3-2.ワケあり感が漂う彼女
音楽室のドアを開けると、白河の言う通り中には誰もいなかった。ほっと安堵の息を吐いて、室内を見回してみる。少し他の教室とは造りが違っていて、楽譜立てが各机の前についていた。もうこの高校に通って一年半以上経つが、全く別の学校に来たかのような違和感がある。雰囲気だけでなく、匂いも違う。これは多分楽器の匂いだ。
「ほんとに誰もいないな」
「よかった……これでこれからもお昼一緒に食べれるね」
安堵して微笑む彼女を見て、ぎゅっと心が掴まれた気がした。
俺達はグランドピアノの近くの席で談笑しながら昼食を楽しんだ。伊織の作った弁当は相変わらず美味しくて、加えてこうやって二人で食べるからこそ美味しさも倍増するのだろうと思う。
何かの本で読んだが、料理を美味しく食べるのに重要な事は、料理人の腕前と材料の質、誰と食べるかなのだと言う。
最後のが大事で、好きな人と食べるから美味い料理は更に美味くなると書いてあった。何を根拠にそう言っているのかわからないが、少なからず今の俺にはそれが少しわかったように思う。
要するに、いくら高級料理でも同席者が社長や上司、又は接待などだと気が張っているので味わう余裕もない。好きな人とリラックスして幸せな気分で食べるからこそ更に美味しくなる、とあの本の著者は言いたかったのだろう。
「そういえば、うちのクラスって文化祭何やるの?」
「確か喫茶か休憩所だったかな……それをホームルームで決めんだろ?」
「えっ? それって遅くない? 文化祭まであと二週間って聞いたけど……」
そうなのだ。他クラスは何か月も前からクラスで相談し、もう準備を始めているにも関わらず、うちのクラスは出し物すら決まっていない。担任が見兼ねてホームルームを二限も費やしたのはその為だろう。
「二年の外国語科は〝全クラスで一番団結力がある〟って言われてるから平気じゃねーの?」
「そうなの?」
「まさか。他のクラスからそう見えてるだけだよ。うちって女子が多いだろ? って事は他人からよく見られたいから、必死で〝団結するクラス〟をみんなで演じてるんだよ」
本当は全く団結なんてしていないくせに、そういうところでは団結するから女子は怖い。
「え~? そんな事無いと思うけどなぁ」
「そんな事あるんだよ。一学期の体育祭なんて酷かったぞ。クラス対抗の集団競技の練習なんて本番数日前までしないのに、いざ本番になると最下位でも泣いて応援するんだぜ?」
その結果『二年の外国語科は団結力があって素晴らしいクラスだ』と評判になったのだが、さすがにあれは大袈裟だった。御蔭様で全クラスに感動を与え、一位になったクラスよりも遥かに目立って努力賞を見事獲得していた。しかし、我々男子は呆れ返っていた事を他クラスの方々は知らない。
その逸話を教えてやると、さすがの伊織も苦い笑いを見せたものの、「みんなならやりそうな気がする」と納得していた。女ならではで何か感じるものがあったようだ。
「これは俺の勝手な予想だけど、多分休憩所になるんじゃないかな。日数を考えるとそっちの方がまだ何とかなる」
「そっかぁ。でも、他の学校の文化祭って初めてだから、楽しみ」
「あんまり期待しない方がいいぞ」
せっかく楽しみにしている伊織には悪いが、おそらく以前の学校の文化祭の方が楽しいだろうと思う。外国語科は普通科に比べて遥かに団結力が薄い。たった九人の男子だって三人(俺・信・彰吾)・二人・四人のグループに分かれているのだ。せめて伊織が落胆しない程度には成功させたいものだが、俺一人がそう思っていてもどうにもならない。
「文化祭って言えば……真樹君達はバンドやらないの?」
不意に伊織が目を輝かせて聞いてくる。
「バンド? 何でまた」
全く予想もしていなかった言葉に、首を傾げた。
「信君から聞いたけど、二人は前にバンド組んでたんでしょ?」
「ああ……あったけど、あれはバンド組んでたって言ってもいいのか?」
半年以上前の話なのですっかり忘れていた。
もともと俺と信はお互いに楽器をやっていて、それを切っ掛けに中学の頃に仲良くなった。二人でバンドを立ち上げようという話になったのは高校に入ってからだ。信がベースで俺がギターかボーカルの担当だった。ギターボーカルで無い事に気付いて欲しい。この理由は簡単で、歌いながらギターを弾くと手がついてこないのだ。
『唄いながらギターを弾くのは糞としょんべんを同時にするのと同じくらい難しい。by ザック・ワイルド』
まさにその通りである。
「どうしてやめたの?」
「ドラムかギターが見つからなかったんだよ。だから結局一度もライブはしなかった」
これも〝か〟に注目してほしい。ドラムが入った時はギターが見つからなくて、ギターが見つかった時はドラムがやめる、という事が三度もあったのだ。その結果、俺達は七か月前の春休みに遂にバンドを諦めた。ツイてなかったとしか言いようが無い。こうやって行動を起こしてもツキが無かった故に俺は堕落してしまったのだ。
「そうだったんだ……じゃあ、もう一回バンドやってみる気はない?」
「は?」
唐突に予想外の提案が出てきた。伊織によると、彰吾がドラムを叩けるらしい。ただ、彰吾のはっきり言い過ぎてしまう性格が原因でバンドが上手くいかず、大阪では学祭時にバンドが組めなかったのだという。そんな中、文化祭も近づいてきた事もあって、ステージ発表に出たいと信と彰吾が話しているそうだ。
「今日真樹君がいなかった時にその話題で盛り上がってて。二人はやる気満々みたい」
「ああ、それで……」
さっきの自習中にバンドスコアや雑誌を開いて彰吾と信が音楽論議を交わしていた理由がわかった。
「また急だな。やるにしても俺達三人だけじゃ無理だな」
「そっかぁ……残念。生でロックのライブ見た事無いからちょっと期待してたのに」
普通のコンサートならあるんだけどね、と伊織は付け加えた。
「普通って、例えば?」
「昔、セリーヌ・ディオンの来日コンサートに1度だけ行った事があるよ。たまたまチケットが手に入って。あと、クラシックはよく行ってたけど、こっちは勉強の言い合いが多かったかなぁ」
「へぇ……クラシックか。あ、そういえば、ピアノ弾いてたんだっけ?」
ふと、彼女が以前ピアノを弾いていたと言っていたのを思い出した。確か、ボウリングをしていた時に爪を切ってやった際にピアノを辞めたという話をした記憶がある。
「あ、うん。その関係で、よくピアノのリサイタルも見に行ってたよ。どっちかというと、そっちの方が多かったかも」
「伊織もコンサートとかリサイタルやってたの?」
「そういうのはなかったけど……コンクールにはよく出てたよ。こう見えて、ちょっと賞とかも取っちゃってたりして」
遠慮がちにだが、照れたように伊織は言った。コンクールで賞を取っていたのか。それはちょっと聴いてみたい。
「へえ、すごいな。あ、てかさ、ちょうどピアノあるし、聴かせてよ」
「え……?」
伊織の表情が曇った。
どうしてそんな顔をするのだろう? 何かまずいことを言ってしまっただろうか。音楽室という場所、そして会話の流れから当然だとも思えたのだけれど。
しばらく悩んでから、伊織は頷いた。
「……うん、良いよ。でも、久しぶりだから上手く弾けないかも」
言いながら彼女はグランドピアノの前に座り、鍵盤蓋を開けてから盤カバーを畳んで袖に置いた。
深呼吸をして手を握っては開いてを何度も繰り返している。表情も硬くて、緊張さえ感じた。
「だ、大丈夫か? 無理しなくていいぞ」
「ううん、大丈夫。多分……弾けると思う」
伊織はもう一度大きく息を吐くと、ふわりと鍵盤に手を置いて、弾き始めた。
ゆったりとした旋律が音楽室に響く。旋律自体は優しくゆっくりとしているのだが、とても悲しく寂しそうな音が印象的だ。途中から緊張が取れたのか、伊織は目をつぶりながら、ゆっくりと流れるように指を鍵盤に走らせていた。
俺はしなやかな指先をただ見つめていた。それは風に流れていく若葉のように優雅で、しかしその指先は今にも壊れてしまいそうなくらいに儚く見えた。
俺は伊織のピアノを弾く姿と旋律に魅せられていた。クラシックには詳しく無いのだけれど、彼女のピアノは心の中にある柔らかい場所を優しく掴んでくるのだ。そう……まるで辺り一面セピア色の大きな部屋の片隅で、膝を抱えて寂し気に座って悲しみに耐えているかのような……心細くて誰かに助けてもらいたくて仕方が無い、でも、誰も助けてはくれない孤独さ。そんなものが彼女のピアノを通して俺の中へと伝わってくる。
演奏が終わると、ピアノの弦の余韻を響かせている間に伊織はゆっくり瞳を開いて、ふぅ、と息を吐いた。
「……どうだった?」
俺は言葉を失っていた。
自分が味わった感動をそのまま伝えるのは相当な語彙力が必要で、彼女のピアノから得た感動を伝えるのは困難を極めた。
俺は音楽でこれほどの感動を味わった事が過去に無かった。確かにロックバンドの激しいライブに行った時は体が熱くなって、ヘッドバンキングをしてしまう事はある。それも感動と言えば感動なのだろうが、彼女のピアノはそれとは全く種類が違った。
「ど、どうしたの? やっぱりダメだった?」
「違うよ。凄過ぎて言葉が見つからないんだ」
「また大袈裟だなぁ。私、そこまで才能無いよ? それに、弾いたのも随分久しぶりだったし」
「俺は確かにクラシックに関してはよく知らないけど、すごかった。それだけは解るよ」
あれほどの音を奏でられる人間でも才能が無いというのなら、一体誰に才能があるんだろうか。今からでも伊織を日本クラシック協会──そんなものがあるのかも知らないが──にでも連れて行って、彼女の演奏を聴かせてやりたいくらいだ。
「何て言うか……曲の間はどこか異世界にトリップした感じだった。伊織のピアノ、好きだよ。もっと聴いてたい」
そう言うと、伊織は照れを隠すように鍵盤をなで、ありがとう、と顔を赤らめ呟いた。
「今弾いてた曲、どこかで聴いた事あるんだけど、なんていう曲?」
「ラベルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』だよ」
亡き王女のためのパヴァーヌ……なんだか曲名からして切なげだった。そして、どこかその切なげなイメージは、ピアノを弾いている時の伊織と重なってしまった。
「亡き王女って言うと悲劇的な物語を連想してしまうけど、ラベルは絵を見てこの曲を書いたんだって」
「へえ……」
絵を見ただけでこんな曲が書けるのか。やはり歴史に残る音楽家というのは類を見ない天才なのだろう。
「でも、この曲は昔から好き。こんなにも孤独で淋しい曲調なのに……ずっと聴いちゃうの。何だか部屋に引きこもりたくなっちゃう」
どこか寂しげな瞳で鍵盤を見つめてから撫でて、呟くように言った。
「あ、俺もさっき聴いててそんなイメージ持ったよ」
「ほんと? じゃあ、私もラベルの域に達してたりして」
「調子に乗るな」
軽く頭を小突くと、伊織は照れて笑っていた。
それにしても、どうして彼女はピアノを弾く前に怯えたのだろうか。今もわざと明るくふるまっているように思える。それに、どうしてこんなに才能があるのに、ピアノを辞めてしまったのだろうか。鍵盤蓋を閉めて大きな溜め息を吐いている彼女は、何を想っているのだろうか。今の俺には、そこまで踏み込む勇気がなかった。
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