3-12.あいつに目撃されてしまった

「あー! 麻生、テメーいつまで休憩してんだよ、こら」


 体育館の地下倉庫では、みんなが一生懸命畳を拭いていた。こっそり入ったつもりだったのだが、信に目敏く見つけられてしまった。


「キーホルダー落としちゃって、一緒に探してもらってたの。ごめんね」


 伊織が信にキーホルダーを見せて、それとなくフォローをしてくれた。伊織は目元だけで俺に微笑んで見せると、そのままクラスの女子達の輪に戻っていく。「麻生君と二人で何してたのー?」と眞下にからかわれていたが、「キーホルダーを探してもらってただけ」と信にした言い訳をそのまま使っていた。そこには、さっきの辛そうな伊織はもういない。まるで気のせいだったのかと思えるくらい、友達と普通に話していた。


「なにぼーっとしてんだ? 乾いてきた畳運ぶぞ」

「あ、悪い」


 信の呼びかけで正気に戻ると、体育倉庫の入口に立てかけられていた畳を、せっせと運んだ。

 まずは女子が水拭きをして、乾いてきたものから男三人で教室に運ぶのだそうだ。結局男が運ぶのかよ、と思っていたが、手が空いた女子が二人一組で畳を運び始めていた。何だか、本当にクラスが一致団結していて驚いてしまった。

 もう何往復したか数えられなくなった頃、階段の踊り場で畳を二枚同時に運んでいる信とすれ違った。


「あとどれくらい残ってる?」

「ラスト五。彰吾は?」

「教室で休憩してる。まだ休んでたら叩き起こしといて」


 信にそう言い、怠い体を体育倉庫へと向かわせた。

 薄暗い体育館裏の通路を歩きながら、あと何往復すればいいかをぼんやり考えていたところ、体育倉庫から女の悲鳴がきゃあきゃあ聞こえてきた。


「……何かあったのか?」


 変質者でも現れたのかと思って、急いで体育倉庫へ向かって中に入ってみると、伊織がらしからぬ様子で慌ててじたばたしていた。何かを振り払おうとしている。他の女子も近寄りたいが近寄れない様子で、きゃあきゃあ言っては伊織から離れていた。


「……何やってんの?」

「ま、真樹君! 助けて!」


 まるで救世主メシアを発見したかのような瞳で伊織は駆け寄ってきた。ここまで取り乱している彼女を見た事がない。涙で目が潤んでいた。

 楽しそうに一部始終を見ていた眞下に事情を訊いてみると、どうやら伊織の頭上に蜘蛛が落ちてきて、髪にからまってしまったそうだ。


「……で、その蜘蛛は?」


 俺も蜘蛛は嫌いだが、ここまで錯乱している伊織を放っておくわけにはいかない。


「わかんない! わかんないけどさっき頭の上におっきい蜘蛛がぼてって……!」


 言いながら、身を捩って髪を見ようとする。思った以上に伊織が錯乱していた。


「わ、わかったから暴れるな。捕れるもんも捕れなくなる」


 とりあえず伊織をなだめ、蜘蛛を探してみた。肩、首、その他制服を見た感じ蜘蛛はいない。こんな時に不謹慎だとは思うが、彼女からはとても良い匂いがした。


「いた?」

「いない。もうどっかに振り落としたんじゃ──」


 と思って彼女の綺麗な髪を見ていると、それはいた。しかも結構大きくて、軽く直径一〇センチはあった。いくら人生は経験が大事と言っても、できればこのサイズの蜘蛛を触る経験はしたくない。


「い、いたの?」

「うっわぁ~……俺も触りたくねーよ、これ」


 発見した女子達はきゃあきゃあ言って遠ざかる。わさわさと伊織の髪を這う蜘蛛。おそらく彼女もその存在に気付いたのだろう。もはや悲鳴を上げる余裕がなくなっている様子で、顔は青ざめていた。


「信か彰吾呼んで来ていい?」

「ちょ、ちょっと⁉ お願いだから早く捕って!」

「わかってる、冗談だよ」


 胸ポケットに挟んでおいたボールペンを取り出し、ペン先にひょいと蜘蛛を乗せた。

 こうして見てみると、ものすごく気持ちの悪い蜘蛛だった。黒を基調とした色で、黄色の模様が入っている。まさか毒蜘蛛じゃないよな、と俺はペンを摘むようにして持った。今度は俺から女子がきゃあきゃあ言いながら遠ざかる。

 そのままペンから落とさないように入口に向かい、外に逃がそうと思っていると──今度は体育倉庫に戻ってきた彰吾とおもいっきりぶつかってしまった。その反動で、蜘蛛を乗せたペンが空を舞う。


「あ、バカ……」

「痛ーっ! ワレ何さらすん──」


 衝撃により空へ舞った蜘蛛は、スローモーションでそのまま彰吾の顔へ──ゆっくりとダイブした。エイリアン映画で、卵から出たエイリアンの赤ちゃんが人間の顔に張り付くシーンを彷彿とさせる。


「うぎゃぁぁぁああ! 何か変なもんが顔に張り付きよった!」


 どうやら彰吾は蜘蛛の接吻を味わえたようだ。さっきと違い、女子は爆笑していた。困るのが男ならとことん楽しいらしい。現代社会の現象を著しく表しているように思えた。


「く、蜘蛛かいなーっ! ちゅーかデカないかコイツ⁉ しかも何かざわざわ動いてるし! うわ、目に足が入った、誰か助けてー!」


 今度は彰吾が錯乱し、外へ走り去っていく。クラスの連中が面白がって彼の後を追いかけて行ったので、体育倉庫には俺と伊織だけがぽつんと取り残される形となった。その伊織はと言うと、目に涙を溜めたまま、未だ放心状態で固まっていた。


「大丈夫か──って、え⁉」


 ちょっと心配になったので、彼女の顔を覗き込もうとすると──伊織が、身体を預けるように、俺の肩におでこを軽く押し付けてきたのだ。彼女の唐突な行動に心臓が一気に高鳴った。


「……怖かった」


 すんと鼻を鳴らしてそう呟くと、彼女は俺の服の裾を摘まんだ。いつもはしっかりしている伊織だが、何だか今は子供みたいだ。

 そういえば──いつの頃だったか覚えていないが、大昔にもこういった事があった気がする。小さな女の子が、今伊織がしているようにシャツの裾を摘まんで泣いていて、俺はその女の子を必死に慰めていた記憶がある……ような気がした。

 記憶に霞がかかっていてそれ以上は何も想い出せないけれど、それでも、今の伊織を見ていて、何だか懐かしいな、と感じた。好きな女の子に、こうして身を預けられているのに、ドキドキ感よりも懐かしさを感じてしまうあたり、不思議な感覚だった。

 ふと周りを見て、誰もいないかを確認する。クラスの奴等にこんなところを見られたらタダじゃ済まないし、何より誰にもこの時間を邪魔されたくなかった。

 耳を澄ましていると、体育倉庫から少し離れた場所からきゃあきゃあと喧しい声と笑い声が聞こえてくる。どうやら信も合流したようで、一層騒がしくなっているようだ。

 誰にも見られていない事にほっと息を吐いて、俺は……自然と彼女の髪を撫でていた。そして、乱れてしまった彼女の髪を、優しく手櫛で整えてやる。

 自分では考えられないほど大胆な事をしているはずなのだが、どういうわけか、こうする事が自然だと感じていた。伊織は嫌がる様子もなく、安心したように息を吐いて、俺に身を任せてくれていた。


「なんだか真樹君にこうして撫でられるのって、凄く落ち着く……」

「そうか?」

「うん……小さい頃に泣いてた時も、誰かにこうしてもらってた気がするから」


 他愛ない会話を交わしながら、彼女の頭をよしよしと撫でてやる。

 小さな伊織は何に泣いて、一体誰に慰めてもらっていたのだろうか。それは親だったのか、それとも彰吾なのか。誰なのかわからないけれど、そいつが少し羨ましく思えた。

 ほんの少し前、何かに耐えている彼女を見て、相変わらず何も知らない自分に、ショックを受けていた。それでも、こうして時間をかけて、少しずつ距離を縮めていけば、いずれは彼女の事をもっと知れるのではないだろうか──そんな事を考えた矢先、かたっと入口の方から物音がした。俺達は慌てて離れようとしたけれど、もう手遅れだった。体育倉庫の入り口には、白河梨緒の姿があったのだ。彼女はあまり表情を崩さないタイプなのだが、今の表情は驚愕そのもの。俺達も言葉を発せず、気まずい空気だけが体育倉庫に満ちていた。


「あ、あの……ごめんなさい!」


 白河は慌てて頭を下げ、そのまま走り去ってしまった。俺と伊織は目を合わせ、互いに困ったような、何とも言えないような表情をしていた。

 彼女はさっきのひと時の事を、どう考えているのだろうか。ただ蜘蛛が恐かったから、その解放感からああなったのか、それとも安心感から、甘えたくなってしまったのだろうか。


「……外、行こうか」


 俺の提案に、伊織は困ったような笑みを浮かべて、頷いた。

 このまま誰かに目撃されるとまた誤解されかねないし、一度冷静になってしまうと、もう間が持たなくなっていた。さっきまで自分がしていた事を思うと、恥ずかしくなって死にそうだ。もしかすると、伊織も同じなのかもしれない。

 体育倉庫の外に出ると、彰吾が遠くで顔を青くして座り込んでいた。彼の顔にさっきの蜘蛛はいなかった。


「よお、麻生。こっちは一件落着したぜ」


 信がぱんぱんと手を叩きながら、声を掛けてきた。彼の手には白い粉がついている。


「蜘蛛は? お前が掴んだのか?」

「いや、あれを掴む勇気はさすがの俺にもねーよ。毒持ってたら嫌だしな……で、掃除用具ん中にちりとりがあったから、それに入れてサッカー部の石灰粉ん中に入れてきてやったぜ」

「へ、へぇ……」


 何故にサッカー部の石灰粉に入れたのかは不明だが、それは彼の悪戯心だろう。

 そんなこんなで、体育倉庫の蜘蛛事件は終わった。彰吾は蜘蛛に噛まれてないかを念のため保健室で調べてもらっている。

 帰り際にふと白河と目が合うと、これまた凄い目の逸らしようだった。一応無視しているつもりなのだろうが、あまりにも不自然過ぎて、首が明後日の方向に向いてしまいそうである。

 伊織の方はというと、普通に話しかけてくるし、さっきの事があったからと言って、俺達が気まずくなる事はなさそうだ。というより、伊織はどことなく少し嬉しそうな感じさえする。

 ともあれ、文化祭準備でもハプニングが起きてしまったが、明々後日からいよいよ文化祭だ。俺が過ごす、初めての文化祭。

 できれば、楽しい想い出にしたいものだな、と隣で笑っている伊織を見て思った。

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