたとおもてるねん。わざわざこっちに来たっちゅーのに! 地元の奴らにも『絶対に東京モンにだけは麻宮は渡すな』って何回も言われてたのに、どのツラ下げてあいつらに会ったらええんや!」
彰吾は再びガシガシと頭を掻きながら叫んだ。
先程のかっこよさがが台無しだが、彰吾の苦悩は計り知れない。
しかし、これが恋愛なのだ。ベクトルがかみ合わないだけで、相手への気持ちだとか、尽くした量だとか、そんなものは一切意味がなくなる。
彰吾にはどうしようもできなかったことを、真樹ならなんとかできる。ただ、それは愛情の深さとかではなく⋯⋯伊織が本能的にそう思って真樹を選んだ、という事だ。
そこに、伊織には罪はない。彼女は彼女なりに、自分の幸福を求めての事だろう。
ただ、それは同時に彰吾を傷つけることになる。
あまりに残酷で⋯⋯悲しい世界だった。
そして、それもまた、人の心や相性、運命なのだ。
誰かがその良し悪しを決めていいものではない。
信はそのようにも思うのだった。
「ただ、信には迷惑かけるかもしれへんな」
「なんで?」
「バンドのこと心配しとるんやろ?」
「ああ⋯⋯まあ、それもなきにしもあらずだけどな」
そういえばそうだった、と信は思った。すっかり忘れていたのだ。
「バンドは続けれる限り続けるで。どうなるかわからんし、迷惑かけるかもわからんけど」
「そうしてくれると助かるよ。できるだけこっちでもフォローするからさ」
「すまんな。まあ、でもせっかくバンド組めたし、バンドは好きやからな。もっとライブしたいねん」
「おう、俺もだ」
がしっと拳を合わせる俺たち。
もし、最悪⋯⋯最悪、Unlucky Divaが解散したら、彰吾と新しくバンドをやればいいか、と信は心の中で思った。
「せやけど、まだ俺は負けたわけちゃうで。ただの噛ませ犬で終わらせる気もあらへん」
「彰吾⋯⋯⋯」
「後悔せん為にも、やれる事全部やって、それで砕けたいんや。言えるだけの事言って、やれるだけの事やって……それで断られたらそれまでや。そうせんと、意味ないやろ」
言って、彰吾は自転車にまたがった。
もう話を終わらせたいのだろう。
そこでその話を終わらせて、信も自転車に乗って、家路へと着いた。
◇◇◇
彰吾と別れてからすぐ、マスターからLIMEが届いた。
『真樹のバイト、決まったよ』
それを見て、ようやく動き出したか、とほっと胸を撫で下ろした。
そして、同時に彰吾にとっては処刑台への階段ができたようなものだった。
(ほんと、世の中うまくいかねえよなぁ)
信は、何とも言い難い溜息を吐いた。
真樹の悩みと本心、彰吾の本音と苦悩、そして伊織の伏せられた過去となんらかの傷⋯⋯今日はあまりにも、人の深い部分に踏み込みすぎた。
話を聞くだけでも、心が重くなってしまう。
そのせいか、今日は溜息を吐く数が多い。
ただ、こういうのは、
そう、彼は自分に言い聞かせて、スマホの入力フォームを開いた。
『麻生の初出勤日、いつ?』
『テスト最終日から』
『了解、遊びにいくよ』
そうして、スマホを閉じた。
どうせだから、伊織も連れて、眞下も連れていってやろう。
そして初バイト中の真樹をからかって遊んでやるのだ。
機会を作ってやって、根回しまでしたんだ。しかも、バンドではケアもしなければならない。
これくらいはしてもバチは当たるまい。
そして、今日彰吾から聞いた話は、綺麗さっぱり忘れる。忘れて、またいつも通りおちゃらけに彼らと接する。それが、彼の役回りなのだから。
「俺って、損な役回りだよなぁ」
そうして、信は、最後にもう一度だけ、深い溜息を吐いた。
きっとこれからもこんな役回りを続けていくのだろう。
ただ、彼はそんな自分が、嫌いではなかった。
【番外編・穂谷信の苦悩 完】
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