第36話
勇者は佐々木家を離れ、坂道を降った。
外灯もない夜道は、すっかり闇に閉ざされている。足元に注意しながら、勇者は歩き進んでいく。
と、目の前に明かりがポッと、突如として現れた。鬼火にも見えるそれは、風にあおられ揺れ動く。それは魔法によって作られた灯りであり、その術者たる者は、鬼火の下に立っていた。
「勇者殿」
鬼火の下から、男の顔が現れた。鋼鉄製の鎧をきた男は、かぶとをとって、勇者に顔をみせる。
見慣れた兵士の男。勇者は名前は知らないが、彼の顔はよく覚えていた。
「わざわざすまないな」
「いえ。そんな手間ではありませんよ」
兵士は肩を竦めながら、頬を緩めた。
勇者が兵士とこうして顔を合わせているのは、定期報告のためである。
主な内容には魔王の動向。攻撃の意思の再発。それ以外に魔王の一つ一つの変化を、週に一度報告する。
勇者は座標と次元数値の廃棄を希望していたが、国はそれに取り合わなかった。その代わり勇者に魔王の観察の名を与えたのは、盟約を伝えてから二ヶ月ほど経ってからだった。
「その後の魔王の様子は、いかがですか」
「変わりない。いや、ここ最近は体力が余って仕方ないようだ」
「そいつはおっかないですね。で、こちらを攻め入ろうとする様子は……」
「今のところ見られないな。あいつも、この辺りの生活を気に入っているらしい」
「そうですか。ここの平民として暮らしてもらえれば、こっちとしても良いんですがね」
「まったくだ。これ以上の平和はない」
兵士は鬼火の下でペンを走らせ、紙に勇者の言葉を記録していく。
「勇者殿の方は、その後変わりありませんか」
「ああ。すこぶる調子がいい」
「そいつはよかった。腕の方は鈍っちゃいませんか?」
「魔王との手合わせのおかげで、その点も大丈夫だ。有事の時も、問題なく動ける」
「頼もしい限りです。他に、何か妙な点はありませんか」
「ない」
ペンが止まり、兵士は顔を上げる。
「ありがとうございます。ああ、そうだ。お帰りになる前に、こちらをお持ちください」
兵士は足元の紙袋を、勇者に差し出した。
「実家で作った自家製のパンです。佐々木ご夫妻にお渡しください」
「おお。そうか」
勇者は袋を受け取ると、早速中身を改める。
丸々とした茶色いパンが、五つほど袋につめられていた。
「佐々木さんも喜ぶだろうさ。お前の所のパンは、旨いからな」
「いや、それほどでもないですよ」
まんざらでもないのか。言葉では謙遜するが、顔には得意げな笑みを浮かべていた。
「お前の方はどうだ。その後、国の方でなにかあったりしなかったか」
勇者が何気なく問いかける。
これと言った思惑があったわけではないが、思いがけず、兵士の顔色が変わったの気がついた。
「……いえ、別に。なにもありません。魔王がいなくなったおかげで、こっちは暇で仕方ありませんよ」
兵士は笑って見せると、報告書を脇に挟み、勇者に背中を向ける。
「それじゃ、また来週お伺いします。ああ、パンの感想、よかったらお二人に聞いておいてください。もし良い反応をもらえたら、また作って持ってきますから」
勇者の返事を待たずに、兵士はそそくさと転移門の中へ入っていく。
鬼火が彼の後を追って転移門にはいると、門は閉じられ、辺りは再び闇に閉ざされた。
兵士の態度の変化。逃げるような突然の帰還。
色々と気になる点があったものの、今となっては確かめる術はない。
しかし、妙な胸騒ぎが、いつまでも勇者の心をざわつかせていた。
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