4-4.初めて見た彼女の涙

 途絶える事を知らない困難に舌打ちしながらも、伊織を探して校内を駆け回る。

 中庭の食事系模擬店、一号館と二号館のクラスの出し物、体育館や三号館、そして情報棟や部活の出し物……大体全部回って見たが、伊織の姿はない。

 広い上にいつもより人が多いので、たった一人の人間を見つけ出すのは困難を極めた。教室に戻ったのかとも思って信に電話をかけてみたが、やはりまだ戻っていないという。帰ったかと一瞬思ったが、その考えも打ち消す。浴衣のまま帰るわけがないし、彼女はそんな無責任な事をする人間ではない。となると、もう残っている場所はあと一つしかなかった。あそこにいなかったら、もう俺もお手上げだ。

 確信に近い感情を持って三号館の階段を上がるが、足取りがいつもより重い。見つけたとしても、全く話してくれなかったらどうしよう……そんな不安があった。

 緊張してドアノブを握って屋上の扉をあけると、そこには赤い浴衣を着た髪の長い少女がいた。彼女は屋上の網に手をかけ、ぼんやりと遠くを見つめている。太陽は見えているが、以前二人で最後に昼食を食べた時よりも遥かに寒い。


「……寒くねーか?」


 俺は先ほど教室でかけた質問をもう一度投げかけてみた。


「うん……大丈夫」


 こちらを見ないでさっきと同じ返事をする。予想以上に機嫌が悪そうだ。それに、きっとその言葉は嘘だろう、とも思う。いくら下に何か着込んでいたとは言え、十一月も終わりのこの時期に、屋上で浴衣姿……寒くないはずがない。そして何より、よく見ると網を掴んでいるその手は小刻みに震えていた。


「中馬さんは?」

「もう戻ったよ」


 伊織は黙ったまま頷き、やはりこっちを向こうとしなかった。木枯らしが彼女の長い髪をなびかせている。

 参ったな、と心中溜め息を吐いた。

 伊織がここまで機嫌を悪くした事は過去に無かった。彼女は心優しい性格なので、不快感を示す事はほとんど無い。以前に中馬さんとLIMEを交換した時も不機嫌だったが、今回はそれ以上だ。


「あのさ、前にも言ったけど、別に中馬さんとは何も無いから。ただの友達っていうかさ」

「うん……解ってるよ」


 さっき『力になるから頼ってくれ』と中馬さんに言ってしまった自分を咎めたくなるが、あの気持ちにも嘘は無い。別に二股をかけているとかそういう意味ではなくて、俺は純粋にそう思っただけだ。恋人を亡くした友達に少しでも早く立ち直ってもらいたい。それが俺の本心だった。

 しかしながら、何故俺はこんな言い訳がましい事を言ってるのだろうか。確かにこれは言い訳ではなく事実だ。事実だが、伊織に関係無いと言えば関係無い。だって俺達は……付き合っているわけではないのだから。

 じゃあ、俺と伊織の関係って一体何なのだろうか?

 今まで感じなかった疑問をふと思った。俺達は友達なのか、それとも恋人なのか。後者でない事は確かだ。俺も彼女も、互いに愛を語ってはいない。しかし、友達と言われてもピンと来ない。俺は伊織を友達として見た事が、多分無いからだ。

 考えてみればよくわからない関係だった。彼女はどう思っているのだろう? 俺の疑問をよそに、伊織は続けた。


「でもね? わかってるけど不安になっちゃうの。真樹君はみんなに好かれてるから……私なんかが隣にいていいのかなって」

「いいも悪いも無いだろ。それに別にみんなから好かれてないし。現にあのクラスに馴染めたのだってつい最近で、伊織が転校してくる前までの嫌われようと言ったら今じゃ想像もできないくらい酷かったんだから」


 俺は慎重に言葉を選びながらそう答えた。正直、一瞬ムカッとしたのは事実だ。『私なんかが隣にいてもいいのか』って、一体どこからそんな言葉が出てくるのだろうか。それなら、誰なら隣にいていいというのだ。

 俺は伊織に居て欲しいと思っている。確かに言葉で明確に好きだとはまだ言えていない。隣に居てくれとも、もちろん言ってない。しかし、態度ではそう示していたつもりだった。他の女の子と伊織を同列に扱った事なんて無い。中馬さんは、確実に『友達』である。これは言い切れる。でも、伊織は違う。最初から、初めて目が合った時から、伊織は俺の中で特別な存在だった。それなのにこんな言い方をされてしまったら、いくら好きでも少し頭に来る。

 やはり言葉にしないと気持ちは伝わらないのだろうか? 俺よりも彼女から程遠い奴等は勇気を出して告白しているのに、近くにいる俺は何も言えないでいる。

 いや、近くにいるからこそ言えないのか。単純にこの距離が失われるのを恐れてる。今年の初夏のように──好きでいる事すら許されなくなる事を、何よりも怖がっているのだ。


「大体それ言い始めたら、伊織だってみんなから好かれてるじゃないか。俺よりよっぽど好感度高いだろ?」

「私のと真樹君のは少し違うから」

「何が違うんだよ」

「……気持ちの重さ。真樹君を好きな人達って、みんな真剣だと思う」


 それもよく解らない。中馬さんは俺が好きなのではなく、ただ心配しているだけなのではないだろうか。確かに少なからず俺を想ってくれてるのかも知れないけれど、恋愛云々では無いと思っている。それに、好きな人〝達〟って誰だ? 他に誰が俺を見ていると言うのだろうか。

 それを言うなら、伊織を好きな奴の中にだって真剣な奴は結構いるはずだ。彰吾や俺がその代表だと思う。というか、伊織からすれば俺や彰吾は真剣じゃないと思われてるのか? そうだとしたら、本当に頭に来る。名前しか知らない程度で勝手に惚れて、勝手に玉砕している連中と同列なのだろうか。腹の中でどす黒い炎が沸々と沸き上がるのを感じた。

 しかし、その気持ちを怒りに任せて言おうと思って彼女の横顔を見た時……その感情は瞬く間に消えてしまった。まるで燃え盛る蝋燭に水をかけた時みたいに、一気に冷静になった。

 彼女は、とても……とても淋しそうな表情をしていたのだ。まるで、遊園地にたったひとり取り残された子供のように、泣きそうになりながら淋しさに抗っている。あまりに弱々しく、はかない彼女のその姿は、強風に煽られると灰の様に散ってしまうんじゃないかと不安になる。俺の知らない、とてつもない悲しみを一人で背負っている様にも見えた。

 気付けば俺は……彼女をそっと後ろから抱き締めていた。


「真樹君……?」


 強く抱き締めると壊れてしまいそうな華奢な体は、凍えるように震えていた。彼女の体温が浴衣を通じて、俺へと伝わってくる。長く綺麗な髪からは、とても甘い香りがしていて、心臓を鷲掴みにされたように胸が苦しかったが、不思議と気分は落ち着いていた。

 好きという気持ちを示したいと思っての行動ではない。ただ、守ってあげたい──その一心だった。どちらも言葉は発さず沈黙が続いていたが、伊織がふと言葉を漏らした。


「人って……いつ別れちゃうかわからないんだよ?」

「えっ?」


 少し驚いた。その事はさっき、中馬さんの話を聞いた時もふと思ったからだ。


「今はこうやって真樹君を誰よりも近く感じていられるのに、一年後には……ううん、一か月後にだって変わってしまってるかもしれない。まるで今まで存在して無かったみたいに」

「伊織……?」


 彼女は、一体何を言おうとしているのだろうか。俺が存在していなかったように、消えてしまうと言いたいのだろうか。


「最初は淋しくて辛くて堪らないくせに、そのうち存在して無い事に慣れちゃうんだよ」


 俺の袖に、彼女から流れた雫が浸みてくるのがわかった。彼女にとって誰か大切な人が消えてしまったのだろうか。中馬さんと同じように。


「それが恐いの。真樹君もいつか私の前から消えちゃうんじゃないか、記憶からも薄れてしまうんじゃないかって思って……そんなの絶対嫌なのに、考えたくもないのに」


 伊織は嗚咽を我慢していて、苦しそうだった。そんな彼女を見ていられなくて、ただ強く抱き締める。今こんなに近くに彼女を感じているのに、いつか消えてしまう事があるのだろうか? ……あるのかもしれない。中馬さんだって自分の彼が死ぬなんて夢にも思っていなかっただろう。生涯を共に過ごすと誓った人でも、不意の事故で亡くす事も有り得るのだ。そう思い始めると、生きる事は難しく、また恐怖すら感じた。

 だけど、そんなの信じたくない。大切な人を残して死ぬなんて、考えたくもなかった。


「伊織」


 俺は背を向けている伊織をこちらに向けて、顔を合わせた。涙で覆われている瞳を正面から見据える。


「勝手に変な事想像すんなよ。俺はどこにも行かないし、どこにも消えない。伊織だってそうだ」


 そしてもう一度……今度は正面から抱き締めた。


「無理しなくていいだろ。寒かったら寒いって言えばいいんだよ。一人じゃ寒くても、こうやって二人なら寒くないんだから。他も同じだよ。一人じゃ苦しくて堪らない事でも、二人なら乗り切れるかもしれない」


 伊織は俺の胸に顔を押し付け、咽び泣いていてた。


「ありが、とう……」


 嗚咽しながらも、俺の胸の中でそう言ったのは聞き取れた。何で悲しんでいるのか、何で苦しんでいるのか、俺には全くわからない。知りたいといえば知りたいが、彼女が語りたくないと言うならそれでも構わないと思う。

 きっと、今はその時ではない。それだけなのだ。いつかその悲しみを少しでも分かち合い、拭い去ってやりたい。恋人だとか、友達だとか、今はどうでもいい。ただ、彼女には笑っていてほしい。それが、俺の中で芽生えた強い想いだった。

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