4-10.昔好きだった人からの罵倒

控室から更衣室までの道のりで、中馬芙美と偶然逢った。目が合ったので、軽く会釈を交わした。


「ライブ、良かったよ」

「え? 見てくれてたのか。ありがとう」


 会話には発展しないと思って油断していたら、何と彼女も一応俺達のライブを見に来てくれていたようだ。きっと、眞下に連れられて仕方なしについて来た、という感じなのだろう。

 本日の中馬さんは、昨日の様なオトナの色気を醸し出す髪形ではなく、普段通りに前髪はクリップで止め、うなじも見せてはいなかった。


「もう前髪降ろさないの?」

「えっ……だって邪魔だから」


 彼女は少々戸惑いながら、でも恥ずかしそうに言った。


「そ、そっか。俺もその気持ち解るよ」


 自分の前髪を弄って場をごまかした。思った事を言っただけでそんな表情をされると困る。


「ライブの感想は?」

「え? だから今『良かった』って言わなかった?」

「それだけ?」


 中馬さんは少し考え込み、それだけ、と答えた。俺の膝がガクッと折れる。


「だって、あたしライブとか行かないから」


 詳しい事はわからないよ、と眉根を寄せて言う。

 普通の高校生はフェス等を覗けば、ライブにはなかなか行かないし、そんなものなのかもしれない。こういう事を鑑みると、やはり俺がボーカルやらなくて良かったと思うのだ。きっと信と一緒に趣味全快のコアな音楽を奏でて、今頃学校中から白い目で見られていただろう。信が企画モノを思いついてくれて、本当に助かった。


「あ、そういえば……」


 中馬さんの顔を見て、不意に思い出した。明日から一週間、テスト勉強に打ち込まなければならないのだった。


「なに?」

「いや、期末が近い事を思い出した」

「……あたしがテストみたいな顔してるって事?」

「い、いや、そういうわけじゃ……」


 テスト勉強をやっていそうな人が他にいないから、妙にそこが強調されてしまっただけであるが、そんな事は恐ろしくて言えやしない。


「麻生君は勉強してる?」

「してるわけないだろ。ここ二週間は全部文化祭に費やしたからな……範囲すら知らない」


 テスト範囲を張り出した時、『文化祭で大変だとは思うけど、ちゃんとテスト勉強もしなさい』という担任の無責任な言動が脳裏を過ぎる。生徒に勉強して欲しいなら、文化祭と期末の間隔をもっと空けろといいたい。


「明日、範囲教えてあげるよ。勉強会するんでしょ?」

「ああ、そういえば……じゃあ、その時頼むよ」


 昨日の帰り、眞下と伊織が徒党を組み、何故か知らない間に勉強会の話が出来上がっていたのを想い出した。勉強なんて一人でやるものだと思っているので、一緒に勉強しても効果が上がるとは思えなかったが、決まっていては仕方ない。とりあえず、信や彰吾だけは加えないようにしよう。あいつ等が居ては邪魔ばかりされて赤点フレンズの仲間入りをしてしまう。明日の事を想うを、大きな溜息が出てしまった。


「あ、着替えに行くんだよね。足止めしてごめん」

「いいよ。じゃあ、またあとで」


 何やら溜息の意味を勘違いしてそうだが、わざわざ弁解するのも変なので俺は軽く手を振り、再び更衣室へと向かった。


 せっかくライブが終わって一段落ついたというのに、問題というのは途切れてくれないらしい。俺は再び控え室に戻りながら、ムカムカと腹の中を支配している怒りに自制を訴えていた。

 それはほんの数分前の事だ。着替え終わった後に更衣室の扉を開けた途端、けたたましい音が体育館地下に響き渡って、反射的に目を瞑った。目を開けて何があったか確認して見ると、俺は息を詰まらせた。そこには女の子が一人と、楽譜や楽譜立てが地面に数本散らばっていた。これ自体は大した問題ではないのだが、その女の子が白河梨緒だったのだ。彼女はこちらに気付いた様子もなく、慌てて屈んで楽譜を拾っていた。

 散らばっている分量から見て、小柄な身体にそぐわないくらいの分量を一気に運ぼうと思って落としてしまったケースだ。手伝わないでスルー……というのも気が引けたので、楽譜立てと楽譜を拾っていく。正直、胃に穴が開く様な気分だった。

 桜高の文化祭の閉会式では、吹奏楽部が演奏する。白河は吹奏楽部なので、その準備で音楽室から運んでいる途中だったのだろう。トントンと楽譜を揃えてやり、彼女に手渡した。


「あ、どうもありが──」


 白河は笑顔でお礼を言おうとしたのだが、俺と正面から目が合うと途中で凍りついたように固まり、慌てて視線を逸らした。気まずい沈黙の嵐に襲われるが、今更逃げ出すわけにもいかない。溜め息を吐いて、横に立てたままの二本の楽譜立ても、彼女の空いている方の手に差し出す……が、彼女の小さな手ではこれ以上持てそうになかった。


「手伝おうか? 一人で持ってくの無理だろ」


 自分でも何を言ってるんだと思ったが、この状況を見て見ぬふりもできなかった。下心があるとか、まだ好きなのかと勘違いされる危険性もあるのだが、そんな未練は皆無だ。もう夏休み中に気持ちの整理はつけたつもりであるし、今は伊織がいる。今更白河梨緒とどうこうなるつもりは全く無い。


「……一人で運べる」


 白河はうつむいたまま言った。どんな表情をしているのかは全く確認できない。


「そ。じゃあ、気をつけてな」


 それも当然かと思い、俺は楽譜立てを置いて踵を返して立ち去ろうとした時──背後から、いつもよりやや低い声でぼそっと呟く白河の声が聞こえた。


「……あんまり調子に乗らないでよ」

「は?」


 意図がわからず、俺は振り向いた。彼女はまだ下を向いたままだった。


「何か言ったか?」


 大体何を言われたかは聞き取れていた。しかし、万が一俺の聞き間違いだという事も有り得るので、一応訊き返してみた。いや、聞き間違いだと信じたかったのだ。


「あんまり調子に乗らないでって言ってるの……!」


 その言葉に俺の希望は脆くも打ち砕かれた。彼女は俯いたままなので、表情は伺い知れない。


「いや……お前、何言ってんの? 俺は別に調子に乗ってるとかそんなつもりは全くないんだけど?」


 冷静に、冷静に接した。相当頭にきたが、ここで怒鳴っては何の解決にもならない事くらいわかっていた。せめて理由だけでも聞き出さないと話にならない。


「そう思う理由、教えてくれないか?」


 しかし、彼女はこちらの問いには答えず、再び黙り込んだ。


「おい、何とか言えよ。何の勘違いしてんのか知らねーけどよ」


 沸々と沸き上がる怒りを必死で抑えながら、冷静に言葉を並べる。


「勘違い……? 勘違いしてるのはそっちでしょ⁉ 人気者にでもなったつもり?」

「いや、だからそれが意味解んないんだっつの。どっからそう判断したわけ?」


 そこで彼女は言葉を詰まらせた。

 怒るな、怒鳴るな、と呪詛のように繰り返して自分に言って聞かせ、ゆっくりと深呼吸して気を落ち着かせる。喧嘩がしたいわけじゃない。誤解があるのなら話合って解決すれば良い……そう思って自分を律していた努力など、彼女の吐き捨てた言葉により全く無駄となった。


「誰もあんたを好きになったりなんてしない。あんたが嫌われてる事に変わりは無いんだから!」


 白河は楽譜立てを引ったくる様に取り、そのまま走り去った。不安定な体勢だったので、途中転びそうになっている。俺は一時呆然と立ち尽くしたが、我に返ると再び控え室に向かって歩き出し、それが今に至る。

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