3章・波乱万丈な文化祭準備期間

3-1.ビュリダンのロバ

 暗闇の中にいた。

 右も左も解らなかった。

 ただ、そこが自分の内部だという事は、何となく解った。

 だからなのか、暗闇に対して恐怖は感じない。

 俺は目を閉じ、耳を澄ました。

 すると、女性の泣き声が聞こえた。

 それも別々の泣き声が、等距離から聞こえてくる。

 どちらも知っている声だった。

 どちらも悲しみに満ちた声だった。

 そして……どちらも俺を呼んでいるような気がした。

 きっと、どちらかを選べば、どちらかを見捨てる事になる。

 直感的にそう感じた。

 そう思うと、動けなくなってしまった。

 どちらを選ぶべきなのだろうか。

 また、俺に選ぶ権利があるのだろうか。

 ……違う。

 俺の答えは解っている。

 ただ、選ぶ勇気が、そして片方を傷つける勇気が無いだけなのだ。

 ただ立ち尽くすしか俺にはできなくて、二人のすすり泣く声が頭の中を木霊していた。

 そして……うんざりした気分のまま、眠りから覚めた。


「ビュリダンのロバかっつーの」


 自分の夢にそんなツッコミを入れて、バタリともう一度ベッドに倒れ込む。

 目覚めは最悪。なんだか自分の深層心理を表しているような夢だった。

 時計を見ると、もう二限目が始まっている時間だった。

 今から急いで準備しても四限目にギリギリ間に合うかどうかというところだろう。

 以前までの俺なら、きっとこのまま学校を休んでいた。わざわざ急いで準備をして学校に行く必要もなかったからだ。


『今日その日に起こる予定だった事が起こらないの。何かとっても楽しい事が起こる予定だったのに、学校に来なかったら何もないまま……もしそうだとしたら、損だと思わない?』


 祭り前に伊織から言われた言葉が脳裏に蘇った。確かにその通りだ。我ながら情けないくらいに従順だが、一度納得してしまったものは仕方ない。

 あの日だってそうだ。祭りに行った事で、伊織を名前で呼べるようになって、手を繋いだ。それに、信とも仲直りできたわけで……面倒な事もあったが、確かにあの時、祭りに行っていなければ、あの日遭った〝良い事〟は起こらなかったのである。

 というより、本当は伊織に会いたかった。いつも会いたいと言えば会いたいのだが、今日は不思議とその気持ちが一層強かった。おそらく俺の場合は『今日起こるべき事が起こらない事』が損なのではなく『彼女に会えない事』が損なのだ。

 ふと思い出してスマートフォンを見てみると、二通の未読LIMEがあった。

 一通目は八時二十分。


『あれ? もしかして寝坊? 今日は寒いよー』


 クマプーがガチガチ震えているスタンプが貼られていた。家の中でも結構寒いのだから、外だと余計に寒かっただろう。

二通目。八時二十五分。


『爆睡中? 私も遅刻しちゃうからもう行くね』


 次はあかんべをしているクマプーだった。

 というか、伊織も遅刻してるんじゃないか、この時間だと。八時二十五分だと結構ギリギリだ。


『ごめん! 久々に寝坊しちゃった。遅刻しなかった?』


 今更だが、慌てて返事を送った。以前伊織が送ってきたように、土下座しているクマプースタンプを貼っておいた。


『ギリギリ間に合ったよ! 今起きたの?』


 すぐ彼女から返事が返ってきた。だが、おそらくこの時間帯は生物のはずだ。スマホをいじっているのが教師にバレたらスマホを没収されてしまう可能性もある。


『そのとーり! ダッシュで行くから、四限目までには間に合うと思う。返事はしなくていいから』


 そう打ち込んでメッセージを送信してから、慌てて準備をし始めた。自分の送った返事を見て、人は変わるものだなと改めて思う。


 慌てて準備した甲斐も虚しく、結局四限目の開始時間には間に合わなかった。

 扉の音を立てないようにゆっくり開けてみると、中はがやがやとしている。どうやら今日の四限目の日本史は自習のようだ。みんな思い思いに立って、友達と喋りながら自習課題らしきものをやっている。


「よぉ、麻生。寝坊にしては随分遅いじゃねーか」

「重役出勤にもほどがあるで」


 信と彰吾が俺を見るや否や声をかけてきた。こいつ等は課題プリントとは無縁な様子で、音楽雑誌やバンドスコアを広げている。

 彰吾とは、あの祭りの日に少し険悪なムードになってしまったが、今ではこの通り普通に話している。互いに問題を見て見ぬふりをしているような気もするが、表面化させないという事も大切だと思う。


「うるさいな。俺が一ヶ月以上も遅刻しなかった事を褒めろ。快挙だぞ」


 一ヶ月と言うと、伊織が転校してきてからだ。そういえば、あの日から俺は遅刻をしなくなったのだ。


「フツー遅刻ってそんな頻繁にせぇへんもんとちゃうんか?」


 彰吾の言い分ももっともだ。しかし、それは一般論であって俺には当て嵌まらない。週六日のうち五日連続遅刻したという桜ヶ丘高校歴代遅刻のタイ記録を持つ俺には遅刻こそが当然なのだった。今ではそんな頃が懐かしく思えるほど優等生になってしまった。


「ほい、これ課題プリント。俺のやるよ。どうせ出さないから」


 信から日本史のプリントをもらうと、席についた。本当は伊織と話したいのだが、現在彼女はあの白河梨緒と談笑中だ。さすがにあそこに入る勇気は無い。

 そういえば昨日も生徒玄関で話していたし、最近仲が良いのかもしれない。伊織が誰と仲良くなろうが──女なら──気にしないのだが、これはちょっと良くない傾向だ。

 伊織はさっき目が合った時に目元だけ笑って『おはよ』と伝えてくれたのだが(二人だけの挨拶という感じがしてドキッとした)、それに対して彼女の横にいる白河は真っ先に俺から目を反らした。全く大した嫌われぶりだ。

 プリントを広げて、早速課題に打ち込む。が、三問目で早速躓いた。大体こういったプリントは教科書と用語集があれば何とかなるのだが、今日は用語集を持ってきていないし、教科書には載っていなかったのだ。あの時代遅れの封建教師が出す課題はマニアックなものが多いのだ。

 仕方なく俺は横の席の中馬さんをツンツンと突き、答えを教えてもらうべく救援を求めた。この前の中間テストで日本史クラストップの中馬さんが横にいるのだから、その辺りは助かる。


「あ、おはよう」


 休みかと思った、と中馬さん。四限目まで来ないとなると、確かにそう思われても仕方がない。


「おはよ。あのさ、早速で悪いんだけど三問目の答えってなに? 教科書に載ってないんだけど」

「ああ、それは……」


 彼女は自分のノートを開き、俺に見せてくれた。そのノートを見て目を見張った。ほぼほぼ全てを網羅していると言っても過言ではないほど何でも書いてある。なるほど、日本史で毎回クラスでトップの点数をたたき出しているのは、このノートあってこそなのだろう。


「自分で一から作ったのか?」

「うん、まぁ……教科書と用語集と、あと参考書とかで」

「すごいな」


 まだ高二の時点でこんなノートを作ってるとは驚きだ。彼女ならきっと有名大学にも受かるだろう。


「ついでにほかのも教えてもらっていい?」

「いいよ」


 結局、大半の答えを中馬さんに教えてもらって課題を提出した。

 信達は提出する気すら無いようだが、提出物をちゃんと出しておくだけで、評価は大分異なってくる。こういった細かい点を稼いでいないと、テストで事故った場合に強制補習に駆り出されてしまうのだ。教師だって夏休みや冬休みに出来の悪い奴等を集めて補習などしたくないに決まっている。頑張っている姿勢を見せておけばそれで見逃してくれるのだ。

 課題を提出して少し経った頃四限目が終わり、学校に着いて僅か四十五分間程度で昼休みを迎えてしまった。

 そこで、一つの問題に行き当たる。今日は伊織と一緒に登校していないので、弁当をまだもらっていない。まさか教室で渡してもらうわけにもいかないし……。

 俺の懇願の表情に彼女も気付いた様子で、くすくす笑いながら廊下の方を指差した。

 教室を出て人通りの少ない三階と二階の踊り場で待っていると、伊織はすぐに来てくれた。手には俺の弁当が入っていると思われる巾着袋がある。


「おはよーっていう時間じゃないよね?」


 開口一番、彼女はそういった。からかいの意図を含んだ笑みを浮かべている。 


「う、うるさいな。ほっとけ」


 しかし、今日のサディスティック伊織ちゃんはまだ停まらない。


「でも、次のホームルームでもう終わりだよ? まさかお昼食べにだけ来たとか?」

「うぐっ……そうだった」


 今日はこの後文化祭云々を決める為にホームルームを二限続けてあるだけなのだ。確かに何をしに来たのか微妙だ。日本史の課題だって途中から中馬さんのノートを丸写しだったし。


「怠け者にはお弁当あげないゾ」

「えぇ⁉ そりゃねーよ。それだけを楽しみに生きてきたのに……」

「大袈裟だなぁ」


 たまに真樹君をいじめてみるのを楽しいね、と嬉しそうに微笑んで巾着袋をぽんと渡してくる。


「ひ、酷い……いつからそんな娘になったんだ。父さんは悲しいぞ?」

「…………」


 その時、彼女が言葉を詰まらせた。


「……だーれが父さんよ」


 その後すぐに一応俺が望んだ通りにツッコミを入れてくれたが、一瞬表情が暗くなったのを見逃さなかった。


「あ、ねえねえ。今日は一緒に食べない?」


 その暗い表情を誤魔化すように、一転して笑顔になる。

 気のせいだったのだろうか。もうさっきの違和感がなくなっていた。


「食べるって、どこで?」

「そんなの決まってるじゃない」

「屋上は寒いぞ?」

「ぶっぶー、不正解。音楽室だよ」

「音楽室ぅ?」


 そんな場所、桜高に入学して以来一度も入った事がない。

 高校一年の時の芸術では音楽を選択したにも関わらず、何故か書道に入れられた。音楽志望者が多かったようで、何人か不人気の書道に回されたらしい。以降、吹奏楽部でもない俺は音楽室とは無縁な生活を送っている。


「あ、知らないんだ? 昼休みも音楽室は開放してあるんだよ」


 俺が知らない事を知っていたからか、ちょっと伊織は得意げだ。


「いや、吹奏楽部でも無いのに音楽室って入っていいのか……?」

「大丈夫だって。誰もいないって白河さんが言ってたから」

「ふぅん……」


 そういえば確か白河梨緒は吹奏楽部に所属していた。一応以前好きだったからある程度の情報は知っている。


「じゃ、行くか」

「うん!」


 伊織が嬉しそうに頷いた。

 ああ、そうだ。俺はこの笑顔が見たくて、きっと学校に来てるんだ。

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