第4話
あれから三週間が経った。
仕事を終えて電車に乗っていると、人身事故に見舞われた。
二つ手前の駅で電車が止まり、一時間ほど待たなければならなくなった。
途方に暮れた私は一旦ホームへと出て、自販機の前に立った。
と、その時財布の中にしまっていた、あのチケットが目に入った。
夢芝居。スクリーン1。3-4番席。
正直もう一度行く気はなかった。
けれど、このまま何もしないでいるよりかは、ちょっとだけマシな気がした。
改札を出て通りを進み、路地に入る。
今日も夢芝居は営業していた。
玄関を抜けると、カウンターには種田さんがいた。
「ほら。やっぱりいらしたじゃないですか」
ニコニコと笑いながら、種田さんは手を差し出してくる。
来たくて来たわけじゃない。
私はそう言ってやりたい気持ちをグッとこらえて、チケットを渡し、半券をもらった。
スクリーン1。3-4番席。私一人の映画館。
室内が暗転。カウントダウンが始まった。
映画のタイトルは、そのままズバリ『独裁者』。
もはや隠す気もなくなったらしい。
この映画を作った監督は、よほどチャップリンが好きなようだ。
軽快な音楽と共に、画面には映像が映し出される。
だが、私の想像はすぐに裏切られた。
映し出されたのは小さな部屋だった。
畳の六畳ほどの和室。
前作の最後に出てきた、あの安アパートの一室だった。
中心にはちゃぶ台が一つ。西側に窓があり、東側には
奥には布の暖簾がかかっていて、もう一部屋と続いているようだった。
その部屋には、女の子がいた。
歳は五歳か、あるいは七歳くらい。
肩ほどまである、黒い髪。
半袖の着崩れたシャツ。
端々がほつれたスカート。
顔には、あの笑みを浮かべたピエロの仮面を着けている。
絵を書いているらしく、色鉛筆を使って熱心にノートに筆を走らせていた。
『ほら、おやつよ』
セリフが画面に現れる。奥の部屋から一人の女性が出てきた。
水玉模様のワンピース。
その上からエプロンをつけている。
長い黒髪をうなじのあたりでまとめていた。
彼女も、ピエロの仮面を着けていた。
お菓子と飲み物の入ったお盆をちゃぶ台に載せる。
すると、女の子はノートを手放して、お菓子を食べ始める。
壁掛けの古時計が画面に出る。時間は四時を少し過ぎていた。
親子、なのだろうか。
二人はちゃぶ台を囲んで、仲良くお菓子を食べている。
クッキーだ。そう、チョコクッキー。
甘くて、奥歯にチョコチップが張り付いてしまう、美味しいクッキー。
私はいつの間にか、映画に見入っていた。
そして思った。この先を見たくはないと。
理由はわからない。
ただ本能的に、この先を私は望んでいなかった。
『おい』
たった一言のセリフ。
その一言が、私の心臓を鷲掴んだ。
襖が開き、そこから一人の男が入ってきた。
薄汚れた作業着。
首にかけたタオル。
ボサボサの髪。
顔にはピエロの仮面。
男が現れた瞬間、それまで和やかだった空気が、一瞬で凍りついた。
襖のすぐ傍に戸棚がある。
そこから男は一升瓶と湯呑みを取り出して、ちゃぶ台の前に座った。
女性と少女がお菓子を細々と食べる中、男はガツガツを食べて、酒を飲む。
酒が回って、だんだんと男の態度がより横柄になっていく。
男のうろんな目つきが、ワンピースから伸びる女の生足を捉えた。
『来い』
男は女を抱き寄せると、女を連れて部屋を出た。
女の顔は仮面で隠されている。
でも、女の憂いを帯びた視線を、仮面の下から感じた気がした。
男と女が消えて、女の子がポツンと部屋に残される。
女の子は、二人が消えて行った襖をじっと眺めている。
そして何を思ったのか、ノートをちゃぶ台に乗せて、色鉛筆で殴り書き始めた。
カメラの画角からでは、彼女が何を書いているのかはわからない。
けれど私は知っている。どうしてか。それを知っている。
母と自分。
そして、母の横にまとわりつく、黒い悪魔。
口を開いて、いびつな笑みを浮かべた化け物の姿。
黒の鉛筆でガリガリとノートを引っ掻き、彼女は悪魔の顔を塗りつぶしているのだ。
逃げて。今すぐ、そこから逃げるんだ。
私は叫びたかった。教えてあげたかった。けれど、できなかった。
あの時、誰も助けてくれなかった。
だから、きっとあの子も、誰も助けてあげられないのだ。
『なんだ、お前』
画面が暗転し、セリフが浮かぶ。
襖が開いて男が顔を出した。
上着を脱ぎ、ベルトを緩めてた姿で部屋に入ってくる。
『なんだ、そのしけた面は』
男は女の子に歩み寄ると、無理やり押し倒して、馬乗りになった。
『なんだ、何か文句があるのか?』
男の手が平手が、女の子の顔に振り下ろされる。
音は聞こえない。
ただ、女の子が痛がる姿が、画面に大きく映し出されている。
深刻な場面のはずなのに、かかる音楽は軽快で、コメディのままだった。
『そんな目で、俺を見るんじゃねぇよ』
何度も、何度も、何度も。
平手から拳に変わった。
女の子の顔はみるみると
だけど、悲鳴を上げなかった。泣きもしなかった。
ただ男を睨みつけていた。
『なんだ、その面は』
そんな彼女の姿に、男の怒りが焚き付けられる。
机に放られていた女の子の筆箱。
男はそれをひっ掴み、畳の上に中身をぶちまけた。
散りばめられる文房具。
男はその中から、ハサミを手に取った。
『女ってのは、笑ってた方がいいんだ』
男はハサミを開いて持ち、刃先を女の子の顔に向ける。
男の手が、女の子の顎を掴み、無理やり口を開かせる。
女の子は体をよじり、男から逃れようと必死だった。
だが、大人の腕力を、女児がどうにかできるわけもなかった。
きらりと光るハサミの刃。
男は何の
私は目を伏せた。
白黒の映像に、脳の中で色がつく。
畳の緑に飛び散る赤。
男の卑しい笑い声。
痛み、苦しみ、怒り。
女の子の感情が、私の脳を駆け巡り、真新しい記憶になって刻み込まれる。
苦しみもがき、女の子はちゃぶ台の下から廊下を覗いた。
ああ、そうだ。覗いた。
助けを乞うために、私はその先を見た。
廊下の先。
左側の障子戸が開いている。
そこから汗ばんだ、正気のない白い脚が、スッと廊下に伸びているのが見えた。
ああ、そうか。
だから母さんは来てくれなかったのか。
母さんは、それだけの余裕がなかったんだ。
目を開く。男が女の子を見下ろしていた。
残暑の厳しい夕暮れ時。
音は聞こえないけれど、私の耳には確かに、ひぐらしの鳴き声が聞こえていた。
男がゆっくりと私の方へ顔を向けてくる。
肩が動き、首が傾き、あのピエロの仮面が、私を見つめた。
仮面越しに、画面越しに。
私は男と目があった。
男は仮面を掴むと、ゆっくりと取り外していく。
その下から、男の顔が現れた。
やや垂れた細い目。
艶のない肌。
無精髭。
薄い唇。
右頬にある、火傷のような大きな
その男の顔が、私の頭に焼きついた。
映像が暗転し、エンドロールが流れ始める。
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