3-6.彼女の事を何も知らない

 夕食も終わり、カフェの閉店時間が近づいていた。伊織とダラダラ話ながら信を待っていたのだが、どうも間に合いそうにない。とりあえず先に金を払っておこうと、伊織の伝票も持ってレジへと向かった。


「えっ? どうして?」

「今日は出しとくよ。何か巻き込んじゃったしさ」

「気にしなくていいのに……」

「いいから。とりあえず今日は出させて」

「それじゃあ、お言葉に甘えて」


 伊織が少し照れたように言った時の表情があまりに可愛くて、顔が熱くなってしまった。それを隠すように背を向けて、マスターに伝票を渡す。


「顔が赤くなってるよ」


 マスターがからかってくるが、完全無視を決め込んで代金だけ払う。ここで否定するとこの男は面白がるだけなのだ。ここで挑発に乗ってはいけない。

 帰りの道中も、俺達は恋人同士のように手を繋ぐわけでも、帰り際にキスをするわけでもなく、当然普通の友達として接していた。いつも家に帰ると何もできなかった事に対してヤキモキして後悔するのだが、今の関係が壊れてしまう可能性を考えると、これ以上進む気にはなれない。

 ただ、少し寒くなったせいか、二人の距離が縮んでいる気がした。さっきから、何回か伊織の肩が体をかすめる。肩に手を置き、抱き寄せるには絶好の位置──と思うものの、ビビりの俺ではとてもではないが、そんな事はできない。世の男達は、一体どのタイミングで手を繋いだり、肩を抱いたりするのだろうか。拒絶される不安はないのか、それともその覚悟を持って攻めていくのか。手は前に繋げたけれど、今もう一度手を繋ぐ勇気はない。こうして今日もまた、何の変哲もなく『おやすみ』と挨拶するだけで終わってしまった。

 溜息を吐いて自宅に戻ると、音源を持って待ちくたびれた様子の信が、俺の家の玄関前にいた。


「夜道のデートはどうだったよ? Bくらいまで進んだか?」

「はぁ⁉ バカか、殺すぞテメー!」

「おうおう、大した照れっぷりだ。その様子じゃチューもまだっぽいな」

「当たり前だ!」

「お前の奥手っぷりには参るぜ……まぁ良いけどよ。とりあえず渡しとくな。期限は明日まで」


 CDRをポンと手渡し、信は自転車に跨がったままやや呆れた表情を作って、一言だけ言った。


「一度タイミングを間違えると、二度とそれは訪れねーぞ?」

「何を──あ、おい」


 返答を聞かずに悪友は自転車を漕ぎ始め、下り坂を猛スピードで走って行った。


「……無責任な奴め」


 せめて今夜くらいは作詞に専念させて欲しいのに、そんな事を言われると余計に悩んでしまう。頭の中の靄を振り切ろうと、自分の部屋に直行して早速CDRをPCに入れると、アップテンポなロックが四分少々の間スピーカーを通じて流れてきた。

 曲自体は悪くない。信にしては珍しく、大衆受けしそうな曲だ。ピアノでメロディーラインをつけてくれているので、作詞の負担も少なくしてくれている。私的にはギター音をもっとゴリゴリなサウンドにしたいのだが、そういった編曲は神崎君と話してからの方が良いだろう。俺はそのまま服も着替えず、作詞活動へと専念した。

 しかし、それから数時間経った深夜0時……予想していた最悪の事態に陥っていた。完全に煮詰まってしまったのだ。三つくらい歌詞は書いたのだが、全部破り捨てた。というのも、その歌詞の内容が、完全に俺から伊織に向けてのメッセージにしかなっていなかったのだ。恋文と大差がない。これはさすがに恥ずかしい。

 帰り際に信の野郎が変に意識する事ばかり言ったせいで、伊織の方にどうしても感情が行ってしまう。ふとスマートフォンを手に取り、着信履歴の一番上にある伊織の番号を見る。『発信』に指を乗せようとするが、タップせず画面を閉じた。

 この数時間だけで五回はこの行為を繰り返している。昼も夕も夜も一緒にいたのに、もう声が聞きたい。この気持ちを正直に表せれば良いのだが、いざ彼女を前にするとそういった気持ちは抑え込まれ、いつも通りに接してしまう。これが俺達の関係が進展しない理由だ。

 タイミング……さっきの信の言葉を思い出してみる。一緒にバンドを始めてしまったりすると、告白などは益々難しくなるのではないだろうか?

 そもそも、バンド内恋愛は絶対にすべきではない。二人の関係にヒビが入ると、それがバンド内の不和に結びつく可能性が高いのだ。いくらバンドと割り切っても異性は異性だ……絶対に意識してしまう。ましてや俺の場合は割り切る事もできない。更に、メンバーの中には彰吾もいる。付き合うなんて、できるはずも無かった。

 一体どうすりゃ良いんだよ、と苛立ちながらスマホをベッドに放り投げ、頭を机に数回叩きつけた。だが、今はそんな事で悩んでいる時ではない。作詞に集中せねばならないのだ。だが、恋愛ものを書くとすると絶対に伊織を意識してしまうので、これまた堂々巡りである。

 恋愛を題材にしなかったら人生訓からしか詞を書けないので、どうしても暗くなってしまう。彼女にそんな詞を歌わせたくないが、前向きな詞を書けるほど前向きな人生を歩んでいない。


「だーめだ。書けねえ……」


 そうぼやいて、ベッドにバタンと倒れ込んだ。

 俺に光をもたらしたのは伊織……明るく前向きな歌詞を書こうものなら絶対に彼女が絡んでくる。しかし、それでは歌詞的にも俺的にもまずい。せっかく頼りにされたのに、力にもなれないのかと自分に失望する。

 辛い事があっても前向きに乗り越える奴と後向きになって卑屈になる奴がいる。俺は後者だ。そして伊織は間違いなく前者……いつも前向きで明るい。

 いや、しかし……果たして本当にそうなのだろうか? 彼女の場合、何か辛い事があってもそれを隠す為に明るく振る舞うのではなかろうか? それに以前、彼女は自分がネガティブだと言い、自分の前向きさは辛い事から目を逸らしているだけだと言っていた。彼女は何から目を逸らしているのだろうか。

 こうやって考えてみると、俺は伊織の事を何も知らない。彼女は……何も話してくれないからだ。

 伊織はどうして東京にきたのだろう? 

 しかも、彰吾と一緒に、こんな二年の二学期の途中から。

 あんなに上手いのにピアノを辞めた理由は?

 時折寂しそうな顔をしてるのは何故だ?

 俺は、あまりにも伊織の事を知らない。ほぼ毎日顔を合わせていて、親しいように思えていても、伊織の心には触れられていないのだ。彼女が何を思い、何を考えているのか、さっぱりわからない。

 それは、彼女が言いたがっていないのか、俺が踏み込む事を恐れているのか……それすらもわからなかった。きっと……伊織には何かがある。言えない事なのか、言いたくない事なのかはわからない。

 彼女は、〝どうして〟ここにきた?

 本当はそれほど彼女に必要とされていないのではないかと思うと、怖い。ただ、今ここでこうして悩んでいても、答えは出ない。そして、歌詞も完成されない。

 俺はこんなにも伊織の事を考えているけれど、彼女は俺の事をどの程度考えているのだろう? 彼女もこうして俺の事を考えてくれているのだろうか? それとも、会っていない間はすっきりと忘れてしまっているのだろうか。

 無性に伊織の声が聞きたくなって、電話をかけようかとも思った。でも、俺にはあと一動作。『発信』をタップするという、親指だけでできる動作ができない。


「会いたいな……」


 さっきまで会っていたのに、もうそんな事を考えている。明日になればまた会える。それでも、彼女に会いたい。本当に愚かだと自分でも思う。

 それでも今は、目の前にある漠然とした不安に飲まれならが、ただ筆を進めるしかなった。

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