2-3.予期せぬ誤解

 八時十五分──いつもの様に停まっている車で身だしなみをチェックしていると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。落胆の溜息が漏れる。

 スマホの画面を見てみると、案の定麻宮さんの遅刻連絡だった。『ごめん! 今日は先に行ってて』というメッセージの下には、彼女の好きなクマプーが何度も土下座をしているスタンプが添えられていた。俺はもう一度溜息を吐いて、だらだらと学校に向かって歩き出した。

 麻宮さんがいないと今日一日ツイてない気がしてくる。昨日のマスターの話の影響か、運というものを普段より気にしてしまった。いつもと変わらないはずの通学路のはずなのに、味気ない。彼女と一緒に歩いていると、何でもない信号待ちすら特別に思えてくるのに、彼女がいないだけで生活から色素が抜けてしまったかのような感覚に陥る。そのせいか、学校への道のりが遥かに長く感じ、億劫になっていた。ほんの少し前まで一人で登校するのが当たり前だったのに……一人で学校に行くのが、こんなに心細いだなんて。

 後ろを振り返って麻宮さんが追いかけてこないか気にしていると、その中に見知った顔があった。同じクラスの中馬芙美だ。

 声をかけようかどうか迷っていたが、彼女がこちらに気付いてしまい、声をかけざるを得なくなった。


「お、おはよう」

「おはよう」


 彼女は少し微笑んで挨拶を返してくれた。


「………………」


 挨拶をしてみたものの、会話が続かない。ひたすら気まずい空気に襲われ、何か会話のネタになりそうな事を探す。

 そういえば、たまたま昨日の帰りに買った古文の参考書が鞄の中に入ってるのを思い出した。というより、昨日から出してないだけなのだが。


「これ、昨日買ったんだけど……」


 鞄の中から『古文聖典~苦手克服へのジハード~』という、イスラム教徒が書いたのかと連想させる大袈裟な名前の参考書を取り出し、彼女に手渡した。

 中馬さんは「面白い名前だね」と言いながら手に取って開いた。名前に惹かれて面白半分で買った代物だったのだが、案外役に立つ知識が多いのだ。


「あ、これ解り易いかも」


 彼女もそれに同意したようで、読みながら俺と並んで歩いていた。


「段差あるよ」


 全く前を見ていないので一応注意してみる。


「うん」


 一応頷いてくれてはいるものの、前を見ていない。しかし、何故かその段差を上手くよけて歩くのだった。一体どこに目があるのだろうか。まさかどこぞの漫画のキャラみたいに額に第三の目が?

 彼女の額をちらっと横目で見る。中馬さんの髪はセミロングなのだが、前髪は邪魔なのかヘアピンで止めていておでこがよく見える。前髪下ろすともっと可愛くなるんじゃないか、等と内心で考えていると、俺が段差に躓いてしまった。恥ずかしい。しかしその事など全く気にした様子を見せずに平常心を保って歩き続けた。ここでうろたえては負けなのだ。あくまでも平常しまえ心。躓いた事などなかった事にしてしまえば良いのである。


「これいいね」

「だろ? 名前が笑えたから買っただけなんだけど」


 彼女から参考書を受け取り、鞄に仕舞いながら答える。


「麻生君は志望大学とかもう決めてる?」

「いや、まだ……」


 実は予備校に通ってながら俺は志望大学すら決めていないのだった。何の為に通ってるのかよく解らない状況である。何となく学力を保ちたいから通っているが、未だに進路も大学も決めていない。


「中馬さんは?」

「あたしもまだ。別に夢とかなりたいものも無いし……そういうの考える事が今はめんどくさいかも」

「多分、みんなそうだよ。俺も似たようなもんだし」

「そうだよね」


 たかが三年で将来やりたい事を決めろというのがそもそも無理だ。高校入学して半年も経たないうちに、志望大学はどこだ、と進路の面談で聞かれたが、そんなの決まってるわけがない。自分の一生がかかっているのだし、さっさと決めてしまうのもどうかと思う。とりあえず三年になるまでには決めようと考えていた。もう、後半年も無いのだけれども、まだ考える時間はあるはずだ。

 中馬さんと大学についてあれこれ話している間に学校についた。下駄箱で上履きに履き替えている最中、俺と中馬さんという、珍しい組合せに首を傾げる生徒も何人かいた。

 正直なところを言うと、あまり中馬さんといるところを目撃されたくなかった。中馬さんは信を振っている。その信に目撃されたら、俺達の友情関係にも何かしらの問題が生じるかもしれない。それを危惧した俺は、用事もなく職員室に行って彼女と途中で別れた。

 全く、何でこんな周り中に気を遣わなくちゃいけないのだろうか。俺が麻宮さんといようが中馬さんといようが関係ないと言うのに。


「おーい、麻生!」


 今日何度目かの溜息を吐くと、廊下で俺を見かけた担任がこちらに来るよう指示している。嫌な予感がした。逃げるにも逃げられないので仕方ないのでそちらに向かうと、やはりこれまた嫌な予感が的中した。


「ちょうど良いところに来てくれた! 悪いけどこれ、教室まで運んでおいてくれ」

「えっ?」

「これでこの前のサボりはチャラにしてやるからさ」


 小声で言った後、どさっと進路系の本をクラス人数分渡された。ただ、荷物を運ぶくらいでこの前のサボりを見逃してもらえるのなら、取引としては悪くない。そう自分に言い聞かせてヨロヨロと教室に向かう。

 その途中、俺はまた呼び止められた。


「よぉ……麻生。どうしたんだ? それ」


 信だった。しかし、何か様子が変だ。いつもの様なおちゃらけさが無い。


「担任にパシられたんだ。それより、どうした? 何か元気無いみたいだけど」

「いや、別に何も……。半分持ってやるよ」


 信は半ば強引に俺から進路の本を半分くらい持ち、そのまま歩き出した。


「ど、どうしたんだ? 何かあったのか?」

「…………」


 何も答えない。何か難しい顔をしたままだ。


「黙ってちゃわかんないだろ。俺でよければ力になるけど?」

「じゃあ、聞くけど……」


 そこで彼は歩みを止めた。俺も立ち止まる。


「お前、今日中馬さんと学校来たってほんとか?」

「え……?」


 固まってしまった。何で信が知っているのだろうか。一応周りには気遣っていたはずだけれど……いや、あれだけ人がいれば見られていても不思議じゃない。それに、知ってしまったのならもう遅い。


「……そうなんだな?」

「確かにそうなんだけど……でも、別にそんなんじゃないんだ。勘違いしないでくれよ、信。中馬さんが話し掛けてきたから……」


 何で俺はこんな言い訳がましい事言ってるんだ? 言葉が浮かばなかったのは事実だが、信は友達だ。ちゃんと話せば良いのに、何故か良い言葉が思い浮かばない。


「中馬さんから話し掛けたのか……⁉」


 その言葉に信が驚きを見せる。それと同時に負の感情も彼の表情から読み取れた。

 しまった、この言葉では余計に誤解を招いてしまう。中馬さんは普段自分から話し掛けるような人ではない。それが男なら尚更だ。


「確かにそうだけど、違うんだ。誤解しないでくれよ」


 言い訳がましい自分に腹が立つ。これでは余計に誤解されてしまうだけではないか。ただ、何て言えば良いのかこの時咄嗟に浮かばなかった。


「はは、別に気にすんなよ。あの恋は大分前に終わってるし、お前がモテるタイプなのは知ってるよ」


 そう言い残し、信は先へ教室に入った。そして、それから信は俺と話そうとはしなかった。

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