第8話

「馬鹿なことを言うな!」


 怒声が座敷に響き渡る。陽一がいなくなった後、レオナルドから話を聞き、レイはようやく当事者となった。彼女の罵声を浴びながら、レオナルドは頭を下げ続けた。


「人間の家に住むなど、そんな屈辱を、私に味わえと言うのか!」


「一時ばかりの辛抱を。ここであれば御身に危険が及ぶのも少ないでしょう。どこともしれない野山で陛下を休ませることこそ、危険が付きまとうでしょう」


「ならば、お前の家に住めばいいだけだ」


「あいにく、私の家は陛下をお泊めする余裕はございません。ここは、どうか溜飲をおさめてくださいませ」


 レイモンドは言う。しかし、どれだけ彼が宥めようとレイの機嫌は治りそうにない。気まずく重苦しい空気が流れる。どうにか説得を試みようとレオナルドが苦心している、ふと女性が訪ねてきた。


「あの……ちょっといいかしら……?」


 障子戸が開いた。そこから女が入ってきた。


 佐々木英子。陽一の妻だ。年齢は四十二歳。頸まである黒い髪。少し日焼けした肌。丸い垂れ目は温厚そうな印象を与えてくれる。ジーパンに黒と灰色のチェック柄のシャツ。動きやすそうな格好が実に似合っていた。


「着替えを持ってきたから、今日はこれを使って頂戴。私のお古なんだけど、そこは我慢して頂戴ね」


 両手に抱え持った衣服を、畳に置く。チェック柄のピンクのパジャマだ。


「何だか深刻そうな雰囲気だったけど、大丈夫?」


「ええ。事情を説明していたら、お嬢さんが取り乱してしまいまして」


「あら、そうだったの?」


 ちらり、英子の目がレイを捉える。


「心配しなくていいのよ。別に何もしやしないわ。そう伝えて頂戴」


 にこりと微笑みながら、英子は言う。


「伝えておきます」


「ありがとう。それじゃ、江口さんも一緒に夕食をとって行って頂戴。知らない人が一緒に食べるより、知っている人のそばで食べた方がこの子も安心するでしょうから」


「ありがとうございます。そうさせてもらいます」


 英子は立ち上がると、すぐに部屋を出た。障子戸が閉まり、足音が遠ざかっていく。


「……くれぐれも騒ぎを起こさないようにしてくださいませ。どこに勇者の目があるか、わかったものではありませんから」


「あの二人が、勇者の手先と考えはしないのか?」


「あの方々は全くの無関係です。この近辺は勇者はおろか、私たちの世界の人間のほとんどは、知らない異世界なのですから」


「……アレンは、どうしてここを知っていたのか」


「それは、私にはお答えしかねます。ご本人に直接聞くのがいいのでしょうが、それはもはや、叶わぬことでしょう」


 レイの脳裏に、アレンの生首が思い出される。赤の上に転がる彼の首が。レイは首を振りながら硬く目を閉じる。薄明かり以外に何も見えない暗い闇。しかし記憶の中にこびりついた光景は、ありありとレイの目に浮かんできてしまう。


「昼間は私が警護にあたり、夜中はジャンがこの近辺を警戒いたします。御身が危険にさらされることは決してありません」


「……だと、いいんだがな」


「信頼には必ずお応えします。……それでは、失礼いたします」


 レオナルドは一礼し部屋を出た。彼がいなくなると、途端に座敷は寂しさと静けさが支配し始める。


 レイは布団に横になり、天井を仰ぎ見る。

 木目の走った、木板の天井。黒々としたシミがついている。その一つ一つがどうしてか、人の顔に見えてくる。


 錯覚だ。ただの幻覚だ。何度もそう思うが、その顔が、アレンの表情に見えてきてならなかった。

 拭いようのない悲しみが、彼女の心を苦しめる。

 両目に浮かんだ涙。それを腕で拭いながら、レイはすっぽりと布団を被った。

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