第59話

 時間ばかりが過ぎていく。静寂が城を支配している。数分か、それとも数十分か。レイと勇者は無言のまま睨み合いを続けている。互いに互いがやるべきこと、それは暗黙のうちに決められた。


 何度も剣を交わす必要はない、たった一刀、その一振りでこの因縁を終わらせる。その機会をこれまで長いこと待ちわびていた。それは勇者も、レイも同じだ。


 勇者が一歩を踏み出す。ついでレイも一歩を踏み出す。一歩、二歩と踏み出すたびに力強く床を蹴り上げる。勇者は剣を振り上げ、レイは切っ先を下げる。目と鼻の先、互いに互いを必殺の間合いに入れる。


 短く息を吐き、二つの鋼が振り抜かれる。


 沈黙の帳が下りる。舞い上がった埃が陽光に照らされ光かがやく。二人は動かなかった。互いに視線を合わさぬまま、その場に立ったままでいる。血が流れている。絨毯に染み込み黒々とした染みを、お互いの足元に作り出す。


 最初に膝をついたのはレイだ。片方に膝を絨毯につけて、切り裂かれた肩を手で抑える。勇者はそれを見下ろしていた。


 勝ち誇るように彼は笑って見せる。その口元から、赤い血がこぼれていた。激痛が勇者を襲う。脇腹を押さえてみると、手のひらに真っ赤な血が咲いた。


「ああ……」


 右の脇腹からあばらにかけて、ばっさりと切り裂かれている。勇者はようやく斬られたことに気がついた。血を口から吐き出し勇者もまた膝をつく。ぐらりと揺れる体はゆっくりと背後へと倒れていった。


 レイは剣を支えに立ち上がり、勇者に歩み寄る。吐血で胸元を濡らし、傷口からは内臓が顔を出している。いつ死んでもおかしくはない。しかし勇者はまだ生きていた。レイをじっと見つめ、あまつさえ剣を握り締め立ち上がろうとしていた。


「まだ生きているのね」


 レイは勇者を見下ろした。勇者の剣を踏みつけ、彼の喉元に剣の切っ先を向ける。血に濡れた唇が歪み、勇者は笑った。


「言い残したいことは、あるかしら?」


 勇者はわずかに口を開いた。慈悲の言葉か、それとも恨み節でも出るか。レイは勇者の言葉を待った。だが彼は何も喋らなかった。開かれた口はすぐに閉じられ、微笑を浮かべる。勇者はレイを見つめて静かに頷いた。


「そう……」


 剣を逆手に握り、ゆっくりと振り上げる。


「さようなら、アンタに死後の安寧がありますように」


 勇者は目を見開いた。魔王が勇者の死の平安を祈ってくれる。思ってもみない言動だ。だが驚きは次第に緩和され、徐々に勇者の脳に染み渡っていく。見開かれた目は落ち着きを取り戻し、慈愛に満ちた視線をレイに向けた。


 レイの剣が勇者の首へ振り下ろされる。その一瞬、勇者の口が動いた。


 また会おう、彼の口はそう動いたように見えた。


 剣は勇者の首を貫いた。勇者の口から少量の血が吹き出す。彼の目は一段と見開かれたまま、閉じられることはなかった。傾く顔、動きを止めた腕がだらりと床に落ちる。


 剣を引き抜く。うがたれた首からは血が流れていく。絨毯に血が滲み、勇者の背後に赤黒い楕円が作り出されていく。


 レイはため息をついた。


 これで終わった。何もかも、全て。彼女が生きてきた意味も、彼女が歩んできた道も。すべてが帰結を見た。力なく腰を下ろし、肩から力を抜く。


 緊張が解けたせいか、先ほどより肩の傷が痛む。すぐに治癒魔法を使って治してもよかったが、この傷が勇者の生きた証に思えて、なんとなく惜しく感じた。勇者に特別な感情を覚えたわけではなかったが、なんとなくそう思ってやめた。


「これから、どうしようかしら」


 自由といえば聞こえはいいが、何もとっかかりがなければただの無為な時間でしかない。人であれ物であれ、言葉であれ行動であれ。何かしらのきっかけがなければ、自由はただの牢獄にしかならない。


 パッと思いついたのは、佐々木家のことだ。


 魔術師の多くを殺したが、逃げ延びた者も中に入る。そいつらを捕まえて異世界へと旅立つ。それも一つの選択に違いない。きっと彼らは暖かく迎え入れてくれるだろう。


 だがやめた。わざわざ啖呵を切ってまで別れたのだ。厚かましくまた厄介をかけるような真似はしたくない。


「勇者の死くらい、伝えてあげるべきかしら」


 レイモンドがいつやってくるのか。間を開けるとは思えないから、きっと近いうちに転移門を開かせてこちらにやってくるだろう。その時にでも、レイモンドに伝えればいい。


 ……いや、この場合は自分で伝えた方がいいだろう。久しぶりに英子と陽一に会うついでに、そうちょっとの挨拶をするつもりで、彼らに伝えられればいい。


「……結局、会いたいだけじゃない」


 レイは頬を歪めた。どれだけ取り繕うと、陽一と英子には会いたい。会って久しぶりに声を聞きたい。意地やプライドをかなぐり捨てて、ただ会いに行きたい。


 当面の目的は決まった。あの二人に会いに行こう。その時は勇者の遺品も一緒に持っていってやろう。いくら的とはいえ、一時は同じ屋根の下で過ごしたのだから。それくらいの義理を働いてやってもバチは当たるまい。


 レイは立ち上がり、勇者に背中を向ける。今日はもう疲れた。少し横になろう。玉座の背後にはレイのささやかな居室がある。古ぼけた家具。


 埃だらけのベッド。虫食いだらけの洋服だけがその部屋にあるすべてだ。居心地は最悪だが、廃墟同然の城で唯一無事だった部屋だ。わがままを言っても仕方がない。


 傷口を押さえながら、レイは足を動かす。思ったよりも血を流しすぎたらしい、無意識に足がふらつく。ここで倒れるな、倒れるなら部屋に戻ってから倒れろ。太ももを叩いて気合を入れ、レイは足を動かした。




 ふらつく足取りで、魔王は何処かへと向かう。彼女の行き先も男は知らないし、差して興味もない。男はただ与えられた仕事を果たすために、魔王の城に足を踏み入れる。弾倉に弾丸を装填。狙うは彼女の小さな頭。うららかな少女のその小さな顔である。


 男の気配に気づいたか、魔王は立ち止まり振り返る。束の間の視線の交錯、その間は時間が止まったかのように、何の音もしなかった。悪寒が男の背筋をぞわりとなぞる。的を逸らさないよう、呼吸と共に恐怖と悪寒を体の外に追いやる。そして息を止めた。


 引き金に指をかけ、ゆっくりと引く。


 発砲音が静寂を破る。その刹那、魔王が笑ったように見えた。


 魔王の体が玉座に向かって倒れていく。背中をしたたかに背もたれにぶつけ、彼女はもたれかかるように玉座に腰を下ろした。穿たれた額から血が流れ、俯いた彼女の美貌に赤い筋を作り出す。


 男は油断なく次弾を装填し、彼女の胸に二発の弾丸を打ち込む。びくりと震える体。開かれた穴から、血が滴り落ちる。動く気配はなかった。呻くことも立ち上がることもない。


 警戒をしつつ、男は魔王の首に手を当てる。脈はない、確実に死んでいる。

 仕事を果たしたことで、男の胸に安堵がこみ上げてきた。


「……いい死顔じゃねぇか」


 魔王の死体は笑っていた。実に安らかな微笑みを浮かべていた。

 陽光に照らされ、たおやかになびく髪が彼女の顔にしなだれかかる。


 男は構えを解いて歩兵銃を肩にかける。そして祈りの言葉を魔王と勇者に送り、その場を後にした。

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