5章・一度変容した関係はもう元には戻れない

5-1.勉強会

 文化祭翌日の放課後、俺は何故か自分の鞄以外に三つの鞄を持ちながら、教室から図書室へと向かっていた。テスト期間ゆえに、鞄の中には参考書や教科書等入っており、かなり重い。そして、三つとも女の子の鞄なので、可愛らしいバッチやキーホルダー等がぶら下がっているのがまた恥ずかしい。

 誰の鞄かと言うと、伊織と眞下、そして中馬さんである。彼女達とテスト勉強をしようと決めたまでは良いのだが、今週彼女達は掃除当番だった。俺が運び屋とならなくなったのは、眞下が掃除後に直接図書室に向かいたいと言い出したのが発端だ。そこで更に、俺が変な気を利かせて「鞄持って行っといてやろうか?」と言ってしまったがゆえ、今の状況ができてしまった。眞下が伊織と中馬さんに「麻生君がみんなの鞄持って行ってくれるんだって!」と伝えて(みんなの、とは言っていない)、それを聞いて「じゃあ、お願い」と二人からも鞄を渡されたのだった。

 女なら男に見られたくないものくらい鞄に入っているだろうに……信用しすぎだろう、と内心ぼやきながら図書室を目指した。俺がとーっても悪い奴で、鞄の中物色してニヤニヤしてたらどうするつもりなのだろうか。危険察知能力が無いと言うか、俺に男の野獣さが見受けられないのか、どちらにせよ溜息しか漏れない。


「やあ、麻生君」


 背後から突如名前を呼ばれた。この声はUnlucky Divaのギタリストこと神崎勇也だ。


「よぉ。どうした?」


 振り返ると神崎君はモップを持っていた。どうやら廊下掃除の当番らしい。


「いや、別にこれと言った用事は無いんだけど……麻生君こそ、その荷物どうしたの?」

「これか?」


 俺は三つの鞄を見て、溜息混じりに状況を説明した。


「モテてるんだね」

「何処がだ⁉」


 俺は豪快にツッコミを入れた。モテると鞄を持たされるは全く別次元の話で、これはただのパシリである。文化祭はもう終わったのだから、パシリ扱いも終了して欲しい。


「ある程度信頼されてないと鞄って男に持たせないと思うよ」

「そんなもんかな?」

「そんなもんだよ。例えば、それが信君だったらみんな渡さないでしょ」


 多少腕が痛くなってきたのを感じながら、少し考えてみた。言われてみればその通りで、信には渡さなさそうな気がする。信頼をされているのであれば、それは確かに嬉しい。


「ところで、昨日あれからどうだった?」

 神崎君が、にやりとして訊いてきた。

「あれからって?」


 俺は昨日神崎君が帰ってからの事を思い出そうとしたが、自分の勇気の無さと邪魔者が入った事くらいしか思い当たる事はない。


「ほら、クリスマスだよ。ちゃんと麻宮さんを誘えた?」

「……邪魔者が入ったせいで、あと一言が言えなかった」

「あぁ……なるほど」


 邪魔者というキーワードで彼も思い当たったようだった。


「誘うなんていつでもできるよ。頑張ってね」


 神崎君はそう励まし、廊下掃除を再開した。

 俺も「まあな」と生返事し、図書館へと再び歩を進めた。まあなと言ったものの、いつでも誘えるなら苦労しない。例えば昼休み、一緒に食べる時に誘おうかと思っていたら、伊織があの白河梨緒達のグループから珍しく一緒に食べようと言われたらしく、昼は別々に過ごす事になった。弁当だって今日から母の作ったものなので、彼女を無理矢理引き止める理由もなく、チャンスを失った。

 放課後にせよ、こうして眞下や中馬さんがいるし、そろそろ予備校にも顔を出さないとまずいので、下校時も二人っきりにはなれない。どう考えても今日誘うのは無理そうだった。こうなってくると、ズルズル行って誘えなくなりそうで恐い。

 図書室に着いた俺は、四人席を確保してから自分の鞄から数学の問題集を取り出し、演習問題に取り組み始めた。しかし、あまり集中できずにすぐに思考の渦に捕われてしまった。

 もちろん、俺が気に掛けるのは、白河莉緒のあの言葉についてである。何を以て彼女がそう言ったのかが知りたい。

 今日は教室内でも、相当気まずかった。目が合った時なんてお互い不自然極まりないくらいの目の逸らしようだったし、部外者でも異変に気付くかもしれないほど、互いに避けまくっていえう。

 ──ほんと、一体何なんだよ……意味わかんねーよ。

 一瞬そう思ってはハッとして頭を掻いた。式が二行目で止まっていたのだ。気を取り直して問題を解き進めるが、しばらくするとまた途中で手が止まる。

 コサインの累乗ってどうするんだっけ。答えしか書いてない手抜きの解説を読むが、単語が理解できない。どうやらド・モアブルの定理というものを使うらしいのだが、その定理がわからなかった。俺は溜息を吐きながら、教科書をペラペラめくるが、やはり載っていない。教科書に載ってない問題を演習でやらせるな、と憤慨しながらも、今度は参考書で調べ、ようやくアブラーム・ド・モアブル殿の名を見つけた。

 一問目すら解けていない状態なのに、学友達が掃除を終えたようで、ぞろぞろと現れた。伊織達は口々に鞄と席取りの礼を言い、座席に座って、それぞれの勉強を開始した。その時、伊織が自然に俺の横に座ったので、少しドキッとした。四人机が一気に女の子の甘い香に満ちて、変に緊張してしまう。

 この勉強会は逆効果なのでは、と思ってしまうが、そんな気持ちに反して、妙に幸せな気分になってしまうのも事実だった。浮かれかけている自分を叱咤激励し、更なる数学の問題に取り組んだ。

 実際四人でやってから解ったのだが、今に考えればこの人選は微妙だ。全員文系なので、得意科目が重なるのだ。中馬さんは英語と歴史科目が得意科目、伊織と俺は英語と国語、眞下は英語のみ……理系科目を教えられる人がいない。


「数学と理科はどうすんだよ……」


 全くもって補い合えていないではないか。これでは勉強会の意味がない。


「じゃ、じゃあ今日は麻生君が数学担当ね」

「いや、俺苦手なんだけど」


 俺は伊織の方を向き、数学担当交代を視線で求めた。


「でも、私も苦手だし……」

「あたしも数学は無理」


 伊織と中馬さんが口々に答える。眞下……は論外か。


「……ちょっと。何でこっちだけ見ないのよ」


 俺の思考を読み取ったのか、早速眞下が不平不満を訴えてきた。


「いや、だって一番苦手そうだから」

「どうして決めつけれるかなー……確かに苦手だけど」

「やっぱ苦手なんじゃねーか」


 俺は溜息を吐き、わかったよ、と承諾した。


「ただ、俺だって解らないとこ多いんだから答えれなくても文句言うなよ。あと、明日もやるんなら誰か理系連れてきてくれよ」

「理系の友達ねぇ……芙美はいる?」


 中馬さんは首を横に降った。伊織もまだ転校してきてそれほど間がないので同様だ。

 理系の友達を思い浮かべてみるも、そもそも友達が少ない。そういえば、情報科に数人話せる程度の奴らがいるので、そいつらに頼めば何とかなるかもしれない。できればもっと親しい奴が良いのだけれど。


「……あ。ねえ真樹君、神崎君って普通科だけど、理系って言ってなかった?」


 伊織の言葉にハッとした。確か神崎君とそんな会話をしたような記憶が僅かながらある。


「ウッソー⁉ 神崎君ってあのギターの人だよね⁉」

「うん」


 久々に聞いた、眞下の『ウッソー⁉』。


「あたし昨日初めて見たんだけど、ファンになっちゃった。絶対連れてきてよね!」


 俺は苦笑しながらとりあえず頷く。眞下のこの反応を見てからでは、彼女がいるから無理かもしれない、とはさすがに言えなかった。


 ◇◇◇


「真樹君、この複素数の問題解ける?」


 勉強を開始してから一時間程経った頃、伊織は問題集の発展問題を指差した。


「ああ、それか。一応な」


 ちょうどさっき悪戦苦闘して解いた問題だ。明らかに入試レベルではあるが、この問題に限っては教えられる。


「z=a+biに置いたらz-wが出せるだろ?」

「うん、それはできたよ。二乗するんだよね?」

「そう」

「その後なんだけど……」

「aの二乗+bの二乗=36だから、さっきのz-wの二乗から出したbを代入すれば、aが出せる」

「あっ、そっか。それでzが二つ出るんだね」

「そ。あとはそこの式にあてはめて、ド・モアブルの定理とやらを使えば出る。ちなみにド・モアブルって教科書には載ってないみたいだから、この参考書使って」


 俺はド・モアブルの定理の説明が書いてある箇所を広げてやり、伊織に手渡した。さっきこの問題やっといて良かったな、とつくづく思った。これで面目は保たれた。


「あ、麻生君が何か宇宙語喋ってる……」


 対面にいた眞下が呆然と俺達を見ていた。


「宇宙語って……まあ、確かにその次に直線PQとORの方程式からHを導き出すのは、数学嫌いの俺には理解するのにちょっと時間かかったけども」


 答えしか書いていない解説書と睨めっこして戦っていた時がついさっきもあったのだ。


「あ、麻生君って頭良いんだねー」


 眞下が尊敬の眼差しで俺を見る。


「いや、だから──」

「麻生君がそんなに数学できるなら、さっき言ってた……神崎君だっけ? 無理して来てもらわなくてもよくない?」


 別に頭が良いとか悪いとかの話じゃなくて、と反論しようとした時である。中馬さんがとんでもない事を言った。


「か、勘弁してくれ。さっきの問題はたまたま先にやってたから教えれたけど、例えばこの発展問題の三番なんか初見じゃ絶対無理だから。それに、生物とか化学だってマジでわかんねーし」


 さすがにそこには反論した。何でもかんでも流されて承諾しているわけにもいかない。人間には無理な事がたくさんあるのだ。

 結局何とか逃げ切る事ができて胸を撫でおろしたが、何だか不思議な気分だった。こうやって何人かでテスト勉強をやって、しかも俺以外はみんな女の子で……こんな経験初めてなのに、何だかとっても自然だ。


「どうしたの?」


 俺が何か悩んでいる様に見えたのか、伊織がこちらを見ていた。


「いや、不思議だなって思って」

「不思議って?」

「いや、だってさ……俺等って話す様になったのここ数か月の間だろ? それなのに自然に勉強会とかしてるしさ……何か変な感じだよな」

「そう言われてみると、そうだよね。これまで殆ど喋った事すらなかったし……」


 中馬さんも今頃気付いた様に頷いた。


「確かに前は信くらいしか外国語科男子って交流なかったけど……まぁ、良いんじゃない? ビシッとした理由は無いけど、仲良くなってマイナスになるって事も無いっしょ?」


 眞下がそれに続いて行った。彼女がそう言ってから笑った顔が、可愛く思えて、そして彼女のその言葉に俺はとても安堵したのだ。俺は別に嫌われているわけじゃなさそうだと、この三人に関しては確信が持てた。

 ちなみに仲良くなれた理由であるが、麻宮伊織の存在が大きいと俺は思う。彼女と知り合ってから俺の中に変化が生じ、そして周りも変わって行った──そう感じるのだ。その伊織は、眞下の言葉にうんうんと嬉しそうに頷いていた。

 本当の事を言うと、三人に白河から言われた事について相談しようか迷っていた。しかし、その為には振られた事も話さなければならず、やはり気が引ける部分もある。その話はできれば言いたくない。

 しかし、もうそんな事を聞く必要も無い事がわかった。少なくとも、ここにいる三人は白河とは違う。それがわかっただけで、俺の精神状態は随分と楽になった。

 今日の勉強会はそれだけでも十分過ぎる程有意義だ。

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