第54話
ガラニア中央病院、305号室。白い壁が四方を囲む。開かれた格子のついた窓。風が吹き込み、カーテンが揺れ動く。病室にはベッドとベッドチェストがあるだけで、目立った家具はない。
ガトーは一人だった。たった一人の病室から、流れ行く街の日常を、窓から呆然と眺めていた。
部屋のドアが開いた。入ってきたのは看護師だ。白いロングドレス。白い頭巾で髪をまとめ、口には布マスクをつけている。
いつもの検査だ。体温を測り、症状を聞くだけの時間。ガトーが他人と交わる数少ない時間だが、さりとて会話というものはないもない。同じ文句を同じ口調で、同じ声量ではきだすだけ。まるで人格のない何かと話しているようだと、ガトーは思った。
看護師は慣れた足取りでガトーのもとへやってくると、座椅子をベットのそばに置く。挨拶の一つもしないうちに、彼女は椅子に腰を下ろした。
「今日は、いい天気だな」
何気なく、本当になんの気もなくガトーは言う。他愛のない会話。病室で過ごす退屈な時間を少しでも色をつけることができたら。それくらいしか、彼は考えていなかった。
看護師は応えなかった。手をマスクに伸ばしていく。その仕草はごく自然で、何の不審さもない。ただマスクの下から現れた顔に、彼の日常は崩されることになった。
「ハーイ、ガトー大将さん」
看護師はにこりと微笑んだ。その笑みにガトーは凍りついた。ここにいるはずのない顔が、生きているはずのない顔がそこにあったから。看護師は頭巾を取り、長い金髪を解いていく。
「そんな驚かなくてもいいでしょ? せっかく会いにきてあげたんだから」
ガトーは直ぐに動こうとした。逃げなければ。どこでもいい、どこか遠くに逃げなければ殺される。そう思った。だが動くことはできない。首筋にあたる冷たい感触。視線をそっと動かす。ナイフに光が反射している。
「まあまあ落ち着きなさいよ」
「生きて、いたのか?」
「ええ。おかげさまでね。玉座の間ごと私たちを生き埋めにしようなんて、ずいぶんなことを考えたものね」
「どうやってあそこを出た。逃げる場所などなかったはずだ」
「逃げはしなかったわよ。そんな時間もなかったしね。だから、下に穴を掘って、難を逃れたの。まあが入り口に落ちてきちゃったもんだから、しばらく動くに動けなかったけど」
「穴だと? そんなもの発見されたのとは一言も」
「瓦礫が隠してくれたのね。もしくは、あなたの部下が仕事をしなかっただけかも。熱心に捜索しているわけじゃ、なさそうだったから」
ナイフの切っ先をガトーの首筋にそっと這わせる。鋼の冷たい感触。背筋に悪寒が走った。
「あなたに会いにきたのは、ちょっとしたお願いがあるのよ」
「願い、だと?」
「ええ。ここにあなたのサインを書いて欲しいの」
レイはポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
「なんだ、これは」
「読んでみればわかるわ」
ガトーは目を動かして、文面を読んだ。
「……ふざけているのか?」
そこに書かれていたのは、ガトーの目を疑わせた。
魔王城の所有権の放棄。
魔族への攻撃を禁止。
勇者を国家の運営に携わせること。
そして何より、異世界への侵攻を恒久的に禁止とすること。ガトーにとって何よりの不可解な条項だ。ガトーは眉根を寄せて、不可解さを隠そうともしない。
「もう他の議員や官僚には話を通したわ。そこにサインが書かれているでしょ?」
誓約書にはいくつもの名前が書かれている。ガトーとともに国を支えてきた者たちの名前が。
「話をつけた? 脅したの間違いではないのか」
「まあ、そう言えなくもないわね。でも最後には納得してくれたわ。嬉しくて涙を流す奴もいたくらいよ」
「ほざけ。貴様に恐怖して、涙を流したんだろうが」
「涙であることには変わりないわ。嬉しいか悲しいかなんて、本人以外には関係のない話でしょ。それに、今はそんなこと関係ない」
ナイフに力が込めらる。
「今直ぐサインをしてくれるなら、命までは取らないであげる。でももし、私の頼みを聞けないんだったら、ベッドを真っ赤に染めてしまうかもしれない」
「殺すのなら、さっさと殺せ。私は貴様の言いなりにはならない」
「あらそう。それは残念ね。あなたの家族がどうなってもいいと言うのね」
「……貴様」
「可愛い娘さんがいるようね。マーシーって可愛い名前じゃない。それにキャサリンっていう綺麗な奥さんもいる」
「家族には、手を出すな」
「これから死ぬ人に関係のない話でしょう? 家族を守ることよりも、自分のプライドを優先したのだから」
ナイフが首の皮を切る。そして肉を少しずつ貫いていく。痛みがゆっくりとやってきた。ガトーは苦悶に歪む。
「一応もう一度聞くけど、サインをしてくれないかしら? そしたら、家族の元にも行けるし、貴方も苦しい思いをしなくて済むのだけど?」
「こ、この……悪党が……」
「自分たちの平和を守るためなら、悪党にでも化物にでもなる。それはあなたたち人間だって同じでしょ?」
レイは笑みを絶やさないまま、ゆっくりとナイフを刺していく。意識が朦朧となりながら、執拗な痛みが彼を襲う。プライドか家族か。両方を天秤にかけながら、思考を巡らせる。
「……わ、わかった」
ナイフが首を貫通する、その間際。ガトーは答えた。ナイフはガトーの首から取り出され、傷口は直ぐに塞がる。血の匂いが鼻をついたが、息ができることの安堵の方が強かった。
「聞き分けのいい人間は好きよ」
レイが笑った。ひどくさめざめとした笑みだと、ガトーは思った。
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