第20話

 その家は、佐々木家から坂道を登った先にあった。

 佐々木家の玄関を出て、道を左に折れた道。細い坂道が続いている。


 一見の農家があるだけで、他に目立った建物はない。

 道の左手には山の斜面。左手には、青々とした水田が、段々で並んでいる。


 コンクリートで舗装された道は、次第に砂利道に変わっていく。水田は遥か後方になり、雑木林の枝葉が天井を覆っている。


 木漏れ日が地面を照らし、そよ風が吹くたびに、影が地面で踊っている。

 踏み締める足音。

 レイとレイモンドは、黙々と進む。


 すると、家が見えていた。木造平家の素朴な家だ。

 物置らしき小屋が一つ。住居らしい横長の家が一つ。竹の囲いが家の周囲に建てられている。人の気配はない。それも、昨日今日人がいなくなったわけではなさそうである。


 荒廃した家屋。レイの目にはそんなふうに見えた。

 傾いた雨戸。崩れた屋根。玄関に散らばったガラスの破片。家のあちこちから臭う、獣の匂い。いつ崩れてもおかしくはない。そんな危険をはらんだ、廃墟だった。


「こちらです」


 レイモンドが敷地に入り、玄関に手をかける。

 ガラスの破れた引き戸。ガタガタと音をたてて、久しぶりの来客を家に招き入れる。


 中は埃とカビの匂いで満ちていた。レイはジャージの袖で鼻を覆いながら、中に足を踏み入れる。


「数年前に老人が一人で暮らしていたようですが、忽然と姿を消してしまったそうです」


 土間には台所があり、黒ずんだかまどがひっそりと佇んでいる。靴を履いたまま家に上がり込むと、レイモンドは注意しつつ廊下を進む。


 足を踏み出すたびに、ギシギシと床が軋む。

 床が抜けるのではないか。そんな心配をしながら、二人は奥の座敷へとやってきた。


 狭い部屋だ。六畳ほどの部屋に、綺麗に畳まれた布団。毛布。

 ネズミか、それとも猫か。畳には小さなフンがいくつも転がっている。


「陛下、見てください」


 座敷には、戸棚が二つ並んでいる。レイモンドが引き出しを探っていると、一枚の紙片を見つけた。


 レイは紙片を受け取り、あらためる。驚いたことに、そこに書かれていたのはアレンの文字だった。


『親愛なる魔王陛下へ』


 そんな言葉から、文章は始まっていた。


『私がこの世界を発見したのは、陛下が生まれるよりずっと以前のこと。転移魔法の研究、実験をしていたところ、偶然にも発見いたしました。豊かな土壌。有り余るほどの水。そこに住う争いを知らない人間達。私は驚きました。こんな世界が本当にあるのかと。夢でも見ているのかと』


『陛下(貴女さまのお父君でございます)に許可をいただき、私はしばらくの間この世界で暮らしていました。この世界の言葉を覚え、そしてこの世界の人々と共に生活を送りました。陛下の新たな別荘にと当初は思っていたのですが、陛下よりも先に私の方が、よりこの世界に愛着を持ってしまいました』


 一枚目が終わり、二枚目に入る。


『もしも陛下がこの文書を発見し、お目に通したとすれば、それは我々魔族に何かのっぴきならない事情があったのでしょう。そして、私は陛下の身をお護りするために、ここへ送り届けた。さすれば、私はもうこの世にはおりますまい。私のことだ。きっと陛下を送り届け、一人しんがりを勤めていることでしょうから』


『陛下、許してくれとは言いません。ただ、私の犠牲をどうか自分のせいなどと思わないでくださいませ。私は私の信念と忠義のために、殉じただけなのです。それを責任に思うなど無用なことでございます。陛下はあるがままに生きてくださいませ。それだけが、私の望みなのですから』


 短い文書はそこで終わっていた。


「……アレンの家というのは、本当らしいわね」


「ええ。ここの住んでいた老人の特徴も、アレン様にピタリと一致していましたから」


 レイは紙片をポケットに入れ、家を出る。坂道を降り、元来た道を引き返す。

 

 レイは立ち止まり、振り返る。

 古ぼけた家屋。今にも崩れそうなその家を、レイはじっと、眺めていた。

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