第12話
レイは布団に寝転がって、天井を見上げていた。全てのことが終わった、退屈な時間。しかし、思考を整理することができる、大切な時間だった。
覚えた日本語。
覚えた場所
地名。
景色。
その一つ一つを、記憶として定着させる。
「……お客さんが来たわよ」
障子越しに英子の声が聞こえてきた。起き上がると、障子戸が開いて、英子が見知らぬ男を連れて入ってくる。
「それじゃ、私は席を外しているわね」
英子は男を座敷に残し、出ていった。障子戸が閉まり、彼女の足音が遠ざかっていく。
「……お久しぶりです、陛下」
聞き覚えのある声だった。
「ジャン……」
ジャンは微笑んだ。そして、うなずいた。
「だいぶ、歳をとったようね」
「ええ。ざっと、100年ちょっとと言ったところですか。……陛下は、相変わらずお美しいですな」
「100年……そんなに経つの」
「転移の際におよそ手違いがあったのでしょう。まあ、私にとっては、それほど長い年月ではありませんでしたがね。それより、陛下は相変わらずお美しい様子で」
「こっちにきてまさ日が浅いからね」
「そうですか。どおりでどこを探してもいない訳だ」
ジャンは腰を下ろすと、あぐらをかいてレイに体を向ける。
「どうして、私がここにいるとわかったの?」
「陛下の魔力は特別ですからね。こちらに来臨されればすぐにわかります。ああ、先程英子さんに、私が作ったワインを渡しました。よろしければ後ほどご賞味くださいませ。若いワインですが、味の方が保証いたしますよ」
「ワイン? お前が作ったの?」
「ええ。正確に言えば、従業員たちが作ったのですが。これが今の私の身分です」
そう言うと、ジャンはスーツのポケットから名刺入れを取り出した。レザー製の名刺入れで、革独特の光沢がある。その中から名刺を一枚取り出して、レイに手渡した。
『神宮寺洋酒 社長 神宮寺
達筆な文字で身分と姓名が書かれている。ただ、残念ながらレイにはまだこの文字は読めなかった。
「神宮寺篤人。それが私の今の名前です」
「じんぐうじ、あつんど……なかなか面倒な名前ね」
「自分でもそう思います。他に目がある場合のみ、神宮寺と呼んでくだされば、よろしいかと」
「覚えておくわ」
レイは名刺を布団の脇に投げた。
「こちらでの生活は、慣れましたか?」
「まあ、なんとかね」
「それは結構です。ここは実にいいところですよ。平穏と退屈で満たされている。長く争いの中にあった我々には、絶好の休息地になりましょう」
ジャンは言う。
レイはわずかに頬を緩めたが、表情は浮かないままだった。
「……何か、心配事でも?」
ジャンがおずおずと尋ねる。
「心配事というほどではないの。ただ、このままこの世界にいるしかないと思うと、少し憂鬱なだけ」
「元の世界に帰還なされたいのですか?」
「出来るものなら戻りたいわね。戻って、アレンの仇をとってやりたい。あの勇者の首を、アレンのためにとってやりたい」
「お気持ちはお察しします。ですが……」
「ええ、わかってる。それができない事はわかっている」
転移魔法はレイには使えない。膨大に魔力を消費する上、座標に送り届けるために精密さも要求される。
転移に魔力を使うよりも、戦闘において使った方がいい。レイはそう考えて、習得することをしなかった。こうなるなら覚えておけばよかった。今になってレイは思うが、今更後悔したところでもう遅い。
「陛下、私の口からいうのは忍びありませんが、時には諦めることも重要ですよ」
レイはジャンの方は見なかった。それでも、ジャンは言葉を続けた。
「私たちは負けたのです。アレン様はせめて陛下だけでも守ろうと、転移の魔法をお使いになったのです」
淡々と。ジャンは感情を浮かばせずに、話し続ける。
「どうかアレン様の意思を汲んでくださいませ。幸いここは魔族どころか、勇者側の人間は誰一人いません。平和と平穏に溢れた世界です。ここならば、健やかに余生をまっとう出来るでしょう」
「余生、か……」
「貴女様が魔王であられることに変わりありません。もちろん、私やレオナルドの忠誠も変わる事はありません。ですが、ここはあちらとは違う。私たちが戦う理由もなければ、憎き勇者たちもいないのです」
置き時計の鐘が七時を告げた。
「それでは、私はそろそろお暇させていただきます」
ジャンは立ち上がり、障子戸を開ける。
「……諦めてこの世界に染まる事です。その方が、この世界ではうまく生きていけますよ」
ジャンはそう言い残すと、障子戸をピシャリとしめた。
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