第3話
結局のところ種田さんに押し切られる形で、チケットを受け取ってしまった。
ため息をつきながら、私は夢芝居を後にする。
チケットは財布の中にしまっておくことにした。
その帰り道でのことだ。
久しぶりに大学時代の友人から連絡があった。
集まって皆で飲まないか。そういうお誘いだ。
もちろん、私は二つ返事でOKした。
場所は学生時代によく使っていた大衆居酒屋。
花の金曜日。仕事終わりに皆が畳の上で向かい合う。
集まったのは、私を含むいつもの四人だった。
櫻井ミキ。二条タマキ。河野アツシ。
あの頃だったら、いつもの、と呼べるくらいには、私たちは気が合った。
久しぶりに皆と会ったけれど、相変わらず元気そうだった。
年相応にシワも増えたけど、会ってみればあの頃と全く変わらない。
気の合う仲間と話すだけの、ただそれだけの時間。
それなのに、数年ぶりに、素直に楽しいと思える時間だった。
唐揚げ。天ぷら。コロッケ。刺身。漬物。
枝豆。手羽先。鯛の煮付け。卵焼き。
ハムサラダ。フライドポテト。
ウーロンハイ。カクテル。
シャンディガフ。
ビール。
料理を食べて酒を飲んで。
時間が経つのも忘れて、私たちは会話に花を咲かせた。
「でも、歳をとるってやぁね、昔のことをだんだんと忘れていっちゃうもの」
三杯目のビールを飲みながら、ミキが言う。
「どうしたんだよ。急に」
アキラが言う。
シャンディガフをちびちびと飲みながら、赤ら顔をミキに向けた。
「いやね、小学校の時の友達とか、今頃何してんのかなぁって、最近思ってさ」
酒のせいだろう。ミキのため息に酒の匂いが混じっていた。
「顔も覚えてないし、名前もうろ覚え。思い出そうとするたびに、思うのよ。ああ、そっか。こうやって人を忘れていくんだなって」
「センチな気分、ってか?」
「お酒を入れれば、センチにもなるわよ。アンタだって、人のこと言えた義理じゃないでしょ?」
「残念ながら、俺は今でも小学校の連中と付き合いがあってな」
「あっそう。そりゃあよかったわね」
ふんっと鼻を鳴らして、ミキはビールを傾ける。
「タマキは、まあ覚えているわよね。小学校から高校までエスカレーターだったんだから」
「まあね。連絡は今でも取り合ってるわ」
「まともに覚えてないのは、私とツグミだけか。……あっ」
ミキが目を見開いた。
そして、私を見てバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。
「ごめん、ツグミ」
「ううん、別に大丈夫だよ」
「そ、そっか。なら、よかった」
楽しかった時間に、わずかにヒビが入った。
言葉が続かず、嫌な沈黙が私たちの間に流れる。
「まあ。人には色々あるってことよ。それより、ほら、残すと悪いし料理食べちゃお」
私は笑みを浮かべて、残った料理に手をつけた。
私の様子をみて、三人ともホッと安堵のため息を漏らした。
そして再び会話が弾んで、その日は楽しいままお開きになった。
◇
私には、幼少期から小学校までの記憶がない。
幸いこの欠落のせいで、ひどい目に遭ったことはなかった。
あるとすれば、人に妙な気遣いを受けること。
ちょうど、ミキやアキラやタマキのように。
気まずい沈黙と、哀れみの視線。
私を見る人達は、皆、同じ目を向けてきた。
その目と態度が、私は嫌いだった。
だから、心を許した人だけに、私の過去の欠落を受け止められる人だけに、この秘密を打ち明けるようにしている。
この事を知っているのは限られた友人と、私の母だけ。
その母は、とっくの昔にこの世から旅立ってしまった。
母についての記憶はあまりない。
思い出せるのは、病院のベッドに横たわる、萎れた女の姿。
過労と性病によって体を悪くし、寝たきりになった女の、痩せ衰えた顔だ。
私が中学校に入学する頃。母は私の制服姿を見ることなく、死んでいった。
会話をすることも、一緒にどこかへ出かけることもないまま。
いや、もしかすればそういうこともあったのかも知れない。
私が、憶えていないだけで。
母が、教えていないだけで。
母と呼ぶには、あまりに希薄な彼女との関係と記憶。
私は母の苦しみも、痛みも、何ひとつ知らないまま生きている。
あの頃も。
そして、これからも。
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