二章

第10話

 次の日から佐々木家での生活が始まった。

 蔵と呼ばれる物置の場所。佐々木家の内部の様子。足を運ぶであろう場所に英子がレイを案内していく。先頭を英子が行き、その後をレイモンドとレイがついていく。英子の言葉を逐次レイモンドが訳し、レイに伝えていく。レイはつまらなそうに、そして不服そうに聞いていた。


 半日足らずで家の周囲を回り終えると、今度はレイに対しての日本語教育が始まった。


 座敷に座卓と座布団が用意される。講師はレイモンド、生徒はレイ。絵本と小学生用の教科書。五十音表を用意する。言葉くらいすぐに覚えられるだろう、そう思っていたレイだったが、日本語との難しさは想像を超えていた。


 ひらがな。カタカナ。漢字。

 ローマ字。英語。

 

 似たようでまるで違う言語を、読みと形を覚えていかなければならない。そして日本語をより難解にしているのは、日本人独特の空気というものだ。


 彼らは多くを語らない。言葉と態度からにじませる意図と空気を感じ取らなければならない。レイには理解ができなかった。言いたいことがあればハッキリと言う。それが当たり前であり、かつ当然のものと思っているからだ。


 レイモンドもその意見に賛同した。しかし、ここではそれは反感と批判を買うだけであるとも言った。

 空気を読む。相手の意図を慮る。

 それが日本人にとって、何より重用するものなのだ。


「馬鹿馬鹿しい……」


 レイは教科書を座卓に投げた。


「まどろっこしい生き物ね、ここの人間は」


「ええ。かなり面倒な人種ですよ」


「よく平気でいられたわね。私だったら、すぐにでも殺してしまいたくなるわ」


「お気持ちはわかります。幸いなことですが、このあたりの人間はまだマシな方です。温厚であり、争い事を好まない。優しさと同調の監視は時折ありますが、それに目をつむれば、静かに生活を送れる絶好の場所ですよ」


「どうもそうは思えないけど」


「時期にご理解できる時がきますよ。すぐにでもね」


「そんな時がくる前に、さっさとここを離れたいものね」


 レイは立ち上がり、障子戸を開く。


「どちらへ?」


「庭を歩いてくる。ちょっとの休憩よ、すぐに戻るわ」


 障子を閉め、廊下を進む。右手の玄関からサンダルを履いて、外に出る。


 午後の陽気が天から降り注いでいる。時折風が吹いて、洗濯物が揺れ動く。風に吹かれるままに、レイの足は庭をぐるりと周り始める。


イチョウの木。

ゆずの木。

椿の生垣。

かりんの木。

金木犀。


 庭には様々な木々が植えられ、そのどれも鮮やかな緑に染まっている。家の裏には、裏山があり雑多に木々が植えられている。陽一の祖父が植えたものだと、英子が言っていた。


 家の裏は日当たりが悪く、昼間でも少し涼しい。軒下の影を伝って、レイは歩いていく。


「お散歩かい?」


 裏山から声が降ってきた。顔を上げると、電動の草刈り機を持った陽一が、彼女を見下ろしていた。


 白い作業着に身を包み、手には軍手を、首にはタオルを巻いている。日に焼けた肌から、大粒の汗が流れている。レイが返答に困っていると、陽一は草刈機の電源を落とし、坂道を降ってくる。


「……ありゃ、草をかぶっちゃったみたいだね」


 陽一の手がレイの頭に伸びる。髪にそっと触れた。彼女の髪のかかっていた葉っぱをとってやる。


「これでよし。ごめんね、気づくのが早かったら注意できたんだけど」


 陽一は微笑んだ。だがレイは表情をかえなかった。ふん、と鼻息を吐くと、そそくさとその場を後にする。


「……なれるのには、時間がかかりそうだな」


 彼女の背中を見つめながら、陽一はポツリと呟いた。

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