06/カフス
長身の影が闇夜のビルの屋上で動く。
男はフェンスの傍にしゃがみ込み、煙草に火をつけた。
安物の紙煙草が紫煙を立ち上らせていく。
数分。男は腕時計を覗き込み、煙草を揉み消した。
吐く息は白く、ちらほらと白が舞い降り始めている。
「…ち…とっとと来い。」
小さく洩らして、備え付けたスコープを覗き込む。
狙うは煌々と明かりの灯る向かいのホテルの一室。
カーテンも閉められておらず、豪奢な室内が丸見えだ。
あのホテルご自慢の夜景を見る為なのだろう。
―こんな狙い易い所で、馬鹿な奴だ。
とは言え、仕事は楽に越した事は無い。
窓ガラスの強度は確認済み。
室内の人影が窓に近寄る。
派手に飾った、若い女だ。
その傍らに、これまた派手に飾った中年男が寄ってくる。
夜景を楽しんでいるのだろう。
偉そうにふんぞり返る男に、甘えるように絡みつく女。
―今かな。
男が女の方を振り向いた瞬間―…スナイパーは、構えたライフルの引き金を引いた。
弾は女の側頭部を貫通。
―反省、ちょっと威力が強すぎた。
衝撃で傾く女の身体。
派手に噴き出した飛沫が、フリーズした男を赤く塗り替えていく。
『男の目の前で出来得る限り衝撃的に、最愛の娘を殺す事。』
―さて、依頼は果たした。
男が叫び出すのを待たずに、ライフルを畳んで立ち上がる。
辺りに残した痕跡が無いか確認し、屋上の影は姿を消した。
「カーフスー♪おかえりー!」
「だあっ!」
朝日から逃れるようにバーに続く裏路地に潜り込むと、途端目の前にごっつい斧が降ってきた。
地面に突き刺さった斧の上で嬉しそうに笑う子供。
斧の先にも本人の身体にも、血痕が付着していた。
最近の頭痛の種、クビキリだ。
何故懐かれたのかは皆目見当がつかない。
それでも、クビキリは随分とカフスを慕っているらしかった。
そのまま抱きついてこようとするクビキリを躱して、首根っこを捕獲する。
「ふきゃ!」
「おら、そんな格好でうろついてんじゃねぇよ。さっさと帰って、洗って来い!
ファズに怒られるぞ。」
というか、今は早朝だ。
こんな時間にもう既に鮮血を滲ませて、仕事が速いと褒められた事かどうか…。
なんにしろその早朝のお陰で人目が少なくて済んでいるのだが。
クビキリはぶーと頬を膨らませている。
首根っこを解放して軽く背を押す。
「その斧、ちゃんと持って帰ってこいよ。」
数歩歩いてから、クビキリに動く気配が無いのを知って振り返る。
「おい、早くしろ。」
「…帰るの、やだー。」
不貞腐れた表情のまま、斧にしがみ付いて動こうとしない。
「なんで。」
面倒臭さに眉間を押えながら、一応尋ねる。
「…お風呂、嫌い。」
「・・・・・・。はあ?」
こういう事だ。
仕事をして服や身体を汚したまま帰ると、ファズに怒られる。
で、風呂に入って来いという事になるのだが、クビキリは風呂が嫌いである。
しかし血だらけのままで居る訳にはいかないので、ファズに頼まれたユイコに無理やり入れられる。
無理やり嫌な事をさせられる為、嫌な事がより嫌いになる、と。
・・・知るか。
「あっそ。じゃ好きにしな。はー、俺は早く一っ風呂浴びてぇよ。」
背を向けて、伸びをしながら歩き始める。
背後にクビキリの迷っている気配を感じるが、構わず帰路に着いた。
「う・・・ぁ・・・うぅうぅ・・・・」
どうやら相当葛藤している。
どごんと物凄い音がして、直後腰に物凄い衝撃を受けた。
「―ッァ、…このバカ…」
斧を引き抜いた勢いそのままで、クビキリが飛びついてきたのだ。
斧の重量込みで。
「…一緒に帰る。」
クビキリ自体が支えとなって何とか倒れずに済んだが、重さと腰の痛みで暫く動けなかった。
「ただいま…」
ぐったりとバーの扉を押し開く。
営業時間外の店内には、グラスを拭くユイコとだらけているファズの姿があった。
「ただいまー!」
「おう、クビキリも一緒だったのか。おかえ…」
元気よく響いた声に返事をしようとして、ファズが顔を顰める。
カフスがクビキリに着せていた自分のコートを取り上げると、血に塗れた姿が露になった。
「クビキリ、またお前は―…」
呆れた顔で、ファズはもう言い飽きた言葉を飲み込んだ。
「キリちゃん、今日はちゃんとお風呂入る?」
ユイコがグラスを拭く手を休めず微笑みかける。
と、怯んだ顔でクビキリはカフスの影に隠れた。
「…風呂論議は好きにやっててくれ。俺は疲れた。風呂先入るから。」
心底疲れた呈で奥へ向かう。
しかしその足は数歩で止まった。
「・・・クビキリ・・・手ェ離せ。」
ふるふると首を振る。
その手はしっかりとカフスのコートの袖を掴んでいた。
この怪力子供相手に力勝負を挑むのは愚かだ。
「…あー…そうだ。」
思案気な声を上げて、ファズがカフスに目を遣った。
嫌な予感がして眉を顰める。
「じゃあお前が入れてやってくれ。」
「あぁ!?」
冗談じゃない。何せ(クビキリとの遭遇で)非常に疲れているのだ。
風呂ぐらいゆっくり入らせて欲しい。
「いいじゃないか、だいぶ懐いてるみたいだし。
お前とだったら入ってくれるかも知れないだろ。」
「…それは…どうでしょう…」
珍しくユイコが微妙な顔をする。
「ほら、俺だって無理だって。諦めて表で水でもぶっ掛けてやれ。」
「死んじまうだろ、この気温でそれやったら。
それにほら、困るんだよあのままじゃ。お前だってこの職失いたくないだろうが。」
その適当な説得に納得した訳ではないが、一つ舌打ちすると縮こまっているクビキリに向かいなおした。
「ぁーもう。ほら、どうすんだよお前。
入んのか、入らないのか。決めろ。」
高確率で入らないだろう事を期待したのだが、長い逡巡の後、クビキリは小さく頷いてしまった。
「おー。カフス効果は絶大だなぁ。」
なぁ、と振られたユイコは、
「・・・ぁー…いいのかなぁ・・・?」
やっぱり微妙な顔をしていた。
カフスとクビキリの去った店内で、ユイコが小さく洩らす。
「たぶんカフスさん、気付いてないと思いますよ?」
「あ?」
数分後。
奥からどたどたと慌ただしい物音が近付いてきて、乱暴にカフスが飛び込んできた。
濡髪もそのまま、最低限、と慌てて穿いたズボンと首からかかったタオル一枚という混乱ぶりだ。
「どうしたカフス、そんな格好で。ゴキブリでも出たか?」
「アホかッ、ファズてめぇ、アイツ女じゃねぇか!」
「・・・」
ぽかん、とファズの口が開く。塞がる予定は遠そうだ。
「やっぱり、カフスさん気付いてなかったんですね…。」
苦笑いのユイコに一瞬目をやって、ファズは視線を戻した。
「いいだろ、まだ小さいんだし。そんなに問題は…」
「マスター、キリちゃん14になりますよ?」
「・・・あー・・・」
「ぎゃはは、嘘だろ、本当に知らなかったのかよカフス!」
「知らなかった!」
事の顛末を聞いて大爆笑する赤猫。
結局あの後クビキリの入浴はユイコに代わって貰い、カフスはその後ゆっくりと風呂に入れた。
が、結構な衝撃が残ってしまった。
「てかファズも知らなかったのかよ、ウケる!自分で拾ってきといて・・・」
涙まで浮かべて笑い続ける赤猫に言葉を返す気力も無く、カフスは見ていた新聞を畳んだ。
「クビキリ随分いじけてたわよ、カフス。
一度決めたなら、最後迄付き合ってあげるのが筋だと思うわ。」
「…言っとけ。」
「ぎゃはは、こっちもいじけてんな、くはは…ッ。」
「闇撫さんは判ってました?クビキリの性別。」
虚が赤猫を嫌そうに見遣りつつ尋ねる。
「えぇ。子供とは言え、骨格で判断がつく年齢よ。」
「げ、闇撫には何が見えてんだよ…」
赤猫が怯えたように身を引く。
「そういうお前は?虚。」
「僕は知りませんでしたよ。他人の性別になんか特に興味が無いので。」
言い切る虚に若干覚めた視線が送られる。
「…流石、虚。」
男に飼われてたネコは言う事が違う。
言外にそんな意図が読み取れる。
「―はぁ。」
騒がしいロビーに飽き飽きして、カフスは席を立った。
「あー?何処行くんだ?カフス。」
「俺はもう寝る。」
今日はもう、本当に疲れた。
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