第16話
英子と陽一には、一人息子がいた。
名前は英一。佐々木
英陽は活発な子供だった。何にでも興味を持ち、一度熱中するととことんまでやりたい。そんな子供だった。
勉強もできたが、運動もできた。
両親とも運動は苦手だったから、意外な誤算だった。
小学校、中学校、高校。進学とともに彼の背中が大きくなっていく。そんな成長を、二人は誇らしく思いながら、少し寂しく見つめていた。
「母さん、行ってくるよ」
大学進学のために、都会へと出る日。英陽との会話は、英子は今も覚えている。
「アパートに着いたら、連絡を頂戴。父さんも、心配しているから」
「もう子供じゃないんだ。何度も言わなくたって、わかっているよ」
靴紐を結ぶ息子の背中。その背中は、いつのまにか、英子よりも大きくなっていた。
「私たちにとっては、あんたは子供のままよ」
「いつになったら、子供でなくなるんだか」
「そうねぇ……私たちが、死んでからかしら?」
「縁起でもないこと、言わないでくれよ」
英陽が立ち上がる。もう行ってしまうのだ。
「体には気をつけるのよ」
「わかってるよ。それじゃ」
リュックとキャリーバックを持って、英陽は玄関を出て行った。陽一の車が走り出し、英陽とともに家を離れていった。
「……頑張りなさいよ」
遠ざかる車の背中に、英子がポツリと呟いた。
それから、一年ほど経った。
これから雪でも降り出しそうな、どんよりとした曇りの日。
英陽が死んだとの報せが届いた。
死因はナイフによる手首の裂傷。アパートの風呂場で、瀕死の状態で発見された。
病院に搬送され、賢明な処置を施された。だが、英陽が目を開くことはなかった。
自殺だった。
遺書には交友関係に悩んでいたこと。一人きりになった頃を見計らって、死ぬこと決めていたこと。そんな内容が、コピー用紙に、書き連ねられていた。
二人は病院に駆けつけた。霊安室に寝かせられた、息子の姿。顔には白い布がかぶせられている。
布をとってみれば、そこには青白い英陽の顔がある。
眠っているような、安らかな顔だ。だが、ピクリとも動かない。まるで彫像のように、青白い息子が横たわっているだけだった。
陽一と英子は、変わり果てた息子を、ただ見下ろすしかできなかった。
告別式。
それから、葬式。
英陽を送るために、二つの式を終えた。
その記憶はおぼろげだった。
英子の前に次々にくる黒服の人間たち。女性も男性も、中には英子よりも年が上の人間まで。
顔。顔。顔。
入れ替わり立ち代わり、様々な人間が、陽一と英子に悔やみの言葉を述べていく。
現実感がなかった。悪い夢でも見ているのではないかと、ずっと思っていた。
だが、何度目覚めても、息子の死がなくなることはなかった。
息子の遺影が仏壇に飾られている。
ものを言わない英陽の笑顔。寂しげな彼に、線香を備える。そうして数日が経つにつれて、じわじわと息子の死が、英子の心に染み込んでいった。
そうだ。息子はもう、この世にいないのだ。葬式から二ヶ月が過ぎた頃。
その頃になって初めて、英陽の死を受け入れられた。
頬をつたう、一筋の涙。どうしようもない悲しみに、英子は咽び泣いた。
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