第15話

 陽一が仕事に出かけた。それから時間を置いて、英子は軍手をつけて、庭の草むしりを始めた。


 昨夜降った雨のおかげで、土が柔らかくなっている。

 今のうちに抜いてしまった方が楽なのだ。と英子は言っていた。


 縁側からその様子を見ながら、レイはぼうっとしていた。

 ここのところ、彼女からめっきり気力が失せていた。


 ジャンの一言が直接の原因かもしれない。しかし、その兆候はもっと以前から。彼女がこの世界に降りてきてから、徐々に心を蝕んでいた。


 ここは魔王も、魔族も、勇者も存在しない世界。概念はあるらしいが、それは現実のものではなく、幻想の中に生きるだけの、価値のないものだ。


 物語上の存在。子供から大人になるにつれて、忘れられていく存在。そんな世界で魔王と名乗ったところで、一笑に伏されるのがオチだろう。


 実際に魔王の力を見せつければ、魔王の存在を認めるかもしれない。

 人間を爆破によって肉片に変え、建物を一瞬にして廃墟に変え、何もないところから、炎を立ち上らせる。


 魔王は化物という括りに入れられ、この世界の何者かに注目を浴びる。

 そして世界は、戦禍に晒される。


 予想ではない。経験則から来る、当然の帰結である。だが、そんなことをするつもりもなかった。


 ここには彼女が復讐すべき、人間はいなかった。


 顔も、目の色も、肌の色も、話す言語も。

 全く違う別の人間がいるだけだ。

 それが佐々木陽一であり、英子であり、ここに暮らす人々なのだ。


 そんな相手に、一体どうやって奮い立てばいいのだろう。

 レイは考える。だが、答えはいつも否定と諦めに染まっていた。


 戦う必要はない。奮い立つ必要はない。

 復讐は忘れればいい。その方が、ここではうまくやっていける。


 抵抗を忘れ、心は波打つことをやめた。


「……これが、諦めか。ジャン」


 レイは呟く。


「どうしたの? うかない顔をして」


 すると、英子がレイの顔を覗いてきた。


 なんでもない。そう言いたげに、彼女は首を横に振る。


「……隣、座っていいかしら?」


 英子は微笑みながら訊いてくる。レイは少し迷ったが、うなずいた。

 英子は軍手を取りながら、縁側に腰を下ろした。息を漏らし、土で汚れた鎌を地面に下ろした。


「どう? ここでの暮らしも、少しはなれたかしら」


 汗を拭い、英子はレイの顔を見る。少し慣れたかもしれない。レイは、うなずいた。


「そう。それはよかったわ」


 英子はまた笑った。

 よく笑う女性だ。元の性格が明かるいのか。それとも、何事も笑うことで乗り切ってきたのか。英子の笑顔には、なんとなく気丈さを感じた。


「……実はね。最初は、貴女をここにいさせるのを、反対していたの」


 レイは、英子の顔を見た。


「外国の子供を居候させるなんて、そんなの無理に決まってる。養育施設に預けるべきだ。何も私たちが世話をしなくたっていい。……貴女が眠った後、主人に言ってやったの」


 英子は笑った。けれど、その笑みはどこか弱々しい。


「でも、結局主人に負けて、貴女をあずかることにした。勘違いしないで欲しいんだけど、今は貴女を預かってよかったと思ってるわ」


 英子の手が伸びて、レイの頭に触った。サラサラの金髪。彼女の髪を、英子の手が優しくなでる。


「言葉の壁なんて、些細なものよ。ここにいる限りは、貴女は私の子供だし、主人もそう思っている」


「……ドウシテ?」


 英子は目を見開いた。

 レイの声。レイの言葉。それを、初めて聞いたからだ。


「ドウシテ、コドモダト、オモウ?」


「……どうして、かしらね」


 英子の目が泳ぐ。言葉が詰まった。困ったような笑みを浮かべる。


「……二人だけの、秘密にしてくれるかしら?」


「ワカッタ。ヒミツ、スル」


 レイがそう言うと、英子は、少しだけ笑った。


「貴女は、私たちの息子の代わりなの」

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