第55話
彼は誓約書にサインをした。血で拇印を押した。サインも拇印もガトーのもので間違いない。レイは受け取ると、満足そうに頬を歪めた。
「あなたの家族には手は出さないわ。約束する」
「魔族の約束など、信用できるものか」
「信用するもしないもあなたの勝手。心配なら警護の一つでも付ければいい。無駄だとは思うけど」
紙を軽く振ってインクを乾かす。それから丁寧に折りたたみポケットにしまった。
「この屈辱は、忘れんぞ」
「そうね。忘れてもらっては困るわ。あなたたちと私の因縁は、こんなことでは終わらないから」
肩で息を乱し、ガトーはレイを睨み付ける。
「それじゃ、また戦場で会いましょう。あなたも、それまで元気にしていることね」
ひらひらと手を振りながら、レイは病室を後にする。彼女の後ろ姿を、ガトーは口惜しげに見つめ続けた。
病院を出たあと、彼女は隣の建物へと向かった。古ぼけた三階建の建物。窓ガラスは破られ、外壁にはいくつもの落書き。困窮した生活。そこから現れる不満、鬱憤。それらのメッセージが美しい女神の姿と共に、毒々しい色合いを描いている。人の気配はない。近寄りがたい雰囲気さえ感じた。
レイは迷いなく建物へと足を踏み入れる。暗い室内。奥へと廊下が続いていて、部屋がいくつか並んでいる。右手には階段がある。
レイは階段を上った。三階、踊り場から右手に廊下を進み、手前にある部屋の前に立つ。301号室。ノックをすると男の声が聞こえてきた。
「鍵は開いてるぞ」
部屋に入ると声の主は部屋の中央にいた。車椅子に腰を下ろし、肘掛に骨張った腕が乗せられている。こけた顔には悲壮感が漂い、両目は空に濁っている。だが、眼光の鋭さだけはいまだ健在だった。
「元気にしてたかしら」
「別れてから一時間しか経っていない。体調など直ぐに変わるものか」
「そう」
彼が勇者であると、きっと直ぐにはわからないだろう。魔法によって止血と傷を治したが、内臓機能までは修復することはできなかった。食欲は一挙に衰え、今では何も食べられない。点滴とわずかな流動食だけが、彼の栄養源となった。
「サインはもらえたのか?」
「ええ、この通り」
誓約書を勇者に見せる。
「アンタが熱心にいうからこれを書かせたけど、果たして何の意味があるのかしらね」
勇者目掛けて誓約書を投げる。胸元にあたると太ももに落ちた。
「物事には体面が必要だ。それがどれだけ不法であくどい手段を取ろうとも、体面と大義は何より人の行動を正当化してくれる」
「過程で何が起ころうと、構わないって口調ね」
「そう言っているのが、わからないお前ではないだろう?」
ノック音。レイは立てかけた剣を握り警戒する。しかし、勇者はそれを制した。
「入れ」
ドアが開かれ、男が入ってきた。
「私の古い友人だ。私の作戦に協力してくれることになった」
黒のロングコート。黒い手袋。黒のスラックス。老人の顔に黒いハットが載っている。老人はハットを傾けると、レイの横を通って勇者の前に立つ。
「お懐かしいですね。また貴方とお会いする機会に恵まれるとは」
老人は勇者に手を差し伸べる。握手を交わすと、早速勇者は誓約書を老人に差し出した。
「これを世間に広めてくれ」
老人は手紙を受け取ると、文面に目を走らせる。満足そうに頷くと、老人は懐にしまう。
「お預かりします」
「頼んだ件は、任せてもいいな」
「ええ。お任せください。……それでは、失礼します」
老人は会釈をすると、勇者に背中を向ける。
「魔王陛下も、どうかお元気で」
「私を知っているの?」
レイの疑問に、老人は微笑で応えた。
彼の姿が消えると、室内は静けさで包まれる。先に口を開いたのは、勇者だった。
「魔王討伐の際に資金提供をしてくれた連中だ。奴らの仕事を手伝った縁で知り合った」
「どうも怪しげな連中みたいね」
「国の貴族以上に権力のある連中さ。商人の連中をまとめ上げ、あくどい仕事にも金となれば躊躇なく手を付ける。奴らのおかげで高い地位に上り詰めた貴族も多くいる。なるべくなら関わり合いになりたくはなかったが、こうなってしまった以上背に腹は変えられない」
「彼らに何を頼んだの?」
「……この国の頭を、そっくりそのまま入れ替える。軍事と侵略に傾きすぎた国を、もう一度市民のための国に戻す時がきた」
「その変革を彼らの任せたというの?」
「もとより奴らは時期を窺っていた。前王までは組織とのつながりはあったが、彼が亡くなってから組織は爪弾きにされた。俺は国を変えたい。奴らはもう一度国の運営に一枚噛みたい。利害は一致、すぐに取り掛かってくれると確約してくれた……王が即位してくれていれば、彼一人の死でことが済んだはずなんだがな」
「その一人を殺すのに覚悟をするのに時間がかかったのは、どこの誰かしらね」
「茶化すな」
「茶化したつもりはないわ。ただ事実を言っているだけよ」
レイは肩をすくめる。
「それじゃ、私はもういくわ」
「もう行くのか」
「ええ。まだやることは残っているし、ここでのんびりしてても仕方ないから。じゃ、病人は病人らしく、体調を整えることに専念してなさいな」
ひらひらと手を振ってレイは部屋を出る。が、その足は廊下に出たところで直ぐに止まった。
「……約束は覚えているわよね」
「ああ。無論だ」
「そう……それじゃ、もう行くわ」
レイはわずかに頬を緩める。そして足を動かした。
遠ざかる足音は、もう止まることはなかった。
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