第34話

 倒れたレイをレイモンドが運び、ジャンと恭子は日陰で彼女の看病を始める。


 英子は勇者に最後のスポーツドリンクと、塩飴、それに濡れたタオルを渡す。


「ありがとう、ございます」


 勇者は日本語で感謝を伝えながら、ペットボトルの蓋を開けた。


 彼の日本語は少しのぎこちなさを除けば、コミュニケーションは十分に取れる。

 不断の努力と、元からの素質によって、レイよりもいち早く日本語を習得して見せたのだ。


 回復魔法を唱え、体刻まれた傷を一つずつ治していく。

 その様子を、英子はじっと見つめていた。


「暑い中よくやるわね」


 英子が呆れた口調で言う。


「やらないわけにはいきませんよ。魔王との盟約ですし、俺としても、奴には恨みがありますからね」


「それにしても、やけに気乗り薄に見えるけど?」


 英子の一言に、勇者はぽかんと口を開けた。


「どうして、そう思うんですか?」


「なんとなくね。戦っているあなたを見ていると、そう思うのよ」


「俺の、姿ですか」


「ああ、もちろん素人が勘でものを言っているだけだから、違ったら言ってちょうだいね。謝るから」


「いえ、謝られることは……」


 遠くで走る車の音。

 風に擦れる木の葉の音。

 鳥たちのさえずり。

 セミの泣き声。


 さっきまで戦闘にかき消されていた音が、二人の沈黙の間に、そっと響いてくる。


「……確かに、一年前よりは、そうかもしれません」


 勇者がポツリと言う。


「やる気が、なくなってきたの?」


「そうかもしれません。一年前より、戦意が薄くなっているのを、自分でも感じています」


 額から落ちる汗を、濡れタオルで拭う。

 それからスポーツドリンクを飲み込むと、一つ息をついた。


「もちろん魔王を許した訳でも、復讐心がない訳でもないのです。今でのあいつの顔をみると、怒りがこみ上げてきますし、殺してやりたいとも思っていますよ」


「でも、戦意が薄れていっているんでしょう?」


「ええ。不本意ながらね」


 空になったペットボトルを握り潰す。


「殺したくても殺すことができない。そんな憎むべき相手がいた時、英子さんなら、どうしますか?」


 そう聞いた時、勇者はハッとした。

 平和の中に生きる人間に、聞くべきことではない。

 咄嗟にそう思い、すぐに訂正しようとしたが、英子は構わず口を開いた。


「そうねぇ。忘れることにするかもね」


「忘れる、ですか」


「ええ。あくまで私の場合だけどね」


 英子は肩を竦め、青空を見上げる。 

 青々とした空に、大きな白雲が西から東に向かって流れていく。悠々とのんびりと。二人の人間を見下ろしながら。


「もしも勇者くんのように、殺してやりたいほど憎む奴がいた時、私だったら、忘れる努力をするかもね。その人が私にやってことも、私がその人に抱いた感情も、全部、過去においてくるの」


「それは、逃げると言うことですか?」


「そうね。逃げよ、逃げ。情けないと思う?」


「い、いえ。そう言うわけでは」


「こればっかりは、生まれた世界が違うから、なんとも言えないわね。もしも、貴方たちの世界に生まれていたら……ううん、たとえ生まれていたとしても、多分、忘れることに専念するかもね」


「……理由をお聞きしても?」


「簡単よ。その人のために、私がエネルギーを使いたくないから」


「エネルギー……」


 勇者は同じ言葉を繰り返してみたが、うまく理解につなげることができなかった。それは、英子でもなんとなくわかった。


「憎しみに囚われて、怒りに囚われていると、そのことばかり考えるようになるでしょう? あいつは許せない。いつか殺してやる、殺してやるって」


 ビッチャーに入った氷が、麦茶の揺れに合わせてカラカラと揺れる。心地のいい風が、二人の頬を撫でた。


「でも、それってすごく疲れると思うの。たとえ大切な人を殺された恨みがあるからって、殺した奴を殺しても、その人が戻ってくる訳じゃない。恨みを晴らすことにかかりっきりになって、死んだ人を思うことを忘れてしまっては、もとも子もない。って、そう思うわけ」


 勇者は、ただ黙って聞いていた。


「私が非力だとか、力があるとか。そう言うのは関係なくて。自分が何を大切に思っていたか。それが怒りと憎しみ、殺意によって飲み込まれてないか。よくよく考えるために、忘れることにするのよ」


 英子は麦茶を一口含み、乾いた喉を潤す。


「ごめんなさいね。長々と語っちゃって。もちろん、違うと思ったら忘れてくれて構わないから。平和ボケした日本人の戯言だと思って、聞き流してちょうだいね」


「い、いえ。ありがとう、ございました」


 英子は微笑むと、立ち上がってキッチンの方へ歩いて行った。


「おやつでも用意するから、レイちゃんたちにも声をかけてちょうだいね」


「はい」


 勇者は返事を返したが、彼の顔は縁側から庭を向いたきり、英子に向けられることはなかった。

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