2-2.悩んだ時は大人に相談してみるのも良いものだ
「いらっしゃい。今日は彼女と一緒じゃないのかい?」
Sカフェの店内に入ると、マスターがにやりと笑って声を掛けてきた。空腹に耐えられなかった俺は、放課後になって真っすぐここにきた。
ちょうど客足が途絶えているタイミングだったらしく、店内には俺以外の客はいなかった。
「別に付き合ってるわけじゃないし、昨日はたまたまだよ」
昨日と同じカウンターの席に座って、メニューを眺めた。今日はそういうからかいに応えられる気分ではない。
「学生ランチって今の時間でもまだできる?」
「今は時間外だけど……まあ、他に客もいないから内緒だよ」
やはりマスターは優しい。今の俺にとってはここが唯一の憩いの場なのかもしれないな、と思う。信がいるとまた一変してやかましくなるのだが、今の俺にはこの静かな雰囲気でゆったりとしたボサノバが流れているこの空間の方が良い。
「今日は金払うよ」
「当たり前だよ」
マスターは言いながら、ランチを作り始めた。昼用メニューなので材料等はもう処分してしまったらしく、また一から作っているようだ。
面倒事を頼んでしまっただろうか、と頼んでおきながら後悔してしまう。何か今日の俺はグズグズだ。あの後の授業で当てられた問題もことごとく間違うし、躓いてこけそうになるし……昼休み以降も頭からあの事が離れなくて、どんどん深みに嵌まっていったのだ。
「どうした? 浮かない顔してるじゃないか。ガールフレンドと早速喧嘩したのかい?」
やはり気の利くマスター。こうやって俺が何か話したい時は向こうから場を提供してくれる。話しの振り方はどうかと思うけれど。
「別に……麻宮さんとは何も無いよ。何つーか、俺が勝手に一人で考えて抜け出せなくなったというか」
そう切り出しておきながら、自然と話し始めていた。
結果が出ない事。浪人生の事。努力が報われるか否か。努力はしない方が良いのか。マスターは黙ってまとまっていない話に耳を傾けてくれていた。
「まぁ……普通の高校生はあんまり深くは考えないよねぇ」
出来上がった学生ランチを俺の前に出し、今使った包丁等を食器洗い器に入れながら話した。
「大体の奴は一瞬そう思ったとしても『努力してればいつか報われる。だから頑張ろう』と自分に言い聞かせるもんさ。でないと人生やっていけないからね。或は真樹の嫌っているような、努力せず楽しければそれで良い、という刹那主義に走る。後者の刹那主義が嫌いな奴は自然と前者になる。でも、君はそのどちらでもない、というわけだ」
マスターは俺の反応を伺いながら、続けた。
「なぜなら、真樹は頑張る事、則ち努力が必ずしも実を結ぶと信じていない、或はそう体感した事がある。違うかい?」
素直に頷く。マスターはまず、俺の現在の深層心理的な渦を解明してから話を進めようとしているようだ。
確かに、俺は過去に高校受験の時に失敗している。桜高の外国語科には二次募集で何とか滑り込んで高校入試浪人は避けられたが、いざ入ってみると女尊男卑社会で失望し、やる気を失い学力も落ちた。
こういった事が続いてしまって、俺は頑張る事に嫌気がさしたのだった。揚句にせっかく入れたにも関わらず、先輩方に因縁つけられるわ何もしていないのに悪い噂が立って評判は下落するわで良い事無し。生きる糧だったクラスの好きな女の子にも見事振られた。散々だ。
「実際に努力が実を結ぶかどうかについては、まあ結局は運次第かなぁと僕は思うよ。どれだけ一生懸命頑張って結果を出していても、とんだ裏切りから全てを無くす事だってあるし。高校最後の部活の試合だって、ポイントで勝ってたのに怪我して負けたし」
「へえ、それは意外」
マスターは見た目からして何でも成功して好きな様に生きていると思っていた。
「まあ、勉強でいうと、僕はあんまり頑張らなくても結果が出てたけど、それでもそれなりに頑張ったよ」
「へぇ……マスターも苦労してたのか」
「そうだね。人間ってさ、どんなにうまく行ってても何かで一気に転落してしまうし、今うまく行ってたからって人生安泰ってわけじゃないよ。勉強できたってそれだけだと意味ないし。大学なんてそれほど重要なものでもないよ」
「そんな事言うマスターは、最終的にどこの大学に行ったわけ?」
「ん? 東大だけど」
「ブッ!」
おもいっきり吹き出してしまった。東大って、あの? 日本トップじゃないか。
「こら、僕の店を汚すな!」
「ご、ごめん! いきなり凄い事言うからびっくりしたんじゃないか」
「凄くなんかないよ。東大生は年間に何百人も合格してるんだ。その中で上位になったら凄いけどね」
確かにそうなのだけれども……でも、東大に入るってやっぱり凄いと思ってしまう。俺なんかでは逆立ちしても無理だ。
「で、それはやっぱり努力は実を結ぶって事になるのか? それとも、もともと頭良いから努力しなくていいってこと?」
「違うよ」
マスターは呆れたように答えた。どうやら質問の仕方がまずかったらしい。
「じゃあさ、マスターは何で東大受かったの?」
「僕もそれについて考えてみたんだけど、結局辿り着いた答えは……」
ドキドキと胸が高鳴る。俺が探している答えが今ここにあるのだから。マスターは暫くの沈黙の後、力強く答えた。
「運だ!」
「…………」
力説しているマスターに対し、心底がっかりした。生でこれ程落胆したのは久しぶりかもしれない。
「そんな陳腐な……」
酷い、これは酷い。この期待と結果の落差は宝クジで番号が一つだけ違って外れたようなものだ。こんな結末があって良いのか。こんなに脱力してしまったらもう二度と立てないかもしれない。
「陳腐なものか! まず英語だけど、僕が日本語訳で読んだ論文が丸々和訳部分で出たり、地歴だって前日やったとこと全く同じ箇所が出たり、他にも奇跡としか言いようの無い事が続いたんだよ。これを運と言わず何と言う?」
「そ、それは確かに運が良いけれども」
そんな事ってあるのか? ツキまくりじゃないか。俺なら人生のほとんどの運をそこに使ってしまったと思うだろう。納得できない答えに憮然として食後のコーヒーを飲んでいると、マスターが続けた。
「真樹……確かに、努力が必ず報われるとは限らないよ。人生には僕が経験した様な運が必要であるのは確実で、それは全くもって公平じゃない。でも、運だけでは何も生み出せ無いというのも事実なんだ」
「…………」
「努力と運が重なった時、道は開ける。例え失敗したとしても、遠回りしたとしてもそれは決して無駄にはならない。なぜなら、その失敗や遠回りをしなかったら、学べなかった事もたくさんあるからだ。その経験が今後の人生で役立つ可能性は多いにある」
マスターは運だと言うが、それはマスターが普段からちゃんと勉強していたから、努力していたからこそ、その運が生み出せたとも言える。マスターが勉強していなければ、そこの該当箇所が出題してもわからなかったはずだ。もしかすると、最善の努力をしている人ほど、『運が良かった』と思うのかもしれない。
俺は黙ったまま、コーヒーの表面に映った自分の悩ましい顔を見つめた。
「こんな答えじゃ納得しないかもしれないけど……今の僕にはこれが精一杯かな。こればっかりは正式な答えなんてものは無いかもしれない。あくまでも僕の経験論を言ったに過ぎないからね。解らなかったら、後は君自身で学ぶ事だよ、真樹」
マスターはそう締め括って優しく笑った。こくり、とゆっくり頷く。やはり、この人は凄いと思う。俺なんかじゃまだまだ足元にも及ばない。
こんな事を言うとまた青二才だとか何だとか言われるかもしれないが、俺が一番次に歩み易い様な言い方をしてくれる。それを狙ってるのかも知れないが、上手く実行できる人間は数少ない。
「運、ねぇ……」
「まだ難しい顔をしてるね……『俺には運が無い』とか考えてるのかも知れないけど、生きてたらいずれ運は回ってくるよ。最も運が無い人間ってのは、不慮の事故や無差別犯罪で死んだ被害者達さ」
「確かに……」
「もし真樹に運が無いなら、もう死んでる。でも、君はまだ生きているだろう? なら大丈夫。運はあるさ。それに、僕が見ている限りでは運が回ってきていると思うけどね。あとは、その運を無駄にしないように努力するだけさ」
再びにやりと笑う。しかし、これにはややからかいの響きがある。麻宮さんの事を言いたいらしい。
確かに、彼女が来てからの俺は変わった。周囲も変わりつつある。もしかしたら、本当に転機なのかもしれない。
「やっと顔がまともになってきたな」
「さっきはまともじゃなかった?」
「店に入ってきた時は死にそうな顔だったよ」
言われてみれば、随分と気分が楽になっているように思う。あの時は何をどうすれば良いか全く考えがまとまらなかった。でも、ここに来て解決の方向へ向いたというか、負担が相当軽くなった。マスターのカウンセラーっぷりには脱帽するしかない。
「真樹は物事を深く考え過ぎる傾向がある。もっと気楽に構えても良いと思うよ。まあ、僕は君のそう言ったところが気に入ってるけどね」
「なんだよ、それ。人が困ってるのに」
俺がやや拗ねながらコーヒーに口をつけると、入口のドアが開いた。反射的にそちらを向くと、明るい(悪く言えば、煩い)声が聞こえてきた。
「よぉ、麻生! ここに居たのか」
信だった。後ろに彰吾もいる。
「おや、後ろの彼は友達かい?」
「ええ、最近転校してきたんスよ」
信はマスターに対して敬語(崩れた)である。二人の登場にやや嫌な予感がしなくもなかった。
「桜高は転校生が多いんだね。昨日も真樹が転校生を連れてきてたよ」
「なにぃ?」
「ば、バカ……!」
何て事を! 信と彰吾の獣のような視線がこちらに向く。
ダメだ……このままじゃ殺されてしまう。そう思ってマスターに目で合図を送った。人の気持ちが解る彼ならば気付くはずだ。しかし、彼は俺の希望を簡単に潰してくれた。
「あれ、真樹。伊織ちゃんとのデートの事は内緒だったのかい?」
嫌な笑みを見せて、喉の奥でくっくっと笑ってやがる。こいつ、絶対わざとだ。俺の意志が伝わったにも関わらず……しかも勘違いされそうな言い方をしやがった。一瞬でも尊敬した俺が馬鹿だった。
慌てて逃げる準備をしたが、もう遅かった。
「何だと麻生! テメー、そりゃどーゆー事だぁ⁉」
「伊織に何かしたんか⁉ ちゃんと説明せんかいコラァッ!」
二匹の肉食獣がか弱い兎ちゃんのような俺に襲いかかってくる。
「ちょ、ちょっと待て! 誤解だッ、マスターも笑ってないで助けてくれ!」
その後、無実が証明されて解放されたのは三時間後の事だった。
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