4-5.問題だらけな文化祭1日目

 それから暫くの間、伊織は俺の腕の中で泣いていた。その長い髪を優しく撫でながら、俺は彼女の頭越しに飛び行く二羽の鳥を眺める。その白い鳥がまるで俺達を見守っているかのように頭上を舞っていて、天使のような羽根を落とした。その羽根は風に揺られたまま、屋上の彼方へと吹き飛んで行く。

 伊織の両肩を掴んで身体を離すと、彼女が俺を見上げてきた。彼女の大きな瞳は今もまだ膜が張られていて、頬を涙が伝う。泣き濡れた顔を両手で包んでその涙を拭ってやると、彼女は「ごめんね。ここ、濡らしちゃった」と言って、俺の胸あたりを指差した。そこには彼女の涙が浸みた跡がくっきりと残っていたが、「別にいいよ」と首を振る。

 それにしても、今日の俺はかなり我慢強かった。本当は彼女の体をもっと強く抱き締めて、頬にも唇にもキスして想いを叫びたかった。

 でも、今はまだ言うべきじゃない。彼女の事を大切に思うなら、今ここで勢いに任せて言うのは、フェアじゃないと思うのだ。もっと然るべきシチュエーション、然るべきタイミングで伝えたい。それこそが誠実だと思うのだ。


「好きなだけ濡らしてくれていいから」


 想いを伝える代わりにそう言ってやる。すると、彼女は『お言葉に甘えて』とでも言うかのように額を俺の胸に当てて、猫が甘えるように、ぐいぐいと押してきた。レンタルのワイシャツでしっかりと涙を拭いて、すんと鼻を啜り上げてから、はあ、と溜め息を吐いた。


「真樹君の腕の中って、あったかくて、とっても安心する」


 そう言って、伊織は照れ臭そうに笑った。

 お前にならいつでも貸してやるさ、とでも言ってやればよかったのだけれど、結局俺は何も言えなかった。まだ伊織と出会って一か月半ほど。そんなに急ぐ事じゃない。まだまだ時間はたっぷりあるのだから、もっと伊織の信頼を得て、彼女が全てを打ち明けて寄り添っていたいと思えるようになってからでも良いのだ。


「もう、戻らないといけないよね……」


 伊織がぽそっと名残惜しそうに言う。


「まあ、さすがにそろそろな」


 時間的には、もう完全にアウトだ。昼食の時間を越えているので、きっと茶屋の方に人が回ってきているだろう。


「もうちょっとだけ……」


 消え入りそうな声で、伊織が言う。


「もうちょっとだけ、こうしてていい……?」


 その質問に応えるように、彼女をもう一度抱き締めてやると、彼女はさっきみたいに胸に顔を埋めて、俺の背中に腕を回した。

 時間にして言えば、ほんの少しの時間。きっと五分にも満たない時間だけれど、それでも、そのほんの少しの時間を両手から一粒も零さないように、ただ彼女を抱き締めていた。その温もりと香りを感じて、ただ頭を撫でてやった。

 その涙の意味も、重さもまだ俺はわからないけれど……いつか、その悲しみも涙と一緒に拭い去ってやる──空を舞う白い羽根を眺めながら、そう決意した。


 文化祭一日目が終わり、軽く片付けを終えた後は、クラスで打ち上げをするらしい。これから騒ぐ元気も無かった俺は、辞退するつもりだった。

 伊織と共に教室に戻ってからも、茶屋の方は多忙を極めた。俺としてはもう精魂尽き果てた状態だったのに、そこからの激務である。もう身心ともに疲労困憊で、早く帰りたかったのだ。

 俺達の一時離脱に関しては、伊織が少し体調を崩したらしい、と信が機転を利かせてくれたお陰で、何とか問題にならずに済んだ。

 とりあえず早く帰宅して、今日あった事を忘れてしまうくらいにまどろみの中へと身を任せたかった。でないと、明日のライブにまで影響が出てしまいそうだったのだ。

 しかし──


「みんな来るんだから来てよ!」

「空気読めー!」

「みんなも麻生君に来て欲しがってるんだから」


 打ち上げ辞退を申し出た時に言われた言葉がこれである。結局信からも参加を説得され、俺の辞退は受け入れられなかった。

 どうして俺に来て欲しいのか、理解不能だ。数か月前までは煙たがっていたくせに、短期間でどうしてそうも変わるのか。ただ、誘われる事自体は悪い気もしない。結局俺は、一次会だけ参加する事にした。

 俺達二年の外国語科一行は、制服に着替えてからぞろぞろと信が予約したファミレスへ向かった。この時期だとファミレスは『打ち上げ禁止』という紙が張られているところが多いのだが、信が片っ端から電話をかけて、打ち上げOKの店を探し当てていた。こういった事に関して、本当に信は手際が良い。

 ファミレスの次はカラオケの二次会へと続くらしいので、そこで何とか逃れなければならない。一次会だけなら七時には解放してもらえるだろう。


「あれ? 結局来たんだ?」


 道中、伊織が俺を発見して意外そうに言った。ちょっとだけ嬉しそうに見えた気がしなくもないが、きっと勘違いだろう。

 教室に戻ってから、俺達は至って普通だった。何時間か前に屋上で抱き合っていたなんてとても思えない。少し安心したような、がっかりしたような……微妙な気分は拭い去れない。


「まあ、二次会は行かないけど」

「私も。二次会行かない子多いんじゃないかなー……中馬さんも行かないって言ってたし」

「へ? ってか中馬さん一次会来るの?」

「いるよ? ほら、あそこ」


 少し前の集団の中で、眞下詩乃の横にいる女の子を指差した。暗くてよくわからなかったが、確かに中馬さんだ。こういった集まりは嫌いなのかと勝手に思っていたが、彼女も眞下から無理矢理参加させられた口だろうか。

 ただ、たまには浮かれた雰囲気も悪くないな、と思ってしまう自分もいた。祝勝会とか打ち上げとか、そういった華やかな場面とは無縁な人生を送ってきた。おそらく伊織と出会っていなかったら今も経験していなかったと思う。

 その伊織は他の友達に呼ばれて、彼女と入れ替わるように信が横に並んだ。にやついた笑みを見せてきて、ちょっと鬱陶しい。


「……なんだよ」

「いんや? 昼は麻宮とどうなったんだよ。ちらほら会話してるみたいだから、仲直りはできたのか?」

「まぁ……」

「その割になげー休憩だったよなぁ。何してたんだ?」


 こちらを覗き込んでくる信。無意識のうちに目が泳いでしまう。


「別に何もしてねえよ」

「言い訳を考えてやった俺様は、知る権利があると思うのだがなぁ? 何だったら、今ここでその言い訳が俺のでっち上げた嘘だったと言ってやってもいいのだが?」


 下卑た笑みを浮かべて、伊織と俺を見比べてくる。くそ、こいつめ。脅迫するつもりか。


「いや、ほんとに……和解してただけだって」

「ほぉー? 戻ってきた時、麻宮の目赤かったぞ?」

「寝不足だったんじゃねーか? そんなの知らねーよ」


 信をちらりと見ると、面白い玩具を発見した子供のような顔をしていた。大概、俺を玩具にする時にする顔である。


「そういや、お前の胸元にも微妙な浸み跡あったよなぁ」

「ぐっ……」


 全く、こいつの観察力と洞察力は本当に恐ろしい。探偵の助手なんかをやると成功するに違いない。


「そ、そうだったか? 何か零したのかもな。レンタルなのに。いやー、クリーニング出さないとな。あはあは」


 もはや信の方を見て返事ができない俺である。狼狽しつつある俺の変化を見逃さなかった信は、更に畳みかけてきた。


「その浸み跡、ちょうど麻宮の目の辺りじゃなかったか?」

「そ、そう? そりゃ偶然だなぁ。ははは」


 卑しい笑みをこちらに向けているのは見るまでもなくわかった。どこまでこいつは洞察力が優れているんだ。


「ほぉ~。で、チューしたか?」

「するかぁッ!」


 とりあえず反論すべきところは反論しよう。激しく事実に反しているところだけを否定して逃げるしかない。


「かっかっかっ。そいつは残念。したら教えろよ~!」


 そう言って、俺の拳が届かない距離まで走って逃げる信。俺だけでは飽き足らず、今度は眞下と中馬さんにちょっかいを出しに行くようだ。

 そんな信を遠くから眺め、あいつは悩みが少なそうでいいな、と溜息を吐いた。

 チューは置いといて、伊織は一体、さっきの事をどう思っているのだろうか。きっと、手を繋いだ時よりも、頭を撫でてやった時よりも俺達は近付いていて、これまでで一番距離を縮めたはずなのである。

 伊織にとって、あれは事故のようなものだったのだろうか。友達と楽しそうに笑い合う彼女の横顔からは、その本心が未だ読めなかった。

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